タイプ
論考
プロジェクト
日付
2014/1/9

【Views on China】 金門今昔

早稲田大学准教授
陳天璽

●はじめに

 金門と厦門は海を隔てて隣接している。中華人民共和国の成立以降、海を隔てて目視可能な2つの地域は政治的に分断され、それぞれ台湾と中国という異なる政治体制のもとにおかれてきた。しかし、元をたどれば、両地の人々は同じ民族集団であり、閩南文化圏として言語、信仰、慣習などを共有している*1。2008年の国民党政権成立以降5年で、再び地域主導により、金門と厦門が一体となった経済振興の取り組みが活発化している。

●地理的特徴と略史

金門は中華民国(台湾)の一つの県であり、中国福建省の九龍江口に位置し、大小12の島々から構成されている。台湾海峡の西側、厦門湾にあるこの小さな島は海上交通や防衛において重要な地とみられてきた*2。台湾本島とは約270キロ離れているが、中国の厦門とは海を隔て目と鼻の先にあり、金門から対岸の厦門を眺めることができる。中華人民共和国ともっとも接近したところでは2キロほどしか離れていないという。

1840年代、南京条約により中国が欧米に港を開放した際、開港された5港のひとつに厦門は含まれていた。この時、この地域の若者の多くは職を求めて海を渡り、多くが東南アジアを目指した。海外で財を成した華僑、華人たちは、故郷に錦を飾ろうと、送金し、家族のための家屋のほか、学校や宗教施設、道路の舗装など、「僑郷」の建設と発展に寄与した。その跡が、厦門や金門には今でもしっかりと残されている。

1949年、中華人民共和国が成立し、その一方で中国国民党が台湾に移って以降、金門は厦門と分断され、国民党の軍事拠点となった。冷戦時代、金門は国民党と共産党の軍事的衝突の前線としての役割を負う。それから半世紀ほど、金門の人々は戦争と隣り合わせで生活することになった。

台湾本島では1987年に戒厳令が解除されるが、金門と馬祖はそれから5年ほど遅れ、1992年11月7日にようやく戒厳令が解除された。その翌年の2月7日、金門は観光地として正式に開放され、さらに1995年、金門国家公園が台湾における6つ目の国立公園として指定された。前線だった金門ならではの軍事史蹟はもちろん、戦地ゆえに経済開発が遅れたため、今でも閩南の伝統集落が残っている。そうした歴史的な建造物を見ようと多くの観光客が訪れている。金門は、かつての軍事前線から今では観光地へとその機能を転換している。                                      

●軍事史蹟と観光

 私は2013年10月末、閩南文化と海外移民に関するシンポジウムに参加するため、初めて金門を訪れた。地元の友人の案内でいくつかの軍事史蹟を訪れた。どこへ行っても、中国からの観光客が多かった。いくつか訪れた史蹟のなかで、成功海防トンネルが印象に残っている。対岸の厦門が見える海辺のすぐそばの岩山を掘り、トンネルの中で兵士が戦闘態勢を維持し、中国側と戦っていた痕跡が残っている。50年前の緊張した光景が目に浮かぶ。トンネルは戦車が走るほどの広さのところもあった。

1958年から20年間、中国側から金門に向けて47万発の砲弾が発射されたという。特に、1958年8月23日から10月5日の間には、中国大陸から金門に向け砲撃が続けられた。台湾側はこれを「八二三砲戦」と呼んでいる。金門の人々によると、その後も1979年まで、1日、3日、5日などと、奇数日には大陸側から砲弾が撃たれ、爆撃の音が鳴り響き、人々は恐怖に苛まれたそうだ。台湾本島の人々にとっても、金門は「いつ戦争が本格化するかわからない」、「『蛙人(ワーレン)』がきて、命を落とすことになるかもしれない」などと、恐怖のイメージが付きまとった。そのため、家族や友人が兵役で金門に派遣されることになると、とても心配した。「蛙人」とは、潜水技術に長けた工作員で、潜水して厦門と金門との間を泳ぎ、上陸して人を殺したと言い伝えられている。

中国人民解放軍による砲撃が停止されたのは1979年の米中国交樹立時である。米中国交樹立の際に国防部長の徐向前は『大、小金門等の島嶼への砲撃停止声明』を発表し、21年間におよぶ砲撃戦はようやく停戦することとなった。 中国から撃たれた砲弾は、良質な鋼鉄が使われているので、それを再利用しない手はないと、包丁が製造されるようになった。今では、「金門菜刀(包丁)」は、高粱酒や貢糖(コンタンという特産菓子)などと並び、金門の名産品となっている。今回、金門に行くので、友人に包丁を頼まれて買ってきたが、有名包丁店では多くの中国人観光客を見かけた。かつて中国から撃たれた砲弾でできた包丁を、今では中国大陸からの観光客が曰くつきで土産に買って帰るという構図になっている。

