タイプ
論考
プロジェクト
日付
2008/8/25

アメリカNOW第24号 黒人政治とオバマ―ミシェル夫人の影響とシカゴ黒人選挙区での苦悩(渡辺将人)

【シカゴのオバマの出発点:コミュニティの戸別訪問】
1983年にコロンビア大学を卒業したオバマは、短期間ニューヨークで金融情報記事を書く仕事に携わっていた。しかし、まもなくジェリー・ケルマンの門を叩く。ケルマンは、シカゴのコミュニティ・オルガナイザーだった。「コミュニティ・オルガナイズ」の仕事と聞いてピンとくる人は少ない。きわめて曖昧な、幅の広いコミュニティのための仕事だった。経済的報酬を期待して行う仕事ではなかった。初年度の年収はわずか1万ドルと、車を買うために提供された2000ドルだけだった。このような報酬にもかかわらず、オバマは一念発起、ニューヨークからシカゴに引っ越す。1985年6月のことだ。「シカゴのオバマ」の誕生である。23歳だった。

最初に任されたのは住民をインタビューする仕事だった。黒人率97.8%のローズランドを担当した。この担当が、オバマにとってのちのちの糧となる。週に20世帯から30世帯、シカゴの黒人ゲットーで家庭をまわり、人々の「要望」をうかがう聴き取り調査だった。これは何より、貧困と格闘するインナーシティの黒人と、「痛み」を精神的に共有する格好の機会となった。比較的裕福な階層の黒人しか知らなかったオバマにとって、アメリカの黒人の現実を見つめる最初の機会だった。オバマは毎日のインタビューを介して、地元住民と知り合いになっていく。オバマはアメリカの黒人社会の末端の現実感覚を、インタビュー訪問で身につけたのだ。ハワイでは見えなかったアメリカの黒人「アンダークラス」社会の現実の把握。それも皮膚感覚での共有。これこそが、オバマがシカゴのコミュニティ・オルガナイジングで獲得した、最初の果実だった。

ところで、このオバマが行った戸別の訪問インタビューは、アメリカの選挙でのキャンバシングという戸別訪問にそっくりである。キャンバシングでは、候補者の宣伝をしてまわるだけでなく、初期段階では要望や不満などを住民にインタビューしてまわり、それを陣営に持ち帰り政策に反映する機能をもっている。キャンバシング結果のメモランダムは、上級スタッフも目を通したがる。そこに選挙区の実態、生の声が詰まっているからだ。中には自分で雰囲気を確認しておきたい、といってボランティアと一緒に出かける上級スタッフもいる。ただのフライヤーやバンパーステッカーの配布ではなく、インタビューが重要なのである。有権者を無理矢理説き伏せたりすることよりも、初期段階では地域の要望をすくいとることにも主眼がおかれている。オバマはシカゴのコミュニティを「コミュニティ・オルガナイジング」という名の「キャンバシング」によって足で掴んだ。コミュニティ・オルガナイザーの任務の過程で、オバマはのちに打って出る選挙の下準備を意図せず結果として整えられた。ほどなくして、地元の悩み相談のアンケートを取りにくる、ハワイ出身の若紳士は、「ベビーフェイス」というニックネームで親しみをもって受け入れられるようになった。この時期、先輩オルガナイザーのケルマンは「オルガナイザーは常に黒子であり目立ってはいけない」とオバマに指導している。オバマに、「人の前に出たい」という気持ちが芽生え始めていたのを、敏感に察知したのかもしれない。

