タイプ
論考
日付
2010/7/13

日本語教育基金プログラム寄稿「イモムシ」

 東京財団は「日本語教育基金プログラム(NF-JLEP)」の運営を通して、海外における日本語の推進を行っています。このプログラムでは、日本財団が世界6カ国8大学に各々150万ドルの基金を提供しており、各大学は、その運用益を使って、日本語を学ぶ学生への奨学金、現地日本語教師の研修や研究助成、教材開発、カリキュラム開発に係る事業を行っています。
 この度、トルコ、チャナッカレ・オンセキズ・マルト大学の研究助手、ニライ・チャルシムシェクさんに、2009年7月の日本語教育国際研究大会で発表されたご研究をご紹介いただきました。ニライさんは、名古屋大学文学研究科の博士課程に留学中、「日本語教育基金プログラム」による奨学金を1年間取得しました。

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ニライ・チャルシムシェク
チャナッカレ・オンセキズ・マルト大学
教育学部日本語教育学科 研究助手
Nilay Calsimsek
Research Assistant
Department of Japanese Language Teaching, Faculty of Education
Canakkale Onsekiz Mart University


イ モ ム シ

『芋虫』の最終幕

 ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞したことで話題になっている映画『キャタピラー』は、6月19日に沖縄で上映され、8月に入ってから広島と長崎に続いて全国で順次公開される予定である。この映画を是非観たかったが、トルコに帰国した私には、残念ながらそれができない。私がなぜ観たかったのかといえば、去年、その原作となる江戸川乱歩の『芋虫』を近代日本における男性性と兵士の身体的欠損(ディスアビリティ)、国民国家という観点から考察し、論文を書いたからである。もちろん、映画についてコメントすることはできない。したがって、このエッセイでは、映画のコメントのかわりに、原作『芋虫』について先述の拙論に基づき、私見を綴ってみたいと思う。
 『芋虫』は、1929年に編集者の意見で「悪夢」のタイトルで発表された。後に、1969年に全集では『芋虫』の題名に戻されて掲載された。江戸川乱歩は、時代を特定していないが、恐らく、日露戦争後の日本を舞台としている。
 『芋虫』のストーリーは、戦争で四肢とともに、視覚と触覚以外の感覚を失って帰還した兵士とその妻の物語である。戦後の困難な生活の中で、世間の戦傷兵と妻への関心が薄くなり、世間から切り離された二人の悲惨な暮らしでの唯一の関係は、性的関係となる。そして、その三年後のある晩、妻に眼を潰された主人公が井戸に身を投げて、二人の物語は幕を閉じる。

国のために戦う兵士としての男らしさ

 『芋虫』について述べる前に、まず、近代国民国家における男女の関係について考えたい。それは周知の通り、男性が公的領域の権利者とされ、女性はそれに従属している被支配者とされた、いわゆる「男は外、女は家」という位置関係である。このような関係において女性には平時でも戦時でも変わらず、男性に従属しながら家庭を守って、子どもを産むような女らしさが求められていた。その一方で、男性に要求されていた男らしさは、平時には国家あるいは家庭の支配者でありながら、戦時においては「国のため」に、戦争に従事するもの、つまり兵士としての男らしさであった。このように戦うべき兵士として定められた男性たちにとって、戦場は名誉の戦死を遂げる場となり、またその多くが身体に戦争の記憶として残る戦傷を負ってしまう場となった。
 江戸川乱歩は『芋虫』において、戦争を材料にした理由を反戦イデオロギーではなく、「極端な苦痛と快楽と悲劇」を描くためだと述べている。確かに、戦争は国のためにと正当化された暴力の場として、兵士たちにせよ銃後の者たちにせよ国民国家に属する人間に最も極端な苦痛と悲劇をもたらす。ここで考えるべきことは戦傷を負って帰還した兵士がいかなる運命を抱えてしまうかということである。『芋虫』は、このように国のために勇ましく戦った兵士の戦後の状況を巧みに描いている。

悪夢と極端な苦痛

 『芋虫』は、当初、「悪夢」のタイトルで発表されたことは前述した。そのタイトルにふさわしく、主人公の陸軍中尉須永は戦傷によって「悪夢の中のお化け」に変貌して、妻の元に送られてくる兵士である。須永を「お化け」に変貌させてしまった戦争が悪夢であることは、自明であるが、『芋虫』は、それをもう一歩進めて、須永の身体が創った悪夢、つまり、悲惨な生活は戦後も続いていく、ということを描いている。彼は、国家の勇敢な戦士であり、その身体をぼろぼろにした戦傷で日本軍の誇りとなった。また、彼が戦場から内地に送還された時、新聞の紙面を飾り、取り戻すことのできない手足の代わりとなる金鵄勲章が授けられた。
 第一次大戦と兵士の身体的欠損(ディスアビリティ)を論じたジョアンナ・ブルクは、戦時期に兵士の肢のなさは「勇気の象徴」のみならず、「輝かしい奉公の顕著な目印」であり「愛国心の証拠」となって、彼らに社会的な地位をもたらしたと述べている。
 須永夫婦もその一例である。戦時には戦死傷者への社会の同情が高く、夫婦のもとへ知らない人からさえお祝いの言葉が届けられる。しかし、勝利の熱が冷め、戦後の困難を生きていた国民は、戦争の記憶とともにそれを思い出させる戦傷兵のことを次第に忘れていった。そして、彼らは障害のある人々、また怪我をした労働者の地位に分類されてしまった。このように、彼らが元戦士=元兵士であったことの意味は、消去されてしまった。「大きな黄色の芋虫」のような身体にされてしまった須永の戦後は、まさに乱歩が描こうとした極端な苦痛を反映しているのではないだろうか。