●「小三通」で両岸を行き来する人々

鍵を握るのは人々の動きだ。2001年1月1日から、「金門-厦門」、「金門-泉州」、「馬祖-馬尾」の間で「小三通」が実施され、これらの地を結ぶ定期便が開通し、金門と厦門、泉州の52年間に及ぶ断絶を終結させた。 さらに、2004年、中国福建省政府が「海峡西岸経済区」構想を発表して以降、厦門が発展し金門もそれに便乗した形で変化が起きている*3。航空便のほか、船便が定期的に運行されており、金門は台湾海峡両岸にとってハブ機能を持つようになっている。台湾本島とは、台北、台中、嘉義、台南、高雄との間に定期航空便が運航されており、それぞれ運航時間は50分から1時間ほどである*4

一方、金門島の水頭港と料羅港からは、中国大陸側に船が定期的に運航されている。水頭港は大陸との「小三通」の出発点に指定され、たとえば、厦門の国際郵輪センター埠頭との間では定期船が毎日12往復している。金門と厦門は、40分で対岸に到着するほど近い。厦門、泉州と台湾本島との移動に金門を経由する人も多く、航空会社が水頭港と金門空港間で送迎サービスを提供している。私が金門を訪れていた間、台北に住んでいる友人と偶然会うことになった。彼は、厦門で行われていた会合に出席し、たまたま帰りのルートとして、厦門から船で金門に渡り、金門から台北に空路で戻るところだった。彼によれば、金門を経由する方が移動費が割安であり、しかも出入国の手続きも簡単だという。金門では、航空便も船便もたくさん運航しているので、時間もそれほど無駄にならないそうだ。2012年、中華民国行政院大陸委員会『金馬小三通航運人員往来統計月報』と内政部入出国及移民署の統計によると、2001年から2012年の間、金門を経由し「小三通」で出入国する人数は増加し続け、今では年間900万人を越えている*5

 人の移動が頻繁化するにつれて、歴史的に一旦は分離された人々の意識も急速に変化し、一体感を増大させている。特に、若者の間では、対岸にいる人々と物理的にも、精神的にも距離が急速に縮まり、新しいライフスタイルが始まっている。国立金門大学で会議に参加している間、現地で知り合った青年が、近々結婚をするとかで話題の中心となっていた。男性は台湾出身であり現在国立金門大学で勤務する一方、妻は大陸出身者で厦門在住である。50年前までは敵対する地域の出身者が、いま結婚する。これは地元の人にとっても明確な変化として感じられることだ。二人が結婚後どちらの地域を基盤に暮らすのだろうと興味をもち、聞いてみると、二人はそれぞれ金門と厦門で離れて暮らし、このまま両岸を跨いで新婚生活を送るつもりだという。週末のみ、どちらかでゆっくり過ごすのだそうだ。緊張下であったとしても、愛があるゆえに2人が手に手を携え、身を寄せ合って暮らすことは想像できるが、時を経て、お互いの地域を何のためらいもなく行き来する自由を満喫できるからこそできるライフスタイルだと言える。

●おわりに

 金門は、かつての軍事前線から、今世紀に入り、台湾海峡両岸の交通のハブとしての機能を高めている。金門は2030年までに国際経済モデル区になることを目標に、両岸のビジネスの窓口、そして生活および文化の交流窓口になるとともに、リゾート施設を開発するという計画を打ち出した。金門に残る歴史遺産の世界文化遺産への登録運動や中台共同の空港建設計画により、台湾側の観光資源を活用し大陸側の観光客を誘致するなど、対立を乗り越え、地域一体となった経済活性化を目指そうというのだ。

この変化は、政治的対立により分離された地域が、ひとたびその呪縛から解き放たれれば、同郷性や同族性など地域社会や文化的繋がりの関係性が急速に復活し深化することを表している。まだ日が浅いが、先述した若者たちの結婚生活に具現されているように、平和が続き、地域の一体感が深まってくれば、金門=厦門地域における閩南文化圏および経済圏としての存在感が、海外に渡った閩南系の華僑、華人を巻き込みながら、さらに強まるに違いない。



*1林華東、陳燕玲「海峡両岸閩南文化的伝承與延展」『閩南文化国際学術研討会 東亜、国家與閩南地方:閩南文化研究之深化 論文集』281-289.

*2江柏煒「後戦地城市治理的比較:金門與厦門的生態保育及歴史保存案例」『閩南文化国際学術研討会 東亜、国家與閩南地方:閩南文化研究之深化 論文集』161-184.

*3同上。

*4金門縣政府「金門旅遊簡介」

*5『金馬「小三通」航運往来統計表』http://www.mac.gov.tw/public/Data/32114342771.pdf (2013年12月23日)



陳天璽 CHEN Tien-shi 早稲田大学国際教養学部准教授 筑波大学大学院国際政治経済学研究科修了、国際政治経済学博士。ハーバード大学フェアバンクセンター研究員、ハーバード・ロースクール東アジア法律研究センター研究員、東京大学文化人類学研究室(学振PD)、国立民族学博物館准教授を経て、2013年4月より現職。