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【書評】清水唯一朗『政党と官僚の近代』(藤原書店、2007年)

May 29, 2007

評者:五百旗頭薫(東京大学社会科学研究所准教授) 

本書のねらい

本書は、国会開設が決まった明治十四年政変(1881年)から、政党内閣期を創始した護憲三派内閣期(~1925年)までの、政官関係の変遷を論じたものである。この時期の政官関係の理解は、頑なに権力を独占しようとする藩閥政府ないし官僚に対して、動機が民主化であるか猟官であるかはさておき政党が挑戦する、という図式が有力であった。これに対し著者は、立憲制の下で行政の専門性・中立性を維持するためには、行政の合理性と政治の自己抑制が必要であるという認識が、藩閥内にも(例えば伊藤博文)政党の指導者にも(例えば大隈重信・板垣退助)あったと主張する。この必要を満たす均衡点としての「政党内閣型統治構造」に、政官の諸アクターが相克しつつ到達するまでの壮大なドラマが、本書である。目次は以下の通りである。


序 論  ――政党・官僚関係史の意義
第一章 立憲統治構造の導入 ――政党・官僚関係史の制度的序説

第一節 立憲統治機構の模索 ――大隈モデルの射程
第二節 初期立憲統治機構 ――伊藤モデル ――の導入
第三節 初期立憲統治機構の運用と補正 ――立法・行政関係の展開
第四節 初期立憲統治機構の確立 ――統治構造への射程
結 語
第二章 初代政党内閣の登場と崩壊 ――立憲統治機構への挑戦

第一節 隈板内閣の成立と官僚 ――新展開への期待
第二節 猟官の実相と統治構造の動揺――政党の理想と現実
第三節 初代政党内閣の崩壊 ――挑戦の帰結と展望
結 語
第三章 政党内閣像の相克 ――進歩派モデルと自由派スタイル

第一節 統治構造設計をめぐる自由・進歩両派の相克アメリカ帝国の解体
第二節 縦断論・独立論・共存論 ――文官任用令の改正
第三節 折衷論の模索 ――総務長官・官房長制と伊藤モデルの変容
結 語
第四章 立憲統治構造の変動 ――藩閥・政党対立から二大政党対立へ

第一節 藩閥政党化への序章――桂園体制の成立と崩壊
第二節 大正政変と第一次山本内閣――政党政治への前進
第三節 新たなる対立構造の顕在化と克服――政党・内閣・枢密院
結 語
第五章 官僚の政党参加と政党改良の進展 ――立憲統治構造の転換

第一節 大正政変前後における政党と官僚 ――政党政治の序曲としての官僚の意識変化
第二節 原敬総裁期における政友会の改良 ――政友会スタイルの萌芽
第三節 原敬内閣における政党と官僚 ――擬似政党内閣の誕生
結 語
第六章 政党内閣型統治構造の樹立 ――立憲統治構造の確立

第一節 官僚の政党参加の進展 ――第二次護憲運動と第十五回総選挙
第二節 政党・内閣・官僚関係の制度設計(一)――憲政会モデルと政友会スタイル
第三節 政党・内閣・官僚関係の制度設計(二)――護憲三派モデルの整備
結 語 政党内閣型統治構造の確立
結 語 ――政党と官僚の近代

護憲三派内閣成立までの政官関係の変遷

著者がもっとも重視しているであろう政党の統治観を軸に評者なりにまとめると、以下のようになる。

明治十四年政変に際して大隈は、政党内閣を主張するとともに、行政における政務官・事務官の区別という重要な問題を提起していた。政変で失脚した大隈にかわって伊藤がこの問題に取り組む。そして1885年の内閣制度の創設とそれに続く一連の改革の中で、藩閥の情実人事を抑制し、専門知識を備えた学士官僚の調達を制度化することに成功した。

日清戦争(1894~95年)後、政党の政権参入が本格化すると、この官僚組織に対して政党がいかにかかわるかが問題化した。行政の掌握を目指す進歩党の「進歩派モデル」と、党勢拡張を優先しつつ政策決定については行政の判断を尊重する自由党の「自由派スタイル」がここで競合する。「進歩派モデル」は、指導者の大隈が政務・事務の間に具体的な境界を設定できなかったこともあって攻撃性が前面に出てしまい、自由党の方が藩閥の提携相手としてより安定した地位を獲得した。自由党は1900年に政友会に脱皮し、桂太郎と交代で政権を担当し(桂園時代)、官僚との人的紐帯をも築いていく。

