タイプ
論考
プロジェクト
日付
2015/2/3

アメリカNOW第122号 「原点回帰」の2015年一般教書演説の背景(渡辺将人)

2015年1月20日に行われた一般教書演説の多くは内政に割かれ、中間層支援策を柱として打ち出した。具体的には富裕層への増税、育児中の家庭への税控除の強化など直接的な政策に加え、コミュニティカレッジの無償化など教育から中長期の格差是正を狙う政策も含まれる。外交では「イスラム国」などの過激派組織に対して、テロ組織壊滅のために指導的立場をとる姿勢を鮮明にした。今回の演説で米政界関係者を驚かせているのは、「同じオバマと思えない」「別人のよう」とも形容される演説のトーンをめぐる大きな変化だ。その背景を検討する。

2014年中間選挙で語りたかった「勝利宣言」:遅ればせながらの経済評価

第1に、オバマが一般教書演説でやろうとしたのは、中間選挙後の遅ればせながらの「勝利宣言」だった。言うまでもなく昨年秋の中間選挙で民主党は敗北した。しかし、共和党関係者の多くも認めるように、選挙に際しては「イスラム国」の台頭、エボラ熱、ファーガソンの警官発砲事件に象徴される人種をめぐる緊張など、大統領への期待値のハードルを急激に上げる難題が内外で勃発。さらに実際には回復しつつある経済に国民が実感レベルで追いついていない煽りを受けた。本当は勝てるだけの経済状況だという自信が、中間選挙敗北の日のオバマ大統領のあの不満そうな表情を生んでいた。10%台まで達していた失業率は5%台まで減少。株価も過去最高水準で選挙を迎えたが、有権者の実感に届くにはタイムラグが生じる。選挙オバマと側近には、2014年中間選挙の結果は、オバマの6年間の政策審判としては適切ではない。そうした遺恨が強く残った。

議会民主党内部にくすぶる敗北の責任を大統領に求める不満感を払拭する意味でも、「私は正しかった、間違っていたのは彼ら共和党だ。民主党議会よ、自信を持て」と高らかに謳い揚げる機会をうかがっていた中、一般教書演説は絶好の機会となった。2ヶ月遅れではあるが、堂々と「I was right. They were wrong.」という趣旨のメッセージを発するために用意していた「勝利宣言」だ。ピューリサーチセンターが1月7日から11日に行った調査では、経済に対して「素晴らしい」「良好」と回答した人が27%と1年前の同調査の16%に比べて11ポイント上昇。経済が「悪い」と答えた人は24%で逆に1年前の39%から15ポイントも減少している。オバマ大統領の経済政策には49%が「極めて」あるいは「一定程度」信頼を置いており、これは共和党指導部に対する37%を大きく上回る結果だ。大統領支持率も微増し49%。政権2期目同時期のクリントン(63%)よりは低いが、ブッシュ息子(33%)より圧倒的に高く、実はレーガン(49%)とも並んでいる。国民の経済評価が追いついてきた今こそ、満を持しての演説だった。有権者は中間選挙までには経済の好調を実感できなかったが、実際には自分の政策は成果を出している、確かに中間層の賃金は上がっていないが、だからこそ今後の課題なのだ——そうした趣旨の2ヶ月遅れの反撃メッセージをオバマは議会共和党に放った格好だ。

オバマの「レガシー定義」をめぐる演説:2011年「中道化」との差異

第2に、残り2年を前にしての一般教書演説は、オバマ政権の締めくくり方、すなわち「レガシー定義」の意味を持つ。先月2014年12月、筆者はワシントンを訪問し、政権関係者と意見交換を行った。その際、オバマ大統領に近いある下院幹部は、次のように述べていた。「大統領は粛々とやれることをやる。移民問題もやる。しかし、いちいち共和党にファイティングポーズは取らない。とる必要がない。相手にしない。議会は立法面では、もう何もできない。大統領令と拒否権しかない。クリントン政権の最後の2年をイメージして策を構築していく」。また、オバマ政権の内政担当高官はこう述べた。「オバマ政権の優先課題は引き続き移民。立法はできないが、できることをする」。オバマのレガシーについては「1:医療保険。2:景気刺激策で経済を安定状態に持ち直したこと(最高の状態ではないが十分にステイブル)。3:黒人大統領(黒人に投票したことを後悔する人はいない。皆、黒人に投票してそれは良かったことだと確信している)」とまとめていた。民主党が両院で多数を失い立法面では完全にレームダックと化したにも関わらず、2010年中間選挙敗北後に「中道化はやむを得ない」と腹を括った時期とは、少なくとも内政面では政権周辺の空気に相当の違いがある。

