インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:高山亨太さん <後編> | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

東京財団政策研究所

詳細検索

東京財団政策研究所

インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:高山亨太さん <後編>

April 9, 2013

本物の専門職像を求めて留学

聴覚障害の支援に対する学究心が高まり、高山さんは筑波大学大学院に進学する。しかし、アルバイトで聴覚障害者の支援組織・団体に関与するうち、ソーシャルワーカーや手話通訳者など専門職の地位の低さに気付くようになり、「本物の専門職とは何か?」を追い求めて米国への留学を決断する。

その後、東海大学を2年で卒業して、筑波大学の大学院に進学しました。それまで自分は福祉というよりもソーシャルワークを勉強したけど、ろう者や難聴者を支援できる専門職を育てるカリキュラムや、自分のお手本となるロールモデルがなかなかいななかった。聴覚障害関係の研究や実践も結局、聞こえる人が中心となっているので、その頃から違和感が自分の中で芽生え始めて、大学の卒論を書いていた時、「もっと聴覚障害について学びたいな」「もっと研究したい」という気持ちになりました。当時、「聴覚障害について学ぶならば筑波大学」と言われるほどでしたし、東海大学で指導教員だった北野庸子先生から「筑波がいいんじゃないか」と薦めてもらって決意しました。大学院ではソーシャルワークや福祉を専攻せず、聴覚障害児に関する教育や発達心理の研究をやり、最初に聴覚障害を取り巻く状況そのものについて勉強することにしました。受験に際しては、情報保障を申請し、面接時には手話のできる教員が手話で質問を伝えたほか、机の上に質問事項があらかじめ書かれている紙が置いてあり、それを見ながら面接試験に挑みました。その手話のできる教員が、私の恩師の一人である奥野英子先生です。私の指導教員を引き受けてくれた上、奥野先生との出会いで、『聴覚障害児・者支援の基本と実践』というろう・難聴者のソーシャルワークに関する本を企画段階から出版まで関わらせてもらうことができて、自信を持てる経験をさせてもらえました。

大学院1年生が終わった後、聴覚障害者・難聴者を受け入れている米国の「ギャローデット大学」に3年間、留学しました。私が大学院の試験を受けた年に丁度、聴覚障害学生を海外に派遣する日本財団のプログラムの1期生募集が始まりました。私はプログラムの存在を知っていましたが、筑波大学大学院に受かったので、「まず日本で勉強してから行こうかな」と思っていました。それでも大学院の博士論文完成を待たず、ギャローデット大学に留学した理由は4つあります。1つは筑波大学大学院在学中から金町学園(=聴覚障害児の施設)の指導員として聴覚障害児の生活支援も含めて専門職として関わった時の経験です。当時、大学院の指導教員だった奥野先生に「研究者になりたければ現場を知らないとダメですよ」と言われて、「現場を見なきゃ」と半ば強迫的に思い詰めていました。金町学園も職員による虐待問題で態勢を立て直している最中で、国家資格を持つろう者の人材を捜していたらしく、タイミングが良かったので指導員として働く機会を持ちました。その時に聴覚障害者の福祉に関わる専門職の専門性や意識の低さに直面し、「本物の専門職は何か?」「プロフェッショナルとは何か?」「聞こえない人に関わることのできる専門職をどう育てるのか?」という疑問が出て来たのです。すると、奥野先生から「本物の専門職の養成に関わりたいと思うなら、本場のアメリカでのソーシャルワーカーやカウンセラーの養成の現場を見て来なさい」「私がいる間に行って来たらいいんじゃない。筑波大学を途中で休学して、留学することについて、私に対して気を遣う必要はない」「私の指導学生として私が責任を持つから、その間に是非行ってきなさい。博士論文に大きな影響を与える学びをアメリカの現場から得られるでしょう」と背中を押してもらったのです。

