タイプ
論考
プロジェクト
日付
2015/10/1

安保法制の成立(2) ―国民の理解が進まない理由―

 

森 聡(東京財団安全保障法制プロジェクト・メンバー、法政大学教授)
 安保法案に関する主要紙の世論調査を見ると、約50~60%の回答者は、法案に反対ないし法案の成立を評価しないという立場で、約70~80%は法案に関する説明が不十分だと回答している。国会では数多くの答弁が行われてきたのみならず、衆参両院での審議時間は200時間を超え、国会審議の詳細がメディアを通じて報じられてきた。答弁や説明の内容が一貫していないだとか、曖昧だといった批判もあるが、少なくともかなり長時間にわたって質疑が行われ、その中で政府の考え方や判断指針が明らかにされてきたのもまた事実である。にもかかわらず、法案に関する説明が不十分だとして、理解が進まない理由はどこにあるのだろうか。

 法案の技術的な細部について閣僚を質問攻めにするという野党の国会戦術に、政府が翻弄されてしまったということもあるだろう。法案の細部だけが審議の中で取り上げられれば、そもそも何のための法制なのか、いま日本が置かれている安全保障環境とその中でとるべき対応とは何かという大局的な安全保障政策の論議は行われなくなる。細部を問い質すばかりで、建設的な対案を出さず、大局的な政策論議から逃げた野党の責任は重いと言わざるを得ない。日本は安全保障政策上、いま何もすべきではないという立場なのであれば、そうした立場に立った政策論を展開して欲しかったし、憲法改正をすべきだという立場なのであれば、何をどう改正すべきかを示して欲しかった。

 ただ、法案に対する理解と支持が国民の大半にまで広がらなかった理由を、野党の責任にだけ帰するのもフェアではない。政府の答弁がブレたり、与党や政府関係者が失言して物議を醸した。テレビのニュース番組などが、これぞとばかりに関連する映像を繰り返し放映したので、実際のところ一体どうなっているんだという疑問が湧き上がり、法案が十分に詰められていないのではないか、担当大臣すら正確に説明できないほど難解な法案なのではないかというイメージが植え付けられ、法案に関する国民の理解を阻んだ面もある。加えて、8月という時期に法案が審議されたこともあり、戦争に関するドラマ、映画、ドキュメンタリー、インタビューなどが数多く放映されたので、これらが呼び起こした不戦を誓うという強く真摯な国民感情が、「戦争法案」というレッテルと呼応してしまい、法案に対する疑念や不安を強めてしまった面もあったかもしれない。
 
 さらに、法案への理解と支持が一定範囲でしか広がらなかったのは、この法案そのものの説明が不足しているというよりも、国民の平和観、すなわち日本人が自国の平和と安全について考える際に、前提としている漠然とした認識や懸念に対応するための、いわば「対内発信」とも言える取り組みが必ずしも十分ではなかったために、疑問や不安を拭いきれず、それが法案に関する理解を阻んだ面もあるように思われる。法案に関する理解が進まない理由は、法案そのものに関する理解とは別の、日本人の平和観という、より深い原因があるのではないだろうか。

 では、平和について日本人が考える際に前提となる認識とは、具体的にどのようなものなのだろうか。第一に、自衛隊の活動範囲を広げれば、日本に再び戦争の惨禍が降りかかる危険が増すという懸念がある。日本がかつて軍事力を用いて侵略戦争に走り、多くの国民が犠牲になったという記憶が毎夏再生産され、二度と戦争をしてはならないという思いが広く国民の間に根付いているので、そもそも軍事力やその運用自体に対する不安がある。端的に言えば、「軍事力の保有・運用=戦争」という心理的な図式が推定的に成立しているため、「軍事力の保有・運用=抑止による平和」という論理的な図式が日本人の心には響きにくいのである。

 第二に、日本が世界大に軍隊を展開しているアメリカと同盟を結び、安全保障を頼っていることから、自衛隊が米軍との連携や協力関係を深めれば、アメリカが第三国に武力介入し、日本の安全や利害が絡まないような事態への軍事的貢献を求められれば、そうした求めを拒めずに、アメリカの戦争に巻き込まれていくという、かねてから持たれてきた懸念がある。こうした見方に立てば、憲法第九条はアメリカの圧力に抗しうる「防波堤」のような役割を担っているので、これを緩めれば、日本はアメリカの要請に抗することができなくなり、世界各地の紛争への介入を余儀なくされるということになる。これがいわゆる「巻き込まれる恐怖」と呼ばれる懸念である。