2010年中間選挙で大敗北した際、オバマは共和党に歩み寄るために超党派路線に舵を切り、ブッシュ減税の延長を行った。2014年中間選挙の敗北後のオバマのアンサーは、前回のように共和党に裏切られるのはもう御免だという、リベラル路線への「原点回帰」を匂わせている。リベラル回帰といえば2012年大統領選を前にした「経済ポピュリズム」策が記憶に新しい。「ビンラディンは死に、GMは生き残った」というスローガンだ。しかし、2015年一般教書演説で示されたプログレッシブ路線が、これまでの「経済ポピュリズム」と大きく違うのは、オバマにとって選挙がもうない要因と関係している。オハイオ州などラストベルトの激戦州組合票の動向を気にする必要もなければ、石炭州の票を気にする必要もない。「GMは生き残った」をアピールする必要は以前ほどない。ハリウッドや金融界の富裕層献金者のご機嫌ばかりを取ることもない。しかも、逆説的ではあるが議会両院を共和党が多数派として支配しているため、民主党が望む立法成果はどのみち望めない。

だとすれば、思い切りオバマらしい本来のアジェンダを放り込んでいく。それがオバマ周辺の決断だった。富裕層増税や賃金に焦点を絞った中間層対策など、いずれもオバマ周辺のリベラル派のブレーンの間では何年も前から主要アジェンダとされていたものだが、選挙というしがらみが無くなり、なおかつ目に見える経済成果の追い風がある中、相当にアグレッシブなレトリックで打ち出せる。それが体現されたのが今回の演説だった。オバマ政権8年は奇妙なことに、民主党が議会を掌握し立法成果が現実的に望めた駆け出し2年と、民主党が議会での多数を失い立法成果がほぼ望めない終盤2年で、共にアグレッシブな姿勢を打ち出し、真ん中の鈍化した時期を挟むサンドイッチ型になるようにも見える。「イスラム国」などテロ組織壊滅を重視しつつも、地上軍派遣のラインを超えない反ブッシュ路線の堅持、キューバとの国交正常化の模索、イスラエル首相との会談を拒絶してまでのイラン核開発阻止へのコミットなど、外交面でも単純に「レームダック」で片付けられない気配がある(渡部恒雄上席研究員「2015年のオバマ外交の行方—レームダック(死に体)神話に惑わされるな」も参照されたい)

プログレッシブな「オバマ的アジェンダ」優先への回帰は既に鮮明になっている分野もある。カナダから原油を運ぶ「キーストーンXLパイプライン」への拒否権をめぐる問題が好例だ。これまでオバマ大統領は労組と環境保護団体という2つの民主党の支持基盤の票を失わないために、中間選挙を意識してパイプラインには極端な態度をとってこなかった。そのため、大統領と共和党議会の歩み寄りによる超党派の成果として、自由貿易路線のほか、パイプライン建設もテーブルに乗っていた。2015年1月始動の共和党多数派議会は1発目の重要法案として、議会上下両院で承認法案を可決。しかし、ここにきてオバマ大統領がこれに拒否権行使を示唆した。原油安を背景にしたエネルギーをめぐる国民世論の変化、パイプライン建設で創出される新規雇用が予測されていたほどのものではなく短期的で小規模との見積もり等の判断に依拠しているが、何より「キーストーン」のシンボリックな意味を重視した。折しも2014年11月には、米中が温暖化ガス削減で合意したばかりだ。一般教書演説でもクリーンエネルギーへの執着が滲んだ。1期目にキャップ&トレード法案を議会で潰されたオバマだからこそ、あえて政権最後に「キーストーン」に拒否権を発動することによる態度表明を選ぶのかもしれない。

今後の民主党の青写真としての演説:2016年への党内余波

第3に、民主党の将来の青写真としての演説、そして2016年大統領選に与える不可避の影響である。オバマは短期のアジェンダではなく、少し遠い将来や理想論を語るとき、その演説に不思議なパワーが込められる特徴がある。「選挙は大好きだ。超面白い。自分と無関係の選挙のときは尚更ね」(I love elections.  It's so much fun.  It's even more fun when you're not on the ballot.)というジョークを語ったのは他ならぬオバマだ。連邦上院議員時代、2006年中間選挙でHBOドキュメンタリー"By THE PEOPLE"のカメラを前にふと漏らした感想だが、ある意味で本音だ。時限的にも、主体としても、責任の範囲に少し幅が生まれたときのほうが、オバマの天才的なレトリックは羽ばたく。少し遠い将来や、抽象的な大きな目標について語るときだ。2004年の党大会演説が名演説だったのは、ジョン・ケリーの大統領選だったからだ。自分の政策について語る演説ではなく、アメリカの統合の理想について大局的に語る機会として他人の大統領選は絶好である。