もう一つは大学4年か、大学院1年の時だったと思うんですが、アメリカで初めてソーシャルワークの博士号を取ったろう者の男性が来日し、講演を聞きに行きました。この方は韓国系の人で、スティーブン・コー先生というのですが、東京都の公務員として福祉の仕事を40年間続けた野澤克哉先生と繋がりがあり、野澤先生の企画された講演会に参加したのです。その時、ろう者で博士号を取り、ギャローデット大学で教授として、ソーシャルワークを教えている人が目の前で講演していたわけです。それで、研究者を目指していた自分としては、非常に感銘を受けてコー先生と個人的に連絡を取らせてもらうようになりました。コー先生からも「ギャローデット大学で勉強したらどうか」「来るのなら推薦状を書いてあげるよ」と言って頂いたのです。非常に嬉しい出会いでした。

3つ目の理由としては、筑波技術大学(=視覚・聴覚障害者を専門に受け入れている大学。当時は筑波技術短期大学)の在り方に対する疑問です。筑波技大は筑波大学の隣に立地しているので、筑波技大に事務局を置く「PEPNet-Japan」(=日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク、聴覚障害学生の支援に関する情報共有などを目的とした組織)でアルバイトをやりました。当初は筑波技大について、「聴覚障害学生のための高等教育機関で、先生も手話を使って講義をやっている」というイメージだったんですけど、アルバイトで入ってみると手話ができない先生が多く、学生の不満も聞いた時に「何のための大学なんだ。逆に聞こえる先生のための大学なんじゃないか」と当時、血気盛んな大学院生として、腹が立ったのです。最後の理由としては、聴覚障害に関するソーシャルワーカーの養成に興味を持っていたことです。当時、ろう・難聴者に関わるソーシャルワーカーや精神保健福祉士、社会福祉士を持つ聴覚障害当事者のソーシャルワーカーが集まれる研修の機会が限られていたので、ろう者として初めて精神保健福祉士を取得した大阪の稲淳子さんと一緒にネットワークを発足し、現在の「日本聴覚障害ソーシャルワーカー協会」の設立に繋がりました。このように聴覚障害者に関する専門職の育成に興味を持っていたので、ギャローデット大学でのソーシャルワーカー養成の現場を見たかったのです。

本物のろう者のための大学であり、ろう者のための専門職を養成しているのがギャローデット大学です。こうした理由から「これはギャローデット大学を見にいくしかない」という気持ちになり、日本財団の助成制度を使って筑波大学大学院での博士論文の完成を待たずに申し込みました。ギャローデット大学に行ってみると、自分としてはろう学校(=現在の聴覚特別支援学校)の経験がなかったので、手話で学ぶこと、手話でコミュニケーション取れることは凄く新鮮でした。高校の時に学んだ手話と言えば日本語対応手話だったので、独自の文法を持つ日本手話を習得していたわけではありませんでした。当時は「手話は言語である」と言われてもピンと来なかったし、実感を持てなかった。でも、ギャローデット大学はアメリカ手話を使うので、初めて「あ、こういうことだったんだ。英語とは違う他の言語なんだ」と。「ろう文化」と言われている文化もあり、ろう者という人達の生き方がそこにあった。これを初めて目の当たりにして、今まで自分がやってきたやり方はギャローデット大学では合わないし、これから通用しない、無理だろうと気付かされたんです。アメリカ手話については、留学後に覚えました。留学前に研修の機会があったんですが、行きませんでしたので、基本は留学後に覚えました。初めは「留学するのなら普通の大学、聴者の大学の方が良かったんじゃないか」と思いましたよ。でも、日本財団に申請する際、「自分が学ぶべきことはギャローデット大学でしかない」「どっぷり浸かってやろう」と思い直しました。もう英語なんて聞いたって意味が分からないし、口話(=補聴器を活用し、口の動きで会話を読み取り、音声言語を活用して会話する方法)だって分からない。だから補聴器なんか持っていても仕方がないと思って、留学中は補聴器を全く使わず、手話で生きてみようと思いました。