【ミシェル・ロビンソン:弁護士の先輩として】
オバマの政治的野心が本格化していったのは、ハーヴァード・ロースクール在学中だった。オバマはコミュニティ活動の過程で、弁護士資格を得ておく必要性を感じ、ロースクールに出願して学生に戻った。当初、オバマはハーヴァード卒業後に、シカゴに戻る目的をシカゴ市長選立候補に据えていた。この頃オバマは、ミシェル・ロビンソンという女性と出会う。ミシェルはプリンストン大学を経てハーヴァード・ロースクールを卒業している。偶然にもオバマとハーヴァードのロースクールで先輩後輩関係だったが、出会いはハーヴァードではない。シカゴだった。オバマはロースクールの一年目終了後の夏、シカゴの一流法律事務所シドリー・オースティンでインターンとして働いている(事務所ではサマー・アソーシエーツと呼んだ)。オバマはシカゴのエスタブリッシュメントの仲間入りをした。ちなみに、アメリカではインターンとは、日本で一般的な学生向けの企業見学を兼ねたアルバイト的研修とは異なり、専門性をもつ者が即戦力として短期間雇用される相応の報酬の生じるポストを意味することも少なくない。インターンのほうが同組織内で正規職員より経験や学歴が上なこともある。30代以降の専門的インターンも日常的で、既に相応の学歴と職歴があったオバマも、シカゴの法律事務所では30代目前にしてインターンとして働いた。このシドリー・オースティンでオバマの上司兼世話役になったのがミシェルだった。

オバマと同じハーヴァードのロースクール既に卒業した先輩。若手弁護士として同事務所に勤務していたミシェルは、オバマへの引き継ぎと世話を事務所に命じられる。これが運命の出会いだった。オバマはミシェルから法律事務所での実務を学んだ。二人は恋愛以前に、プロフェッショナル・パートナーとしてスタートした。ミシェルは全米を代表する巨大法律事務所で働く数百人の弁護士のなかで、わずか14人にすぎない黒人弁護士の一人として頭角をあらわしていた。父親はシカゴ市の水道工事関係の職員、母親は秘書業務で家族を養っていた。プリンストン大学で社会学の学士号を取得したのは1985年。優等だったので、そのままハーバード・ロースクールに進学し1988年に卒業している。当時の黒人女性としてずば抜けて優秀だったことがわかる。また、家庭も英才教育を与えられるような恵まれた環境とはほど遠く、ミシェルの自助努力と潜在能力がきわめて高かったことを示している。

当初、ミシェルはオバマの求愛を拒んでいた。職場での上下関係を恋愛に持ち込むことを嫌ったという。オバマはミシェルを説得するために、コミュニティ・オルガナイザーとしての活動を見て理解してもらおうと考えた。教会の地下で行っていた、地域住民向けの演説に呼んだのだ。オバマの地域住民向けの演説にミシェルは聞き惚れた。シカゴ大学付近の「バスキン・ロビンズ」(日本では「サーティワンアイスクリーム」)でチョコレートアイスを食べる微笑ましい初めてのデートののち、二人の遠距離恋愛は始まった。最初のデートでは、シカゴ・アート・インスティチュートも訪れ美術鑑賞を楽しみ、ダウンタウンのミシガン・アベニューを散歩した。シカゴの街の名所の一つ一つが、二人の出会いの原風景である。また、デートでは黒人映画監督スパイク・リー作品の『ドゥ・ザ・ライト・シング(Do the Right Thing)』も鑑賞した。人種やエスニックの問題を鋭くえぐったこの作品を媒介に、二人は問題意識の共有を感じたという。社会問題への関心が、両者を急接近させた。その触媒が初めてのデートで鑑賞したこの映画だった。

【ミシェル・ロビンソン:黒人政治への誘導者として】
ハーヴァード2年目して、オバマの気持ちは大学のあるマサチューセッツ州ケンブリッジから遊離し、ミシェルのいるシカゴに傾倒していった。シカゴに本格的に骨を埋めてもいいと思うようになる。オバマをシカゴに惹き付けたのは、コミュニティ・オルガナイジングの仕事だけではなかった。シカゴ南部を故郷としていたミシェルだった。ミシェルがシカゴ南部出身で、地元愛がことさらに強い女性だったという事実がなければ、オバマがシカゴにその後も住み着いたかどうかはわからない。どこか他の土地で法律事務所に勤務し、ミシェルを呼び寄せたかもしれない。ここでも、シカゴ発の政治家オバマに、ミシェルは多大な人生選択の上での影響を与えている。ミシェルなしでは大統領候補オバマ、つまり「シカゴ政治のオバマ」は生まれなかった。ミシェルの父親は正式な診断こそなかったが、多発性硬化症と疑われる重度の膠原病で苦しんでおり、これがロビンソン家の家族の絆を強めていた。親思いのミシェルはシカゴを離れようとしなかった。1992年、オバマの母方の祖父であるスタンレイ・ダンハムが亡くなった年に、オバマはミシェルとシカゴ南部の教会で結婚した。オバマはハワイに戻ろうとはしなかった。「シカゴのオバマ」として公私ともに生きていくことを決めたのである。

