タイプ
論考
日付
2007/12/5

《時評》 韓国の生命倫理議論を覗く(1) ~人クローン胚研究への新たな方向づけ~

韓国には「生命倫理法」がある-どんな法律?

韓国では、2004年1月29日に「生命倫理および安全に関する法律」(以下「生命倫理法」と略す)が公布され、クローン人間産出などの禁止条項は即日施行、他の条項は2005年1月1日から施行されている。
「生命倫理法」は、人の胚などの作成と研究利用、遺伝子検査と遺伝子治療、遺伝情報の保護と利用を国の許可制などの規制対象にし、さらにこれらの諸問題に対する専門審議会の設置などを規定した、アジアで初めての、生命倫理に関する包括的な法律である。
このように広い範囲を対象にした法律だが、生命倫理全体からすると、安楽死、人工妊娠中絶、生命科学の特許、死刑制度などは対象に入っていない。臓器移植や人体組織の管理などについては別の法律で定められている。
また、日本で議論が盛んになっている生殖補助医療とりわけ代理出産については、生命倫理法の策定過程で法律に盛り込もうとする動きがあったが、医師団体と女性団体の間で妥協点を見出すことができず、最終的に立法事項からは取り除かれた。その背景には、韓国の家族構造を踏まえた議論があった。不妊女性に対しては婚家や世間から受ける圧力や偏見が根強いため、医師側は子どもを持つための最後の手段として代理出産という道を開いておきたいと主張したのに対し、女性団体では代理出産は女性の身体を道具化しているにすぎないと反対していた。この議論が未だ熟さないなかで、現実にはインターネットのサイトを介して代理母契約が広く行なわれていて、実態把握もままならないのが現状である。

市民団体の関与が盛ん

 韓国の生命倫理法立法の特徴の一つは、策定過程に諸市民団体が積極的に参画し、公の空間にその議論を持ち出したことである。韓国社会は太平洋戦争終結後の民族解放後、朝鮮戦争、軍事政権、高度経済成長など急激な社会変化を経験してきた。そのなかで長期集権を行った軍事政権に対抗するため市民勢力が育ってきた。このような背景をもつ諸市民団体は、政府の科学技術への対応についても監視の目を光らせてきた。その成果のひとつとして諸市民団体が団結して、生命倫理法の制定を促した。また、カトリック教会、市民科学センターや韓国民友会のメンバーの一部は、本法律によって構成された国家生命倫理審議委員会の委員となり活動している。

理念より教訓による改正の動き

本法律の策定過程において最も争点となったのは、人クローン胚研究の是非であった。核を取り除いた卵子に別の細胞の核を移植して行うこの研究に対して、市民科学センターやカトリック界はクローン人間産生の前段階と認識し全面禁止を主張した。これに対し研究を推進しようとする科学界は難病治療のために許容すべきであると主張し、激論が交わされてきた。
その結果、現行法では人クローン胚の作成は不妊治療法・避妊技術の開発や難病のための研究目的のみに限られた。しかし政府は、附則に、施行前の実施を認める経過措置を盛り込んだ。これは、黄禹錫元教授率いる研究チームがすでに研究を進めていて、『サイエンス』誌に論文掲載が内定していたことに対し、政府が支援する積極姿勢を示したものである。だがこの研究チームが論文データ捏造事件を巻き起こし、人クローン胚の研究の承認を得ているチームは皆無となった(詳しくは洪、「科学的パフォーマンス」に覆い隠された韓国の論文捏造事件、『現代思想』2007年11月号、173-182頁参照)。
韓国政府は、この事件を教訓に法律の全面改正に着手するとともに、人クローン胚研究の許される条件を施行令で定めることで、中断されていた研究を早急に再開させた。これらの改正にあたっては、法律を支える理念の検討よりは、「論文捏造事件から得た教訓とは何か」についての検討が主な動因になった。

施行令では何が改正されたのか?

こうして2007年11月19日に生命倫理法の全面改正案が国会に上程され、現在、検討中である。この全面改正案に先行し、2007年10月4日に施行令が改正され、緊急課題としての人クローン胚研究の方向付けがなされた。
最大の争点は、研究用の卵子の調達条件である。改正施行令では、不妊治療で採取されながら廃棄予定になった卵子を使用することや、卵子提供においては、提供者から書面同意を得ることを定めた。これは、上記の研究チームが、所属する若い女性スタッフから卵子の提供を受けていたことが、強要にあたるのではないかと問題にされたことへの対応であった。韓国政府は、廃棄予定のものに限ることで卵子提供の倫理問題を回避し、これまで力を注いできた人クローン胚研究を再開させる道筋をつけようとしたのである。
だが、研究に使用できる卵子を限定したことに科学界は反発している。他方で政府の人クローン胚研究に対する変らない支援体制に、宗教団体や諸市民団体からの批判は根強い。科学界では、これまで2000個以上の質の良い卵子を使用しても1株のES細胞も樹立できなかった事実を踏まえると、廃棄処分予定の卵子の使用は実験の現実を無視し、手続きのみを煩雑にしたものであると批判した。これに対して諸市民団体では、人クローン胚研究は国を挙げて支援してきたにもかかわらずES細胞を樹立できず、卵子提供に伴う倫理問題のみを残したとし、研究を禁じるべきだと痛烈な批判をしている。
これまでの立法論議では、研究推進側である科学界と慎重な諸市民団体の間で平行した議論の堂々巡りが繰り返されたが、今回の生命倫理法全面改正案の立法予告の公聴会においては、医療側から多様な声も聞かれるようになった。それは、人クローン胚研究には慎重に取り組む必要があるとして、動物実験の積み重ねによる十分な検証と倫理的問題への配慮を主張するものであった。これまで研究推進一辺倒だった科学界に対し、医療現場から慎重な態度が出されるようになったのは、生命倫理法施行後のひとつの変化である。
 以上のような韓国における人クローン胚研究の是非を巡る議論では、卵子や胚の扱いの技術問題が中心に据えられてきたが、本来その根拠として重きが置かれるべき、「人」の生命や尊厳の始まりについては、あまり論議されず、コンセンサスがつくられようとしていない。何のための議論なのか、誰のための議論なのか、誰のための法律なのかという素朴な疑問を抱かざるを得ない。日本では卵を用いない、ヒト人工多能性幹細胞(iPS細胞)の研究成果が発表された。これによって、今後韓国内外における人クローン胚研究の議論がどう方向付けられるのか、目が離せない。

 続く「韓国の生命倫理議論を覗く(2)」では、現在国会で審議中の生命倫理法全面改正案では、何が論議の対象にされようとしているのかを紹介する。

洪賢秀(ホン・ヒョンスウ)「生命倫理の土台づくり」プロジェクトメンバー、 財団法人医療科学研究所研究員