大正政変(1913年)により、政党内閣がいずれ現実化するという展望が強まると、官僚の政党化が加速した。また、政党の側も官僚を取り込むことで信用と行政能力、ひいては政権担当能力を認知させようとする。政友会(自由党の後進)は、政党人を無理に行政組織内に送り込むよりも、系列の官僚を入党させ、彼等を要職に任用することで、行政への影響力を拡大しようとする(「政友会スタイル」)。第一次山本権兵衛内閣・原敬内閣を通じて与党政友会が実現した文官任用令改正のポイントも、資格任用制度の改廃ではなく、自由任用できるポストの拡大と次官自由任用による省内人事の掌握にあった。一方、政友会に対抗する立憲同志会・憲政会は、第二次大隈内閣の施策に見られたように、自由任用ポストの拡大には消極的であり、むしろ政務官を仲立ちとして政党と官僚組織を両立・連絡させる統治構造を志向していた(「憲政会モデル」)。

そして第二次護憲運動を経て1924年に護憲三派内閣が成立すると、与党第一党の憲政会が提唱する憲政会モデルを軸に、20年代の政党内閣期を支える統治構造が成立する。
著者はこのようにして成立した政党内閣制の限界にも自覚的である。政党と官僚組織との間に設定された公式の境界は、政党の急速な権力拡大という事実に対応しきれなかった。与党による官僚人事への非公式の介入と、内務省人事を通じた選挙への非公式な介入とが、政党政治への信頼を損ねていった。しかしそれにも関わらず、政党内閣期にいたる道のりは無意味ではなかった。戦前における立憲統治構造の真摯な模索は、有能で誇り高い学士官僚を政党化するに値するものであり、かかる人的資源を前提にしてこそ、戦後の政党政治の復活が可能になったと著者は主張する。

評価と提案―進歩派モデルと政友会スタイルによる整理

著者が論じたような政党ごとのカラーは、同時代を研究する歴史家には漠然とは意識されていたかもしれない。しかしだからこそ、単純とはいえぬ文官任用令改正のプロセスや少ないとはいえぬ人事データから、(事務/政務)次官・(勅任)参事官・参与官・内閣書記官・法制局長官等々の役職が官僚組織において持つ意味を的確に引き出した上で、政党が抱いた政官関係の構想を明らかにした本書は、学界の共有財産となる。本書は、度重なる政争や人事を通じて、制度に秘められた意味をあぶりだしていくという、内政史研究の旨味を遺憾なく発揮しているといえよう。

逆に、「モデル」や「スタイル」の模索や洗練という問題設定は、個々の状況での政治家・官僚の発言に潜む利害打算を捨象しているという不満を招くであろう。しかし個々の状況への理解を深めようとすれば、長期間にわたる枠組みを提案した本書の存在感はかえって増すであろう。その目的のために、重要な政治争点を、長期間にわたって追跡・整理した著者の努力と能力に敬意を表したい。また、叙述を通じて、従来十分に活用されていなかった資料から引き出された知見がスマートに織り込まれていることも評価できる。

むしろ評者は、著者の大胆さに便乗する方向で、一点だけ問題提起したい。本書には4つのモデルないしスタイルが登場する(「進歩派モデル」・「憲政会モデル」・「自由派スタイル」・「政友会スタイル」)。前の二者の関係と後に二者の関係はそれぞれ必ずしも明確ではない。どうせならばもっと大胆に、4つではなく2つの系譜に整理してはどうだろうか。

「進歩派モデル」には元来、行政の専門性への認識が強かった。この専門性を損ねないまま掌握できると思えば官僚組織の上層部に政党人を強引に送り込むことになるが、事務官の世界の中立性は相対的にはわきまえている。したがって、洗練されれば、行政の中立性を尊重しつつそれへの連絡をつけるツール(政務官・内閣補佐機構・行政調査会等)を発達させることにもなる(「憲政会モデル」)。

「自由派スタイル」においては、行政府の専門性に対する関心が弱い。だからこそ一方で政府への従順、他方で自由任用の拡大(猟官要求、ただし専ら系列官僚を用いるよう自己抑制できるときは「政友会スタイル」)が導き出される。それはモデルの洗練というよりは振幅であり、こうした不安定さからも、著者が「モデル」と呼ぶのを避けて「スタイル」という言葉を使ったのにはそれなりの理由が認められる。そしてこの不安定さが、自由党・政友会系の日清・日露戦争後の順調、原敬没後の不調、そして戦後の復活にいたる生命力の源泉になっているように評者は感じたが、いかがだろうか。

    • 政治外交検証研究会幹事/ポピュリズム国際歴史比較研究会メンバー/東京大学大学院法学政治学研究科教授
    • 五百旗頭 薫
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