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《時評》脳を再生?~「万能細胞」の利用はどこまで許されるか~

November 20, 2008

人の脳が試験管の中でできた

去る11月6日、体中のさまざまな細胞に分化できる多能性をもち、再生医療における「万能細胞」と期待されるES細胞(胚性幹細胞)から、人の大脳の組織をつくることに成功したとの報道があった。
この研究を行ったのは、神戸にある理化学研究所発生・再生科学総合研究センターのグループである。同研究所のプレスリリースによると、これまで人のES細胞からバラバラの神経細胞はつくれていたが、立体的な構造にするのに成功したのは世界で初めてだということである。
つくられたのは、運動・知覚・記憶などを司る大脳皮質の部分である。できた脳組織は、わずか2ミリほどの大きさではあるが、生体の中で働く脳と同じような電気的活動を示したという。彩色され美しい層構造を現したその脳組織の写真は、研究論文が掲載される国際的な学術誌の表紙を飾ることになった。それだけ注目に値する業績であることは間違いない。

脳を人為的につくってよいのか

大脳皮質は、人の本質に最も関わる機能を担うところである。分化させた細胞から、自然のものと同じように機能する組織をつくる再生医学研究のなかで、心臓や膵臓などの一般の臓器と同じ扱いでよいだろうか。
私は、人のES細胞を用いた再生医学研究が日本で始まろうとしていたとき、次のように述べた。「何をどこまで再生していいのだろうか。たとえば、中枢神経から脳まで再生していいのだろうか。脳が人格の座で特別の臓器だとすれば、それは許されないだろう。脳死を人の死とする考え方は、・・脳にそうした特権的な地位を与える価値付けに基づいた死生観だといえる」(拙著『先端医療のルール』2001年、59頁)。
しかしその後日本ではこの問題は論議されないまま、今回の成果の発表を迎えることになった。考えなければならないのは、こういうことである。
第一に、人の生命と身体を形づくる要素のなかで、脳はどれだけ特別の存在だと捉えるか。生命の設計図とされた遺伝子や、生命の萌芽とされた受精卵に求められた特別の扱いと比べて、脳はどのような位置付けにするべきか。
第二に、その脳の位置付けに見合う形で、脳を扱う研究の何をどこまで認めてよいか。
脳再生研究の是非を判断するには、この二段構えの問題を十分に検討する必要がある。

脳組織の再生は倫理審査をパスしていたか?

そこでまず指摘しておきたいのは、今回発表された研究が、国の審査をパスした内容とだいぶ違っていることである。
人のES細胞を用いる研究を行うには、研究実施機関と国(文部科学省)の審査を受けなければならない。そこで研究計画の科学的・倫理的妥当性が審査される。審査結果は公表されるので、日本でどのようなES 細胞研究が行われているか知ることができる。
理研のグループがこの研究を国に申請したのは2004年1月だった。公表されているその概要は、「ヒトES細胞からのドーパミン神経細胞などの神経細胞・・への分化誘導法の開発と分化細胞の分離・純化法の検討を行う」というものだった(文部科学省ヒトES細胞使用計画一覧、番号11)。ドーパミンとは脳内物質の一つで、パーキンソン病の治療に有効とされるものである。ドーパミンを産生する神経細胞は、脳の奥の方にある大脳基底部に分布している。それに対して大脳皮質は脳の表面部分で、まったく別物なのである。
つまり審査された研究計画の概要をみる限り、大脳皮質組織を再生する研究がそこに含まれているとは思えない。文科省の審査委員会での申請者の説明でも、ドーパミン神経細胞の分化誘導が主な目的であるとしかいっていない。その後のやり取りでも分化した神経細胞を使ってさらに脳組織を再生することを想定していたとは思えず、その是非についてまったく議論されていない(科学技術・学術審議会生命倫理・安全部会特定胚及びヒトES細胞研究専門委員会第18回議事録、平成16年3月5日)。国の審査はこの一回だけで、申請されてから承認まで二ヶ月足らずという速さだったことも、この研究計画が細胞の分化だけのシンプルな性質のものだったことを伺わせる。
この理研のグループは、今年(2008年)8月に、やはり脳の一部である視床下部の細胞をヒトES細胞からつくることに成功したと発表している。視床下部は、大脳基底部よりさらに奥にある部分で、ホルモン調節を司るとともに、情動などの機能にも関与しているとされる。視床下部の再生に挑むことも、申請された計画からは窺う由もない。だがこれはまだ「ドーパミン神経細胞などの神経細胞の分化誘導」に含まれるといえなくはないかもしれない。
研究の進展によって、当初想定されていなかったことをやる必要が出てくるのは、未知の事象の解明に挑む科学の本性上、あって当然のことである。しかしバラバラの神経細胞をつくるのと、組織化され生体内での機能を発揮する大脳皮質をつくることとは、科学的にも倫理的にも大きな飛躍がある。その可能性が見えた時点で、計画変更の追加申請をすべきだったと私は考える。