今回の一般教書演説で蘇ったように元気なのは、もう政権中には選挙がなく、政権の政策を有権者に評価されるしがらみがないからだ。どのみち議会では立法成果は出ない。「The New Yorker」誌のライアン・リザが、同誌配信の政治番組「Political Scene」で述べているように、オバマの演説はオバマの残り2年についての所信表明というより、民主党の将来、2016年以降の民主党とアメリカの未来を語る演説だった。立法のための妥協の重荷からも、選挙民に媚びる必要からも解き放たれ、オバマの声は弾んだ。レームダックはオバマにとっては、オバマが自分らしさを取り戻す時だったとは皮肉だ。

問題は2016年大統領選の民主党候補者が、どの程度まで「オバマのアジェンダ」を継承するかだ。ヒラリー・クリントンにとっては、オバマを遠ざけるのか、オバマ時代を抱擁するのか、という選択にもつながる問題だ。NBC「Meet the Press」アンカーマンのチャック・トッドが昨年オバマ論を出版した。そのタイトルを「ストレンジャー(The Stranger)」と題したのは、オバマがワシントンに馴染まない人間だったからだし、ライアン・リザが「脱党派的大統領制(post-partisan Presidency)」と形容するようにオバマはクリントン世代の民主党政治家と、政策実現の手段や政党感がまるで異なる。オバマが一般教書演説で打ち出し、今後2年間で折に触れて語るビジョンを「民主党の方針」としてどこまで受け入れるのか。角度をつけて違う方向から理念を打ち出すのか。2016年の大統領候補者にとって無視できない決断になる。

経済が好調な際には、同じ党の現職大統領に背を向けた大統領候補者が勝てた例は少ない。2000年にはアル・ゴアが女性スキャンダルで窮地に陥ったクリントン大統領を遠ざけ、政権のレガシーを無視するかのようなキャンペーンを行い、ブッシュと接戦にもつれ込み、フロリダ州再集計の末に敗れた。ヒラリーがオバマ政権についてどのような態度を示すかは、キャンペーンの骨格に関係してくる。自分が当事者だった以降の2期目の外交、さらに1990年代に設計した自分のオリジナルの改革プランとは異なる着地に終わっている医療保険制度など内政面でも、オバマ路線を全面肯定し「オバマを抱擁」するのかどうか。外交ではオバマ政権の一員だったヒラリーがオバマの内政はどう評価し、どう差異化するのか。1992年クリントン陣営出身でクリントン夫妻を熟知しているNDNのサイモン・ローゼンバーグが、先月の筆者との懇談で「ヒラリーはオバマを抱擁せざるを得ない。他に選択肢は無い」と述べていることは示唆的だ。

民主党の党内駆け引きにおいては、アジェンダセッティングのカードは、まだ現職大統領であるオバマから失われていない。ヒラリーなど候補者と目される主要政治家や次世代の民主党指導者にとって、オバマが示す中間層支援の処方箋や地上軍を投入しない「イスラム国」対策にそのまま賛成するのか、別の妙案を打ち出すのか。有権者の政権への経済評価が高まっているだけに、オバマが2016年を定義する力を完全に失ってはいないことを候補者達は、十分に気にしながら2016年に向けて走り出さねばならない。

「儀式」としての一般教書演説でこそ問われる「語り」

ところで、近年の一般教書演説をめぐる変化の1つに、テレビで演説を見る人がどんどん減っているのに、演説の視聴数は増えていることがある。ホワイトハウスが演説をウェブ配信し、それを視聴する人が増えている。アメリカでは大統領の主要な演説はテレビ視聴者のためにプライムタイムの時間帯を意識して設定されるが、ウェブやスマートフォンでの視聴が日常化してきたことで、家族がリビングルームのソファに揃っている時間帯にオンエアする配慮の意味も色あせてきた。全国党大会もそうだが、この手のテレビの全国中継で栄えた儀式的なメディア・イベントは、1980年代から1990年代前半にピークを迎え、その後は生活の多様化と多チャンネル化によるネットワークのニュースの視聴率低迷で衰退するかに見えた。しかし、スマートフォンで気軽に演説が見られるようになったことで、演説視聴者の裾野は拡大している。「大統領が演説を語る表情と声を見てみたい」という感覚がそこにはある。ネットの記事で要点だけ事後に読むのでは意味がないという「何か」だ。