 第三に、一部の日本人の間では、日本が現状のまま何もしなければ、平和は保たれるのであって、憲法第九条の解釈を変更し、たとえ限定的であっても集団的自衛権を行使可能としてしまえば、日本が自ら近隣地域の緊張を高めたり、戦争の蓋然性を高めたりすることになるのではないかという不安がある。こうした不安が持たれるのには、いくつかの理由があるだろうが、日本が何をするかによって戦争と平和が決するという考え方が奥底に潜んでいるように思われる。日本は、同盟国アメリカに国土を防衛してもらうという環境の中で、外国から武力攻撃を受けない限り、自衛隊は武力を行使しないという憲法解釈を採ってきた。こうした環境の中で、一方では日米同盟の存在意義を認める見方が育まれた(内閣府の世論調査を見る限り、国民の多くは日米同盟の存在意義を受け入れている)。他方で、アメリカの圧倒的な軍事力による拡大抑止という自国の平和を支えている重要な要因がいつの間にか閑却されてしまい、憲法第九条と、集団的自衛権を全面禁止する憲法解釈によって日本に平和がもたらされてきたとする、「日本例外主義」あるいは「消極的平和主義」とでも言えるような一国主義的な平和観も一部では生まれ、前述した軍事力そのものに対する強い警戒心とも結びついているように思われる。このような平和観は、憲法第九条と個別的自衛権だけが許されるとする憲法解釈こそが日本の平和を決するという、日本が真空状態の中に存在するかのような前提的な認識を導く。こうした認識に立ってしまうと、日本が従来の憲法解釈を変更して、関連の立法措置を講じて日米同盟を強化すれば、日本自身が現状を変更することになり、これまでの平和を自らの手で壊すことになるのではないかとする危惧が持たれることになる。一部の専門家は、今回の安保法制を通じた同盟強化は、いわゆる「安全保障のディレンマ」を引き起こすと論じているが、こうした見方も、日本が新法制の制定を通じて同盟を強化すれば安全保障環境を悪化させてしまうので、いま日本は同盟を強化すべきではないという結論を導くことになる。ここにも、日本による同盟強化が平和を揺るがすという前提が置かれている(たとえば中国の意図や能力に関する議論はそこにはない)。

 以上のように、戦争の記憶と安全保障上の対米依存という日本の安全保障を取り巻く現実や、憲法第九条とその従来の解釈は、日本人に独特の平和観を植え付けてきた。上記のような認識は、全ての日本人によって共有されているものではないが、程度の違いこそあれ、多少は共有されているように思われる。こうした平和観こそが、自衛隊の活動範囲を拡大する安保法案に対する不安や疑問の奥底に横たわっており、それゆえに法案に対する見方が影響を受け、理解を阻んだように思われてならない。重要なのは、これらの認識、懸念、不安を、狭隘なイデオロギーとみなしてそれを敵視したり軽視したりするのではなく、これを日本の現実の一部として真正面から受け止め、対話と説明を重ねていくことであろう。

 憲法第九条に規定された平和は、日本が引き続き追求すべき価値であることは間違いない。しかし、平和を実現し維持する手段や方法は、日本を取り巻く安全保障環境の変化とともに変わるのであり、理論上可能な選択肢の中から、いかに現実的な選択肢を選び取るかが重要となる。日本が安全保障環境への適応に失敗すれば、平和は遠のいてしまう。政府そして日本の安全保障問題の専門家にとっての最大の課題は、このような一国主義的な平和観を保ち続けることが、必ずしも日本の平和を守ることにはならないような状況が出現している事実を国民に広く訴えるとともに、変わりゆく国際環境に日本が国を挙げて適応していくことが平和を守る条件であることを粘り強く説いていくことであろう。

 ただし、このとき重要となるのは、単にその時々の法案や政策の中身を説明するという<必要性の説明>だけではなく、上記に挙げた一国主義的な平和観の根本に訴えかけるような、国内向けの<安心供与の説明>という、より大きな取り組みも必要ということだろう。では、具体的にどのような<安心供与の説明>が必要なのだろうか。

安保法制の成立(1) ―新法制の戦略的意義―
安保法制の成立(3) ―対内発信という国内的な課題―