倫理とは社会に問いかける姿勢である

だがもちろん、問題なのは倫理審査の手続き上のことではない。大事なのは、人の脳の一部を試験管の中でつくることができるとわかった以上、これからその研究をどこまで進めてよいか、きちんと考えておかなければならないということである。
理研の今回の成果にしても、申請した計画のとおりに神経細胞を分化させて培養法をいろいろ試していたら、細胞のほうで勝手に自己組織化して脳になった、意図してそうしたのではない、ということなのかもしれない。そうであるなら、生命現象の計り知れなさの前で、いっそう謙虚になることが求められる例だと捉えるべきだろう。科学者の自由で大胆な挑戦に水を差すつもりはないが、関係者には、研究の自然な展開でしたといって済ませず、このまま研究を進めてもよいでしょうかと社会に問いかける姿勢で臨んでほしい。

精子と卵子の作成は禁止されていた

ヒトES細胞を用いる研究の許される範囲と条件を定めた国の倫理指針には、脳組織について何も規定がない。一方、つくってはいけないとはっきり決められていたものがある。精子と卵子である。
ES 細胞は、受精卵(胚)を壊して取り出された細胞塊からつくる。子宮に戻せば一人の人間に育つ胚は、「生命の萌芽」であり、倫理的に最大限の尊重をしなければならない。そうした考え方から、ES細胞を胚からつくる研究だけでなく、胚からつくられたES細胞を使う研究も慎重な扱いが求められ、国の審査が義務づけられた。
精子と卵子の作成が禁止されたのは、その二つを受精させれば人為的に人の生命の萌芽である胚をつくれてしまうからだとされていた。しかし胚はともかく、その前の段階の精子と卵子まで特別視する必要はないという声が高まったため、今年(2008年)3月に文科省に検討委員会が設けられ、精子と卵子の作成を解禁する方向で議論が進んでいる。だが現状ではまだ認められていない。

生命の萌芽/意識の萌芽

それに対して、先にも述べたように、脳の細胞や組織の作成は是非が問われることはなかった。だから今回の理研の研究も可能だったのである。解禁される方向とはいえ精子や卵子はつくってはだめだとされ、脳はかまわないというのは、はたして妥当といえるだろうか。バランスを欠いていないだろうか。
受精卵が人の生命の萌芽であり、それに相応しく尊重されるべきで軽々しく研究材料にされてはいけないというなら、電気活動を示す脳組織は「意識の萌芽」であり、その地位に相応しく慎重に扱われるべきだといえないだろうか。西洋でも日本でも、人の胚を体外で操作してよいのは、受精後14日までと決められている。その頃になると、胚に将来脳になる部分が出来上がるからである。脳の元ができると、より人に近い存在になったとみなされ、それ以降は手を触れてはいけないとされる。脳は、それだけ重要な器官だと捉えられているのだ。
であるとすれば、生命の萌芽の滅失(胚を壊して万能細胞をつくる)と同じくらい、あるいはそれ以上に、意識の萌芽の作成と操作(大脳をつくって患者に移植する、など)も、人の尊厳に抵触する恐れがあると考えられるのではないだろうか。