ミシェルの黒人としてのアイデンティティは強い。かつて「プリンストン大学卒業の黒人と黒人コミュニティ」というエッセイをプリンストンに提出している。プリンストン大学では当時はまだ黒人学生は珍しい存在だった。白人社会のなかで、好奇の目にさらされた。これがかえってアイデンティティの強化につながった。最初にシカゴ政治に飛び込んだのもミシェルだった。父親が亡くなったあと、一念発起してシカゴ市長のリチャード・M・デイリーの副首席補佐官になるために、弁護士事務所を辞した。オバマとの結婚のほんの少し前のことである。ここで、ミシェル経由で、デイリーとの接点がオバマに生まれる。オバマはその直後、ミシェルのあとを追いかけるようにオバマも政治活動を本格化させる。ハーヴァード・ロースクールを卒業したオバマは、まっすぐシカゴに戻った。マイノリティと低所得層の民主党投票登録を促進する「イリノイ・プロジェクト・ボート」に参加する。このプロジェクトが開拓した15万にものぼる新たな票は、1992年の大統領選挙でビル・クリントンを当選させている。ヒラリーとの因縁の2008年民主党予備選からさかのぼること16年前、オバマは間接的にクリントン勝利に貢献している。それも地べたを這いつくばるような「地上戦」活動だった。また、黒人女性初の上院議員キャロル・モズリー・ブラウンの当選にもオバマらが集めた票は役立った。

コミュニティの悩み相談の形態をとったキャンバシングから、投票登録促進の活動まで、オバマは弁護士でありながら、選挙のいろはを実地で経験していた。ここまで末端の「地上戦」のノウハウを自ら体験的に経験している上院議員は少ない。地盤が盤石な議員はフィールドオペレーションの必要がないし、そもそも完全にスタッフに任せきっていて、「地上」で何がおきているかを自分で見ることは少ない。民主党のクリス・ドッド上院議員のように若い頃にワシントンの議会でページ(注)を務めた経験のある議員はいても、選挙のフィールドの末端業務を自ら経験したことがある議員は少ない。その意味でも、オバマは希有な存在である。
(注:ページとはワシントンに寮生活で住み込み、米議会の雑用をする高校生の職員のこと。有力議員の推薦で採用が決まるため、選挙区の支持者の子弟が多い。高校2年の1年間を中心に全米から集められる。紺のブレザーにグレーのスカートやスラックスの制服で、議員会館の文書運びのほか議場の雑用もこなす。大人の政治の現場で、子供にフルタイムで働かせることには、教育上どうかという様々な賛否両論もありながら、現時点もまだ存続しているアメリカ議会特有の制度。議員の控え室から議場までどこでも入れる上に、子供なので一切警戒されないため、結果としてもっとも議員の内輪の会話を耳にする立場におり、その情報量は侮れない。そのため、倫理的には望ましくないものの、ページから党内外情勢や同僚議員の情報を取る議員や、ページを情報源に特ダネを書く記者も存在する)。

【オバマとシカゴ黒人政治家の衝突(1):イリノイ州議会選挙1996年】
シカゴでのオバマの政治活動は決して平坦ではなかった。それは地元の黒人とぶつかりあう歴史でもあった。「オバマを黒人社会は容易に認めないだろう、黒人票はヒラリー・クリントンに行くだろう」と2008年の予備選を前にして分析していたのは、シカゴ政治に詳しい地元の専門家たちだった。その背後にあるのは、シカゴの外ではあまり知られていない、シカゴ黒人社会とオバマの苦闘ともいえる衝突の歴史でもある。1995年、オバマはイリノイ州議会に打って出る決意をする。地元現職アリス・パーマーが連邦下院議員を目指すことになり空席が生じる見込みとなったからだ。パーマーは黒人女性議員。進歩的と自称する左派議員だった。彼女はオバマを自分の選挙区の後任として認め、オバマを支援する意向を示した。パーマーの議席空席の見通しと、支援が取付けられていなければ、オバマは出馬していない。ことはすべて順調に運ぶかにみえた。

