タイプ
レポート
日付
2008/3/5

第2回研究会報告:日本人の心身観ほか

第2回研究会の概要

 2008年2月29日、第2回研究会を行なった。まず島田顧問から、「日本人の生命観:西欧との比較から」について、前回からの続きの発表とディスカッションがなされた。日本では神の視点からの「倫理」よりも人間中心の「こころ」が重視されてきたと考えられること、「こころ」のありようを巡る宗教的・哲学的思考の積み重ねに比べると「からだ」については相対的に関心が低かったと考えられること、その二点から、現代の生命倫理の問題について日本では欧米でのような原理原則からの政策論議がなされにくいことが指摘された。
 次いで、小門研究員から、日本における代理出産の規制に関する政策論議の経緯について報告があった。それを受けたディスカッションでは、数年をかけて複数の省や学術会議で審議・報告が重ねられてきたにもかかわらず、規制を実現させようとの意思が乏しいと感じられるが、それはなぜなのかが話し合われた。
 次回は、代理懐胎に関し、学術会議の最終報告書の提出に合わせ、規制の是非と内容について、引き続き小門研究員から発表を聞き、議論することとした。

  出席者:ぬで島、洪、小門、島田、赤川、吉原
  ゲスト参加:橋爪大三郎氏

発表と議論の内容


1 日本人の生命観 西欧との比較から[2](島田)


発表
一神教対多神教という2分法の問題点
 日本のように、一神教(キリスト教かイスラム教)の信者が総人口の5%に満たない国は、世界中にほとんどない。だが日本人(の世界観)にとって、自分たちの信仰が一神教でなく多神教であるということに、はたして重要な意味はあるだろうか。日本は多神教ではなく、村落共同体単位で唯一神を戴く一神教であるとの学説もある。
 日本では人が人に祟るが、西洋では祟るのは神の存在を前提にした悪魔である。人の祟りないし怨霊の信仰は、日本の社会と文化において、人のこころの働きが非常に強いことを示す一つの例といえないか。日本では、重要なのは一神と多神の対比ではなく、神とこころの対比ではないだろうか。

「こころ」と「からだ」
 最近、薬害肝炎問題において、「被害者・家族の方々とこころを一つにして解決にあたりたい」と厚生労働大臣が発言した。本来なら、被害者と加害責任者である国がこころを一つにすることなどできないはずだ。だが被害者側も、補償ではなく謝罪を主要獲得目標にし、国に対してきた。補償を受けても気持ちが一つにならなければ納得できないと、被害者側も考えているようだ。
 この例は、日本において「こころ」とは、対立する人同士でも融合する可能性のある働きを持つものだと考えられていることを示している。「こころ」は共同性(を築く働き)を体現するのに対し、漢字で書く「心」は、個人性(を築く働き)を体現している。
 では「からだ」はどうか。それも単に個別の器でなく、共同性を前提とした共有物であるとの認識は、たとえば身体は神の貸しもの、借りものであるという天理教の教義に現れている。だが「こころ」の重要性に比べると、「からだ」は日本ではあまり深く考えられてこなかった。

西田哲学における倫理
 西田幾多郎は『善の研究』で、「善とは・・人格の実現である」「その極は自他相忘れ、主客没する所に至らねばならぬ」と述べている。倫理の目標は人格の実現であり、それは「小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に至ってその頂点に達する」。これが、日本人が問題の解決にあたって「こころを一つにする」というときの一つの論理的根拠の表現ではないか。だが西田は倫理すなわち人格をいかに実現するか具体的な方法論は語っていない。

ディスカッション
 亡骸は捨て、遊離した魂を拝む日本の伝統的な葬制は、共同性の依代(よりしろ)は「こころ」であって「からだ」ではないことを示している。その点ではむしろ日本のほうが「霊肉二元論」なのか、との質問があった。それに対し、前回話題にした日本の宗教性の核である本覚思想は、すべての人がそのままで悟っている=仏性を体現しているとするが、そこでは心と体を分ける必要がなく、肉体への関心は低いので、二元論とも言い難い。こころの探求に重きが置かれ、からだについて突き詰めて考えられてこなかったということではないかとの応えが出された。臓器にも魂が宿るというような考え方は、近代に入って出てきた新しい観念だろうとの認識も示された。
 当事者が「こころを一つに」し「納得」できないと問題が解決しないというのは、筋道だった倫理を受け入れることと対立することだとの指摘があった。西洋の倫理は、神(の視点に立った論究)に善悪の基準があり、それを筋道立てて論証することにみなが従うのに対し、日本では善悪の基準は受け取る人の側にある。これまでの日本の生命倫理は、西洋発の倫理基準をいかに納得するかという作業だったと思えるが、納得できるかできないかは個々の問題でその場に集まった人々の間で決められるので、社会全体のルールにはなり得ない。脳死者の扱いはその一つの典型である。そこに根本的な問題がある。神の視点で決まっていることを人々の視点にずらして決めているという、この台座のずれを自覚的に選択し行なっているのならよいが、そうではないところに、日本の生命倫理のレベルの低さがあるとの重要な指摘がなされた。
 日本では納得主義で行くと決めてしまうことはできるが、それは個々の場に依存するので、安定したルール(の原理)の形成にはつながらない。「納得」と社会全体のルールを示す法律などの策定をどう位置づけ結びつけるか。そこが問題であるとの認識が共有された。また、集まった人々が納得を決める際には、当事者すべてが対等ではなく、その人が納得したといえば自分はしていなくてもそうはいえないという力関係も働くとの指摘もなされた。
 日本におけるこころとからだのありようが発表の通りであるとすれば、共同性=普遍性を体現する価値、たとえば人権が、霊と切り離されずに肉体の隅々にまで宿るというフランス生命倫理法の根拠原理は、日本では受け入れるのが困難だということになるのか、との提起があった。それと関連して、日本人同士でなく外国人ともこころを一つにし納得することができるのか、という疑問も出された。
 以上の討議の結果、こころとからだの関係については、生命倫理上の具体的な問題を対象に、さらに分析を深めていく必要があるとの認識が示された。