脳が占めるべき地位

人の生命と身体のなかで、脳はどれだけ特別の存在で、どれだけ慎重に扱われなければいけないか。脳の人為的作成や移植は許されるか。研究や医療目的でどこまで人の脳に介入が許されるか。これらの問題は、日本だけでなく諸外国でも、まだ十分に検討されていない。その端的な例が、遺伝子から細胞・臓器・個人情報まで、世界で最も広範な対象をカバーするフランスの生命倫理法における脳の扱いである。あらゆる人体要素を対象にしながら、フランスの生命倫理法では、脳について特別の規定はなく、移植利用や研究利用について、ほかの人体組織と区別がない。ES細胞研究についても、脳組織の再生を禁止する規定はない。
生命倫理法は、医療や科学の発展に合わせて、5年ごとに見直すことになっている。2010年に予定されている次の見直しのための論議では、脳科学も検討対象の一つになっている。いまのところ脳機能の計測と操作がもたらす問題(たとえば数値化された能力の差による差別の恐れ、薬物による記憶の増強の是非など)が主で、脳の再生と移植については議論されていないが、今後どのような動きがあるか、注目したい。

私たちは脳を粗末に扱っていないか?

今回の脳再生研究に対し私が一番言いたいのは、私たちは脳が人の本質を担う重要な臓器だと漠然と考えていながら、実際の研究現場などでの扱いにはあまり関心を払わず、結果的に脳を粗末に扱うことになっていないか、ということである。
その兆候は、近年の脳科学ブームからも見てとれる。いまの脳科学は、人に刺激を与えて脳のどの部分の活動が高まったかを計測し、認知や情動の機能を分析する研究が主流である。その結果から、ゲームや計算をすると前頭葉がよく働くから頭が良くなる、お年寄りのぼけが防げる(実際は血流や代謝が周りの部位より多くなるのが分かるだけで、なぜそこから特定の機能が実現するのかは分かっていないのだが)などといわれる。「脳トレ」というゲームソフトのヒットはその端的な例である。こうしたブームのなかで、脳は、能力を示す単なる計器盤ないし道具とみなされるようになっていないだろうか。
生命倫理の分野でも、同じような脳の「軽視」がみられる。1990年に米国でヒトゲノム研究の国家プロジェクトが始まる際、遺伝子研究がもたらすであろう倫理的・法的・社会的問題を研究する予算枠が設けられた。これがヨーロッパや日本にも波及して、生命倫理研究の制度化につながった。しかし同じ年に始まった脳研究プロジェクトには、そうした倫理枠はつくられなかった。その後2002年頃から、ニューロエシックスという脳科学の倫理を考える専門分野が起こったが、それは民間の自発的な動きで、ヒトゲノムのときのように、科学研究の一部に倫理研究を組み込むことを公的に認知するものではなかった。私はこれが前から不思議でならなかった。人の尊厳と倫理にかかわるといったら、遺伝子よりも脳のほうがはるかに重要だと思うからである。
ようやく本格的に始められた脳科学倫理において、神経細胞や脳組織の移植を、病気の治療だけでなく認知機能の増強などに用いてよいかどうかという議論はみられるが、脳組織そのものをつくってよいかどうかという問題提起はまだ見あたらない。脳科学倫理の問題のたて方は概して、研究の成果が悪用された場合に関心が偏っていて、研究そのものの問題点、すなわち人の脳をどこまで研究対象にしてよいかを正面きって問うことがなさすぎるように思う(ぬで島次郎「脳科学は「非侵襲的」たりうるか?」『現代思想』2008年6月号参照)。

脳と科学研究の自由

目を見張る成果に心躍らせながら、どこかで不安な気持ちも拭えない。それは生命科学の世紀といわれる21世紀になっても、いや逆にそうだからこそ、人々が抱き続ける思いである。研究者は、それに真摯に応える義務がある。
生命の研究の自由が許される範囲はどこまでか、やっていいこととよくないことは何かを、絶えず問い続ける必要がある。それは社会の科学に対する信頼を維持するうえで、重要かつ不可欠な基盤である。「生命倫理の土台づくり」プロジェクトでは、この問題を重要課題と位置付け、研究を重ねてきた(詳しくは、 第4回研究会報告 第8回研究会報告参照)
今回の脳再生研究の発表が、脳に相応しい地位をあらためて考えるとともに、そうした科学と社会の関係の土台を築くための議論を進めるきっかけともなるよう、願っている。


ぬで島次郎 プロジェクトリーダー

    • 元東京財団研究員
    • 橳島 次郎
    • 橳島 次郎

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