ところがパーマーは、下院予備選でジェシー・ジャクソン師の息子ジェシー・ジャクソン二世に惨敗してしまう。選挙区はイリノイ州二区。黒人選挙区内の黒人同士の争いである。ジャクソン二世の「ブランド」には勝てなかった。パーマーは「州議会の自分の議席に戻る」と言い出した。元々、パーマーの議席が空くことが絶対の前提で出馬してしまっていたオバマだったが、すでに後戻りもできなかった。パーマーはオバマに辞退を迫った。立候補を取り下げないオバマに、パーマーは支援どころかついに敵意をむき出しにする。パーマーは候補者になるのに必要な757の二倍以上の1580もの署名をあっというまに集め、オバマを脅かした。オバマはアメリカでも最も濃密な黒人社会であるシカゴ南部で、黒人の利益を代弁する地元議員になることで、いよいよ本当の「アメリカの黒人」として認められるつもりだった。しかし、それどころか現職の黒人政治家に黒人票が圧倒的多数を占める選挙区で挑むはめになったのである。これは、パーマーを長年支援してきた地元黒人にとっては「反乱」だった。コミュニティ・オルガナイザーのオバマさんご乱心として受け止められた。

オバマは反撃に出た。キャンペーンの理念面では「新しい政治」を打ち出した。雇用問題を焦点として、相互依存の国際経済のなかで生き抜いていくには、労働のクリエイティビィティこそが雇用の安定に大切だと、大きな風呂敷を広げた。他方、実動的には選挙法専門の弁護士トーマス・ジョンソンを雇い、パーマーの立候補の妥当性を法律的に争う戦術に出た。オバマはパーマーを含む民主党の立候補者の不正を発見することに成功。民主党予備選の立候補者はオバマ一人となり、不戦勝した。民主党が圧倒的なシカゴ南部では、予備選に勝利した時点で、それは本選の勝利を意味する。1997年オバマは59人のイリノイ州議会議員の一員として認められた。任期は二年だった。

パーマーは結局のところ、本選でもオバマ支援にはついにまわらず、「オバマは十分に黒人のことを理解していない。期待していたほどオバマは進歩的でもない」と喧伝して回った。黒人社会は一枚岩ではなく、コミュニティ内部での政治的な縄張り争いは激烈である。このことをオバマは最初の選挙の辛勝で学んだ。オバマは黒人との内輪の争いで、議員生活のスタートをきった。政治家オバマを生んだ最初の選挙をめぐるこの出来事は、オバマと黒人社会の複雑な関係を暗示し、シカゴ政治の関係者の記憶に深く刻まれることになった。大統領選挙の予備選でも、オバマの黒人票獲得能力に懐疑的で、人種問題が最後の最後で負の作用をするという懸念が、皮肉にも地元シカゴで根強かったのは、オバマのこうした過去にシカゴ人が詳しかったからである。

【オバマとシカゴ黒人政治家の衝突(2):連邦下院選挙2000年】
オバマのシカゴ黒人政治との二度目の衝突はもっと深刻だった。それは州議会一期目を終えようというときにやってきた。シカゴ政治の世界では、この二度目の黒人社会とオバマとの衝突を「オバマの政治人生における最大の誤算」と呼んでいる。先に述べたように、オバマは当初はシカゴ市長選を睨んで政治的な野心をあたためていたが、かつてシカゴに君臨した市長リチャード・J・デイリーの息子、リチャード・M・デイリーの市長としての地盤は固く、市長の椅子は遥か遠いものにみえた。シカゴでの市政は民主党によって占められており、民主党候補としては、長年シカゴ市政を支配してきたデイリーに挑むことが求められた。これはシカゴでは自殺行為に等しかった。そこでオバマは連邦下院選に目を向けることにした。ところが選挙区が悪かった。