ギャローデット大学と日本の違いを最も感じた所としては、専門職の地位が非常に高いこと。日本の専門職でも頑張っている人は多くいますし、素晴らしい取り組みもあります。ただ、社会的な位置や認知が低い。それは、ろう社会の中でも同様かもしれません。例えばカウンセリングにしても、「何か判断に迷ったらカウンセリングを受けに行こうかな」という文化がアメリカにはあり、しっかりと専門職が社会的にも認識されている。日本の場合、カウンセリングと言うと、「特別な人のための支援」という認識ですよね。支援する側の教育面でも、アメリカと日本では大きな差があると思います。実際、大学院在学中に金町の聴覚障害児施設で働いていた時、専門職として同僚とコミュニケーションできなかった。アメリカではアルバイトや実習もさせてもらいましたが、アルバイトで学生だったとしても、相手は学生としては見ない。一人の専門職として何か意見を求められたり、対等な立場で議論ができたり、深い議論ができました。日本の場合、そういった経験はほとんど持てなかったので、やはり育成プロセスと士気の両方が違うなと。例えば、日本で聴覚障害者や難聴者という人達の相談を担っている人達としては、「ろうあ者相談員」「手話通訳者」という職があります。しかし、日本の場合、通訳者が相談員を兼ねている所も多いのが現状です。でも、この両者には必ずしも大学で専門の教育を受けているわけではない人が多い。他の障害者や高齢者の場合、専門教育を受けた専門職が支援するのは普通と思いますけど、まだ聴覚障害者の世界だけは専門的な教育を受けていない人が相談員として勤務したり、資格が要らなかったりする状況があります。経験が長いことを理由に相談員として雇用している実情を見ると、「聴覚障害者のための専門職って一体何だろう?」と改めて気付かされました。ギャローデット大学に行ってみて、専門職を育成する様子も見て分かったことがたくさんあります。やはり、学問なくして、専門職養成は成り立たないと。

大学や大学院に進学して良かったのは、世の中の不条理について知ることができたことです。私にはろう者や難聴者の仲間がいますが、知人と色々と話すと、障害者雇用率の問題とか、給料が上がらないままでいるとか、簡単な仕事を10年も20年も続けさせられている現状を知るに至りました。その時に「制度だけ作っても意味がない。その制度を作ったのは福祉の考え方に基づいており、実際には聴覚障害者の人達が満足できる生活に繋がっているのかどうか?」という疑問が湧いて来て、福祉制度や福祉専門職に違和感を持つようになりました。例えば、障害者の雇用率だったら数字は確保しているけど、全然本人の能力を引き出してない。確かに働いているけど、その人の能力に見合わない仕事しかしなくて賃金が低い。私が福祉を好きになれないのも、この辺に起因しています。実は、専門学校に入る時から疑問を持っていました。聴力のレベルが70デシベルに達しないと手帳が出ないとか、同じ聞こえない仲間でも手帳が出たり、出なかったりとか。しかし、大学や大学院で勉強するうちに「この現状は何だろう?」と感じることが増えてきた。しかもアメリカに渡って分かったのですけど、日本の場合は制度が先行するという側面がある。一方、アメリカは手話通訳者の育成など専門職を整備し、それぞれのニーズに合わせて支援する、つまり合理的配慮という流れがある。福祉自体が肌に合わないというわけではないのですし、社会保障が非常に大切であることも理解しています。だけど社会的な弱者に対しての見方が一律で、要件に合わないと制度を使えない。実際、大学では福祉の枠組みで手話通訳を自治体に頼めなかった経験があります。自分が福祉や社会保障制度についての知識を蓄積するほど、自分や聴覚障害者が使えないという現実を知ることになり、疑問や怒りを感じるようになりました。日本の制度は制度を作る人間か、制度を提供する人の論理で構築されるので、制度を使う人の意向に立っていないのが現状です。

専門職のレベルアップと地位向上を目指して

帰国後、高山さんは様々な学校・機関でろう・難聴児や成人に対する心理面のカウンセリングに当たっている。しかし、情報保障の機会が提供されず、聴覚障害者の社会参加機会が拡大していない点や、聴覚障害者、特にろう者の研究者が少ない点を課題として指摘する。