もちろん演説はあくまで儀式である。当意即妙に意見を戦わせるディベートとは違う。アメリカの政治コミュニケーションでは、両者は明確に位置づけも意義も分けられている。一般教書演説の儀式色を色濃くしているのは、まるでスクワットのように立ったり座ったりして拍手をするあのプロトコールだろう。ただ、あれは一般教書演説特有のものではなく、連邦議会両院向け演説のルールだ。仮に日本の総理が米議会で演説するとしても、やはりスタンディングオーベーションのタイミングを計算したリズムで総理の演説原稿を書かねばならない(サルコジ演説をめぐる事例を参考までに参照されたい。アメリカNOW 第11号「一般教書演説後、大統領選挙年への配慮が滲んだ米議会でのサルコジ演説を改めて振り返る 」2008年01月31日)

演説には原稿があり、原稿は冊子化され、両院の出席議員に事前配布される。議員たちはその冊子を持参して来場する。例えば、筆者の手元にも、2013年版の一般教書演説の冊子が数部残っている。大統領補佐官が「アメリカ政治に興味がある北海道大学のゼミの学生にプレゼントしてあげて」と20部ほど好意で譲ってくれたものだ。縦22センチ、横14センチ。四六版ハードカバーの本とほぼ同サイズの製本で、白地にブルー枠はエアフォースワンの機体と同じツートンカラーだ。この年は全15頁。結婚式の披露宴や晩餐会のメニューのような装幀にも似ていて、良質の厚手の紙を使ったちょっとした「記念品」のような品に仕立てている。冊子の表紙には大統領が一冊ずつ黒マジックでサインをして、全議員に配布する。議員はその冊子を読んでいるので、事前に演説内容は知っている。だから、どこで立って拍手して、どこで座ってという芸当ができるのだ。演説はその場で初めて中身を聞く場ではなく極めて儀式色が強い。

報道でも同じだ。プレス業界のしきたりとして「解禁もの」というものがある。発表系のニュースの情報は概ね事前に配布されており、当局側から「エンバーゴ」という解禁時間を設定されている。記者は事前にその資料を基に原稿を書いたり、番組VTRや紙面を作っておく。一般教書演説、就任演説などその典型例だ。米メディアの記者は、当日は大きな変更がないかどうかを、手元の台本を見ながら確認するだけだ。この手の解禁付きの準備された演説の日本語放送の「同時通訳」が完璧なのも、事前に原稿があることが少なくないからだ。ライブの放送でナレーションをナマ付けしているが、訳出を同時にしているわけではない(注:番組中のアンカーやパンディットの発言、突然の原稿変更にはその場の訳でも対応するので、事前訳の原稿を読みあげるのもナレーターやアナウンサーではなく同時通訳者が務める。また、当たり前であるが事前の原稿がない不規則発言盛りだくさんの臨時会見等は同時に訳す。放送の現場で一緒に仕事をしてきた経験からも、あれはプロの神業と敬意を抱いている)。

過剰なシニシズムを生むほど、ある意味でメディアリテラシーが部分的に進んでいるアメリカでは、この「解禁付き」の事情も視聴者の知る所なので、米メディアでは「今週の一般教書演説では~について語られます」という事前のコメントが平然と出る。演説そのものを引用していなければ「主な内容」について語ることはフライングにならないかのような、なし崩し傾向がある。結果、一般教書演説で「どんな内容が飛び出すか」ワクワクさせられることはない。相当前に印刷が済んでいる台本冊子と別の原稿に差し替えられることは特別の理由がなければ無い。何が飛び出すか分からない、即応力が勝負の斬るか斬られるかのディベートとの大きな違いだ。しかし、内容にサプライズが出にくい予定調和の儀式だからこそ、演説は「語り方」のトーンにかなりの注目が集まる。インサイダーであるプレスや議員にとっても「大統領の表情や声の弾み方」だけは「新しいこと」(ニュース)だからだ。政権残り2年のカウントダウンを迎えた2015年一般教書演説は、好調な経済を背景に、演説らしい演説を放ち、オバマの強みを久しぶり活かせる機会となったことだけは確かだ。

■ 渡辺将人 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授