オバマが居住していたハイドパークは、イリノイ州では下院1区に該当する。2008年時点での人口動態は以下である。白人27.3%、黒人65.2%、アジア系1.4%、アメリカ先住民0.1%、ヒスパニック系4.8%、複数人種混合1%、その他0.1%シカゴのダウンタウンから真下に位置する。都市人口100%の1区は、黒人政治の基盤でもある。シカゴ南部にしては、白人率が高いのはシカゴ大学を選挙区内に擁しており、教職員中心に白人も少なくないからである。この地域はかつて、シカゴのユダヤ系の集住地の一つだった。現在でもその名残が他のシカゴ南部地域と比べると色濃い。しかし、地元政治の実権は黒人指導者にある黒人地域と考えてよい。

1区現職はボビー・ラッシュ下院議員である。ラッシュは1992年から当選を重ね、盤石の地盤をほこっていた。1999年、シカゴ市長選に挑戦し惨敗する。ラッシュは人種を超えた集票基盤を築けず、黒人票も思ったほどに得られなかった。シカゴでデイリー家に挑むことは、自殺行為であることの証明となった敗北だった。この惨敗を受け、ラッシュはすでに高齢で政治力が弱体化しているに違いないとオバマは安易に考えた。しかし、その「読み」は大間違いだった。市長選はともかく、1区のラッシュの議席に挑むということは、シカゴ黒人社会の心の琴線に触れることを意味した。オバマにはラッシュに挑むことが黒人政治家としてはコード違反であることの意味が当時ははっきりとわかっていなかった。「シカゴトリビューン」でオバマ担当を地元で長年務めているメンデルは語る。「オバマはたしかにシカゴの貧民黒人街で数年働いた。それはそれで一定の信頼感を得ていた。しかしその経験は、元ブラック・パンサーという肩書きに勝るようなものではない」。

ブラック・パンサーとは、ブラック・ナショナリズムの潮流のなかで1960年代後半から1970年代前半に活動した黒人解放を訴える急進政治組織であり、暴力的姿勢をまといながらも黒人社会の共感をおおいに集めた。ラッシュは元パンサー、それもイリノイ州支部の創設者だった。1946年生まれのラッシュは、ルーズベルト大学、イリノイ大学院などで学士号、修士号を取得していて、この年齢のシカゴの黒人としては高学歴者である。しかし、インテリとしての印象は薄く、政治活動家としての武闘派の印象が地元では鮮烈である。それを象徴する逸話は多い。「人民に力を」を合い言葉に、イリノイ州でパンサーの活動を拡大したラッシュはシカゴ警察の天敵だった。ラッシュの実家が、警察の家宅捜索にあったこともある。家族を巻き込んでの政治闘争だった。不法火器所持で6ヶ月刑務所暮らしをしている前科もある。この過激さは黒人支持層を喜ばせた。しかし、武器所持の過激派でありながら、ラッシュ率いるイリノイ州ブラック・パンサーは、武闘闘争だけではなく、地域活動に奉仕するという不思議な特徴があった。「子供達の朝ご飯プログラム」と称する貧困過程の子供への朝食配給のほか、医療クリニックの運営も行った。これはパンサーの一般的イメージから想像しにくい穏健な奉仕活動である。シカゴ南部の住人は、このラッシュの武闘派でありながら、地域の奉仕者だった経歴を家庭内で語り継いでいる。オバマが弱体だと勘違いした相手はこんな人物だった。当時の世論調査で、ラッシュの知名度は90%、オバマはわずか9%の知名度だった。

【ボビー・ラッシュに敗北したオバマ】
元パンサーの現職議員に楯突くことは、黒人社会への愛着の示し方として最悪の方法だった。オバマはアメリカの黒人社会における、1960年代以降の政治活動の深淵なる意味をまるで理解していないとして、黒人政治家失格の烙印を押された。地元の黒人支持層は、オバマにまるで腫れ物に触るような態度を示すようになった。どうして引退の意向すら示してない現職のラッシュをこの若い州議会議員は引きずりおろそうとするのか。地域の不信感は沸点に達した。ラッシュ議員を守れ。オバマ包囲網は広がった。オバマのことを、白人の実力者にブラック・ナショナリズム系の黒人政治家の議席を剥奪するために操られているに違いない、と決めつける悪質なデマすら飛び交った。ラッシュの議席に挑んだことは、せっかくコミュニティで信頼されつつあったオバマについて、その出自の曖昧さを問うパンドラの箱を開けた。