現在は、東海大学や日本社会事業大学など9カ所の大学・専門学校の非常勤講師や客員研究員をやりつつ、都立中央ろう学校や都立葛飾ろう学校、金町学園で、聴覚障害児・者に対する心理面のカウンセリングを続けています。今後はろう者・難聴者に関わるソーシャルワーカーや心理士、手話通訳者の養成に従事したいと思っています。元々、人間の心理に関わる仕事や研究をやりたかったので、2005年に精神保健福祉士の資格も取りました。臨床心理士の資格は国家資格ではないですし、国家資格の中で自分のやりたい業務に一番近いのは精神保健福祉士だったためです。しかし、いずれは臨床心理士の資格を取得したいと現時点で考えています。現在は「社会福祉」と言えるような仕事や職務に携わっていませんし、カウンセリングや心理検査など臨床心理士の範疇に入る仕事が多いので、自分の職業アイデンティティを改めて見直しているのが現実です。ソーシャルワークや臨床心理といったカテゴリーにとらわれずに、対人援助専門職としての自分の専門性に常に向き合い、その力量を向上させる気持ちだけは忘れないようにしたいと考えています。

しかし、多くの現場を見て来て、聴覚障害者を対象としたカウンセリングやソーシャルワークの専門性については、全般的に「ちょっとな…」と感じることがあります。つまり、あいまいな状況なのです。例えば、ろうあ者相談員も二つに分けられると思います。まず、国家資格をきちっと取って専門職として頑張っている人ですが、全体的に数が少なく、大半はろう運動の経験などで採用されたピアカウンセラーとしての相談員です。私自身、「この人は専門職として、この人はピアカウンセラーとして連携を取ろう」とか分けて対応することはありますが、一番困るのは相談する人ですよね。当然、「いい支援を受けたい」と思ってくるので、状況に応じて、良い専門職もしくは良いピアカウンセラーに出会う機会を増やしたいし、増やさなければいけない。そのためには大学レベルで若い聴覚障害者に対する指導や研修の機会を設けることが大事になってくると思います。

しかし、阻害しているのは音声言語。特にろうの人は手話を使いますね。例えば専門職として働きたいとか、大学で働くとか、一般企業に入りたいとか、何処に行っても音声言語が基本。そこに通訳を置けばバリアはなくなるが、現状は何処でもすぐに通訳が来るのは難しいすし、音声言語が当たり前だという社会の在り方が既にある訳で、これが一番大きなバリアと思います。マジョリティーを中心にした専門職養成システムの構造が障害者の大学進学や専門職の普及を妨げていると強く考えています。実際、大学はろう者を職員として採用するのか。福祉や教育心理の関係では、ろう・難聴の先生が2人ぐらいいると思うんですけど、数は非常に少ない。全国の福祉系大学で教えているろう者の教員は一人もいませんし、心理学科の教員も同じかなと思います。そもそも「常勤」として働いているろう者の研究者は視覚障害、肢体不自由と比較しても圧倒的に少ない状況ですから。私のように非常勤で食い繋いでいるろう者の研究者は何人かいますが、音声言語で仕事ができないことがハードルになっていると思います。ろう者が「大学で働きたい」「研究していきたい」と思ったとしても、「手話を言語として使いながら研究する」という選択肢が日本の大学ではありえない訳で、この辺りは手話を言語としているアメリカと非常に大きな差が歴然とあると思います。

また、大学に進学する聴覚障害者の数も増やすことが目的ではなく、聴覚障害者が「手話やろう者の研究者を通して、学問が楽しいな」と思える機会が増えて欲しいと思っています。日本の大学は最近、表向きにはダイバーシティ(多様性)を重視しており、聴覚障害学生の大学進学者数を増やす流れになっており、それ自体悪いことじゃないと思います。しかし、実態としては自分の立場としては「その通りですね」とは言い難い状況です。本来ならば、ろうの学生が「大学に行って自分が変われた」「自信を持てた」と言える環境になっていくべきなのです。大学に入って来る聴覚障害者に関しては、今はインテグレーション(=健常児と障害児が同じ場所で教育を受けること)卒の人だけではなく、ろう学校から大学進学してきた人も増えており、インテグレーション教育を受けた人とろう学校の出身者の両者が抱えている問題はそれぞれ違うと思います。例えば、ろう学校から来た学生は音声言語の世界で学んだり、協働したりことに違和感を持つ方や自信をなくす学生もいます。一方、インテグレーションから来た学生は、これまでに音声言語の世界であいまいなまま、何となくやってきたので、自信がない学生が多いのです。大学で初めてノートテイク(=授業の内容をノートに記録することで伝える方法)を活用する学生もいますし、「聴覚障害と向き合う中で、これまで得てきた情報や学びを如何に改めて学び直すか?」という作業が求められます。通訳を付ければ済む問題ではない部分もある。