極端な快楽

 それでは、二人の通常ではない生活において、唯一の関係であった性的関係、言い換えれば、極端な快楽を見てみよう。須永の妻時子は、正常な人間でありながら、夫の四肢と同様に社会との関係が切断されているものの、二人に離れ家を提供した彼の元上官とその家族と関係を持っている。元上官は彼女に会う度に、須永を昔の肩書きで呼んでいる。それは、「大きな黄色の芋虫」となった夫の以前の社会的地位、つまり「男性」としての地位を思い出させるためである。いまだに須永は「男性」であり、時子は女性として、勇敢なる兵士の妻として、貞操を持って彼に付き従うべきであると考えている。時子と須永の性的関係は、最初の頃は夫の機嫌を治すための手段であった。が、この尊ぶべき元兵士の夫のわずかに残っている身体が妻によって操られるようになってゆき、次第に、それは時子の快楽となった。それが時子に罪悪感を与えてしまうことになる。一方、男性として国家のために戦ってきた須永は、戦地へ誇るべき「兵士」として行き、結局「モノ」となって帰ってきた。要するに、戦争によって彼の全ての男性的・人間的な「しるし」が奪われ、その社会性まで剥奪されてしまった。その彼の視点から性的快楽の意義を考えると、興味深いのは、次の点である。
 今の彼は戦傷によって、兵士の身体が持つべきすべてのシンボルを失って、単なる「モノ」に化し、わずかに残っているその命が妻の介護無しには続かなくなっている。そして、彼は、社会的な規範の束縛から自由になった男性として、性的快楽を生きるようになる。男性は女性を支配する/守るジェンダーであるべきなのに、戦傷によってまったく妻の手に落ちてしまった身体は、その女性の性欲の対象となり、女性によって支配される/守られることによる快楽を体験することになる。

極端な悲劇の終幕

 結局、元上官の田舎の邸内の離れ家は、夫婦の極端な苦痛と快楽の場となったと同時に、その悲劇の舞台となる。悲劇が起こったその晩、妻は夜中に起きて、天井を見つめている夫の眼に潜んでいる意味が読めず、恐怖感に襲われてしまう。そこで、夫の世間との唯一のコミュニケーション・ツールとしての両眼を潰してしまう。しかし、皮肉にも両眼が潰された須永は、妻に「ユルス」というメッセージを残して、邸内にある古井戸に、戦後に残存した戦争の記憶であったその身を投げ込んでしまう。彼を探しに行った時子は、須永の身体を思い出させるような「一匹の芋虫」が古井戸に落ちてゆくのを見たところで作品は、幕を閉じる。
 『芋虫』を男性性と兵士の身体的欠損(ディスアビリティ)、国民国家をキーワードにして読み直すと、国家が男たちを組み込もうとした男性性、つまり、男は勇敢に戦う/守るジェンダーであるという神話は、彼らの人生を一変させる悲劇となり、もはや彼らは自己の身体の持ち主でさえあり得なくなったといえるのではないだろうか。要するに、男性性という神話に取り込まれて、国のために戦ってきた男たちは、戦争が終わると、その欠損した身体を抱えているが故に、社会にとって忘れたい戦争の記憶となり、またその身体は、元兵士にとって永遠に持ち続ける戦争の記憶となるといえよう。


附記:
当エッセイは、ニライ・チャルシムシェク氏「江戸川乱歩『芋虫』論」(『名古屋大学国語国文学103号』掲載予定)に基づいて書かれたものです。
4枚の挿絵は、『芋虫』が1929年に「悪夢」のタイトルで発表されたとき、雑誌『新青年』に掲載されたものです。


ニライ・チャルシムシェク(Nilay Calsimsek)
2001年チャナッカレ・オンセキズ・マルト大学日本語教育学科を卒業後、静岡大学の修士課程に留学。名古屋大学文学研究科博士課程に進学し、近代日本文学を研究。この間1年間、日本語教育基金プログラムによる奨学金を取得。2010年4月に母校チャナッカレ大学に戻り、日本文学を教えることと、トルコにおける日本・日本語研究に貢献することを目指している。