ハーヴァードで学位を取り、シカゴ大学で教え、白人のように振る舞い、白人のような英語を話す、という中傷が拡大し、黒人住民は反オバマに同調した。「ノット・ビーイング・ブラック・イナフ(黒人らしさが欠けている)」がオバマ批判の合い言葉となった。当時のオバマ陣営のフィールドワーカーたちは、当時のオバマがシカゴに馴染んでいないとして、「ケニア人のケネディ」と呼んでいた。シカゴの冬の寒さは激しい。気温や降雪もさることながら、ミシガン湖から吹く風が針のように顔に刺さり、真冬は表に長時間出る事も辛い。顔を被うマスクをかぶらないで表に出る事は危険ですらあり、無防備な格好では凍傷する。そのシカゴの駅のプラットホームで、オバマ候補はコートもまとわず、帽子も手袋もしていなかった。厚着が苦手なのか、南国育ちで寒さには弱いはずなのに、シカゴ住人と正反対の薄着はおかしな風貌に映った。ケニア人でハワイで育ったから厚着をしないのだろう。口の悪いシカゴ人はそうオバマを茶化した。

「オバマはラッシュを怒らせた。オバマを支援していた私たちは、もうオバマは終わりだと頭を抱え込んだ。オバマは黒人社会の、決して踏んではいけないものを無自覚にも踏んでしまったのだ」。イリノイ州議会のある民主党白人議員はこのように語る。悪いことには悪いことが重なる。予定が流動的だった州議会で銃規制法案の投票が、ハワイへの帰省中に発生し、欠席するという失態をオバマはおかす。イリノイ州議会で語り草になった、いわゆるオバマ・ワイキキ事件である。じっさいには、娘の体調が悪化したためにハワイにそのまま留まらざるをえなか事情があった。しかし、この行為そのものが「議会より家族優先の行為」として、非難はエスカレートした。ラッシュは「いかなる口実も認めなられない」と語義を強めて批判した。しかも、運悪くボビー・ラッシュの息子が銃殺される事件が地元で発生した。息子を失ったラッシュに同情が集まり、票は雪崩を打ってラッシュに流れ、オバマはあっけなく惨敗した。

このボビー・ラッシュを敵に回しての連邦下院選挙の惨敗は、シカゴに根を下ろしていたオバマとミシェルに多大な心理的抑圧となった。結果として、オバマはシカゴの黒人社会で一時的に干される格好となり、この間、州議会活動以外は、ハイドパーク内のシカゴ大学での教育に専心しつつ、シカゴで黒人社会の政治リーダーになることの複雑さを悩み抜いた。大統領候補のオバマをめぐる描写は、2004年のボストンの演説があまりに鮮烈なためか、強運と演説能力に恵まれた全知全能のゴールデンボーイの印象に彩られている。しかし、こと選挙に限って言えば、オバマは無敵の強さでここまで辿り着いたわけではない。票の「読み」という政治嗅覚の点でも、ラッシュにシカゴ南部で向こう見ずに挑んでいることからしても、万能とは言いがたい。それも大昔ではなく、つい最近の2000年の出来事である。それだけに、この敗北からの短期でのカムバックは象徴的だ。下院選敗北は大きな勉強材料となった。オバマは黒人政治家として覚醒する手がかりをこの敗北で掴む。

敗北後は、政治家オバマにとって自省のスランプ時代だった。すでに講師として教えていたシカゴ大学で、教授のポジションを真剣に検討したのもこの頃である。「政治家を続けるべきか、弁護士と法学者の道を歩むべきか」。黒人政治家として黒人選挙区で支持を得ていく難しさに、下院選敗北で直面したオバマは、政治家としての行き詰まりも感じ、人生の岐路となる選択肢を突きつけられていた。オバマは選挙キャンペーンで6万ドルの負債を抱えこんだ。

以上
■ 渡辺将人: 東京財団現代アメリカ研究プロジェクトメンバー、米コロンビア大学フェロー