さらに、「自分は誰なのか?」というアイデンティティを持たないで入って来る学生や、学力が十分に備わっていない学生が増えている点には、少々危惧を感じています。もしかしたら一昔の大学の試験では多分入れなかったんじゃないかなと。今は子どもの数が減り、大学や試験方法さえ選ばなければ何処でも入れるようになっているので、自分で考えて自分で問題を解決し、解決する聴覚障害学生が減っていると思います。学力の問題などを抱えた聴覚障害学生の場合、コミュニケーションの方法が視覚障害学生や車椅子の人とは違うので、社会に出た時に通訳が常にいるわけじゃないとか、そういう見えないバリアも含めて課題は多い。私は大学で4年間、ギャローデットで3年間、非常にショックを受けて色々と感じたし、友人の支えで「学問は楽しい!」と思えるようになりましたが、そういう経験を彼らにさせられるか、彼らの素質を伸ばせるかどうか、自覚を持ってもらえるかどうかが重要と思っています。そのために大学にロールモデルがなければ、彼らにとっては「今までの学校と同じなんだ」という諦めも出て来るだろうし。「とにかく自分には力があるんだ」「こんなことができるんだ」という目覚めや自覚を持ってもらえるような大学づくり、教育の場づくりが非常に大事なんじゃないかと思います。特に、「学問は楽しい!」と思ってもらいたいと常に考えています。

同時に、大学は「最後の砦」と思うようになっています。今、ろう学生や難聴学生ろうに関わり、経験上思うことですが、彼らの自尊心が非常に低い。「自分が何か支援してもらうと駄目」「支援してもらうと、できないことに繋がって行く」と思う子が多い。本当はそうじゃないですよね。受け身や単なる自己主張だけじゃなく、周りをうまく巻き込んでいく力や、あるものをうまく使う力が大事であり、「ろう・難聴として自分を出しつつ、生きて行く上で必要な自尊心をどうやって小中高の辺りから育てていくのか?」という点は大切な問題と思います。しかし、現状では中学校が終わったら働くことは余りないし、高校までの教育で自己主張の機会がなかったケースも多いので、もう少し単純に言うと大学が「最後の砦」と思っています。大学に在籍している間、大学がその子達を守ることはできます。何か失敗したとしても、何か起きても守ることができるが、大学を出てしまうと「音声言語の社会」に出ていくことになります。それを考えると、大学って本当に大切なポイントになる。単に手話通訳を置けばいい問題じゃなくて、今までできなかったことを改めて振り返ったり、社会の仕組みを学んだりできる大学は聞こえない学生にとっては非常に大切な場所と思います。自分も今まで色々と勉強してきて、色んな経験ができたのは、大学に入った後です。社会のルールも分かりましたし、ろう文化も分かった。音声言語の社会との「壁」を意識できたのも、友達がたくさんできたのも、みんな大学に入った後です。色んなチャンスが転がっているのが大学ですし、聞こえない学生が初めて自分の力で取り組めるチャンスであると思います。「色んなことを学び直す最後の砦が大学なのかな」と自負は持っていますし、「大学教育を通じて、自分自身がろう・難聴学生のロールモデルになる」という思いを持って仕事に当たりたいと考えています。多くのろう・難聴学生に「学問」の楽しさを知ってもらいたいですね。

    • 元東京財団研究員
    • 三原 岳
    • 三原 岳

注目コンテンツ

BY THIS AUTHOR

この研究員のコンテンツ

0%

INQUIRIES

お問合せ

取材のお申込みやお問合せは
こちらのフォームより送信してください。

お問合せフォーム