2 日本における代理懐胎規制のあり方 学術会議の議論から[1](小門)


発表
イントロ:代理懐胎の類型
 人工授精型(依頼男性の精子を代理懐胎者に人工授精する)
 体外受精型 
  ・依頼男女の体外受精卵を代理懐胎者に移植する
  ・第三者の提供卵子と依頼男性の精子による体外受精卵を代理懐胎者に移植する
 規制論議の対象は、依頼男女の受精卵を用いる体外受精型にほぼ限られている。
 このほか、これまで議論の対象になっていないが、第三者の提供精子と依頼女性の卵子あるいは第三者の提供卵子による体外受精卵を代理懐胎者に移植する類型もありうることが指摘された。

1 学術会議に審議依頼されるまで
 1)学会の自主規制→国の規制の検討の頓挫
  *2003年日本産科婦人科学会「代理懐胎は認めない」会告
  *2003年厚生科学審議会生殖補助部会「代理出産禁止」答申
  *同年法制審議会生殖補助医療関連法制部会「出産した女性が子の母」答申
 厚労省・法務書答申はその線に沿った立法を提言したが、実現せず。
 2)実施例
 *関西在住夫婦(2003年出生届不受理、2004年不受理取消申し立てを2005年最高裁棄却、母子関係認めない判断が確定)
 *向井亜紀・高田氏夫婦(2001年頃から代理懐胎依頼の意思を公表、2004年に米国で代理懐胎により双子を得、帰国するが出生届不受理。2006年9月に東京高裁は受理を命じたが、2007年に最高裁が高裁決定を破棄、母子関係を認めない判断が確定)
 *根津八紘医師(2003年に実施を公表、以後2008年2月までに8例実施)
 向井・高田夫婦と根津医師の実施公表により、世論が厚生労働省審議会による禁止の答申と乖離を見せてきたため、2006年11月に、厚労大臣と法務大臣が連名で学術会議に審議を依頼するに至った。

2 学術会議の議論
 1)審議経過の概要
 2007年1月19日から2008年2月18日まで計16回の委員会と08年1月31日に1回の講演会が行なわれた。審議は委員および招聘識者の発表と委員間の討議によって進められた。
 委員の構成は法学、医学(産科/小児科)、生物学、生命倫理学から成る。
 招聘識者の顔ぶれは、医学者、ジェンダー学者、宗教学者、精子提供人工授精によって産まれた人、代理懐胎依頼者、代理懐胎実施医師、新聞社論説委員、弁護士、厚生労働省委託調査実施者であった。
 2)論点と課題 → 次回報告

ディスカッション
 政策論議の経緯を聞いてみると、どうも関係者にやる気が感じられない、面倒なことをやらされているという感じが強いという感想が出され、それはなぜなのかについて議論がなされた。一つには、分娩した女性が母とならないこと、産みの親と育ての親が意図的に分離させられることへの抵抗が強い一方で、やってはいけないという理屈にも皆があまり納得していないからではないかとの指摘があった。継母による子どもいじめはメロドラマの古典的テーマだったが、最近はあまり見なくなった、そのことも影響しているかもしれないとの指摘もあった。
 やる気がないのは、代理懐胎を認めたくないということではなく、逆に禁止したくないということでもなく、ただどちらに決めるにせよその矢面に立ちたくないだけではないかという指摘もあった。それと関連して、同じように責任官庁が法案作成をせず(できず)、議員提案にゆだねて立法までに時間がかかった脳死移植論議における「納得(のなさ)」を比較対象とすることで、代理懐胎論議の特徴を分析してはどうかとの提起があった。さらに、きっぱり禁止という結論で立法がなされたクローン人間の場合の倫理論議との異同はどうかという指摘もあった。

 以上を踏まえ、代理懐胎の賛否の議論の内容について、次回研究会で詳しく取り上げることとしたい。


とりまとめ:プロジェクトリーダー ぬで島次郎