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その他
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日付
2008/8/28

【書評】「旧外交の形成 日本外交 一九〇〇~一九一九」千葉功著

評者:小宮一夫(東京大学文学部非常勤講師)


1.はじめに
戦後の日本は、冷戦を生き抜くため、対米協調(「日米同盟」)を外交の基軸とし、アメリカを中核とする西側陣営(自由主義)陣営に参画した。その際、日本の外交及び安全保障の屋台骨となったのが、日米安全保障条約である。

こうした戦後の日本外交のイメージが、本書が対象とする時期(1900~1919年)に投影されると、対英協調を基軸とする「日英同盟」の時代という歴史像が生まれる。岡崎久彦氏に代表される「日英同盟」史観は、歴史が「過去」と「現在」の対話という性格を持つ以上、極めて魅力的である。

果たして当時の日本外交は、戦後の対米基軸のような明快な論理で展開されていたのだろうか。このような問いに対する答えを示唆してくれるのが本書である。本書の著者千葉功氏は、1996年に、日露開戦に至る一連の日本外交研究で学界に颯爽とデビューし、豊富な史料読解から興味深い歴史的論点を提示することで夙に知られている。著者によれば、本書が主たる対象とする時期は、日本が欧米列国との多角的同盟・協商網の構築を模索した時代であった。換言すれば、「帝国主義」の時代に遅れて参入した日本が「旧外交」を習熟していった時代に他ならない。

そもそも「旧外交」は「多義的で曖昧な」性格を有する。著者は、第一次世界大戦後に盛んに唱えられるようになる「外交の民主的統制」や「公開外交」などを特徴とする「新外交」との比較を念頭に、「旧外交」の特質を、次のようにまとめている。それは、「(1)君主=政府による外交の独占、(2)秘密外交、(3)植民地主義、(4)二国間同盟・協商の積み重ねによる安全保障、(5)権力主義的な外交(パワー・ポリティクス外交)」というものであった。

従来、本書が主たる対象時期とする義和団事件から第一次大戦にかけての日本外交史(日本政治外交史)研究は、「日露戦前」(もしくは「日清戦後」)、「日露戦後」、「第一次大戦期」という時期区分にもっぱら基づいて行われ、時期ごとの「断絶性」を強調する傾向にあった。これに対し、本書は、対象時期を長く設定することで、これらの時期における日本外交の「連続性」を見出そうとしている。

また、日本外交史研究が内政と外交の相互連関を重視する政治外交史研究とマルチアーカイブを志向する国際政治史研究へと大きく分化していくなかで、本書は、あえて伝統的な外交史研究の手法を用いている。したがって、本書は、伝統的な外交史研究の新たな可能性を探る作品ともいえる。

2.本書の構成と概要
本書は、千葉氏が博士論文(2000年に学位取得)の成果に、日露戦争期から第一次世界大戦後のパリ講和会議にかけての時期(本書の第III・IV部)の書き下ろし部分を加え、一書にまとめ直したものである。要するに、本書は、千葉氏が自身の研究が熟成するのを静かに待ち、義和団事件期から第一次世界大戦後にかけての日本外交史研究の集大成として、その成果を世に問うた作品といえる。本書は、以下のような5部構成をとり、本文及び二段組み注は併せて約560頁弱もある。分量のみならず、内容も豊富な知見に満ち溢れており、まさしく大作とよぶにふさわしい著書である。

 第I部 自律化する外務省
  はじめに
  第一章 日清戦後期の外務省
  第二章 日露戦後期の外務省
  第三章 第一次世界大戦下の外務省
  第四章 大戦直後の外務省
  おわりに
 第II部 多角的同盟・協商網の模索と挫折
  はじめに
  第一章 満韓交換論への移行と多角的同盟・協商網の模索
  第二章 日英同盟締結後における対露外交方針
  第三章 日露交渉
  おわりに
 第III部 多角的同盟・協商網の構築と動揺
  はじめに
  第一章 日露戦争期の日本外交
  第二章 林外交と多角的同盟・協商網の枠組形成
  第三章 小村外交と多角的同盟・協商網の関係性強化
  第四章 辛亥革命の勃発と多角的同盟・協商網の動揺
  おわりに
 第IV部 多角的同盟・協商網の完成と崩壊
  はじめに
  第一章 加藤外交―大隈内閣前期の日本外交
  第二章 石井外交―大隈内閣後期の日本外交
  第三章 寺内内閣前期の日本外交―多角的同盟・協商網の完成
  第四章 寺内内閣後期の日本外交―ロシア一〇月革命の波紋
  第五章 原内閣期の日本外交―日本外交の転換
  おわりに
 第V部 第一次世界大戦前における仲裁裁判条約と日本
  はじめに
  第一章 仲裁裁判条約との遭遇
  第二章 仲裁裁判条約への対応の消極化と移民問題
  第三章 国際連盟規約と常設国際司法裁判所
  おわりに
 結語

第I部では、「旧外交」の担い手である外務省の「自律化」の軌跡が描かれている。

1893年の外務省改革により、外務省は政務局・通商局の二局体制となった。また、外交官試験制度が導入され、これ以降、外交官の能力は飛躍的に向上していく。日露戦後になると、外交事務が激増し、通商局に比して政務局が繁忙を極めるようになる。しかし、財政難により、外務省は増員・増加に苦慮する。外務省が組織の拡大や定員の大幅増を実現させるのは、第一次世界大戦後のことであった。1919年に条約局が新設され、翌年には政務局が亜細亜局と欧米局に分割されるに至った。

また、第一次世界大戦下の1915年、幣原喜重郎が外交官試験合格者の先頭を切って、初めて外務次官就任する。これは「霞ヶ関外交」が次第に形成されつつあることを象徴する出来事のひとつであった。

その他、大戦末期から大戦後にかけて、外務省は、条約の批准などを審議する枢密院を除く他機関からの外交政策への介入を排除することに一応成功する。それは、外務省の「自律化」の達成に他ならなかった。

第II部から第?部にかけては、「多角的同盟・協商網」の形成から崩壊に至る日本外交の軌跡が描かれている。

まず第II部では、義和団事件から日露開戦に至るまでの日本外交が再検討されている。ここでは、多角的同盟・協商網の模索という観点から、日英同盟と日露協商は必ずしも
二項対立的なものでなかったことが強調されている。満州問題と韓国問題は不可分なものと見なす日本は、日英同盟の圧力で、ロシアとの満韓交換をめざした。そこで、日本がとった外交戦略は、満洲におけるロシアの権利を制限する日本に有利な満韓交換を最初に提示し、最終的には日露両国による対等な満韓交換で妥協するというものであった。

一方、ロシアは当初、満州問題は清国との問題であり、韓国問題に関してのみ日本と交渉するという姿勢をとった。これは、日本にとって、韓国における日本の権利を制限するロシアに有利な満韓交換につながりかねないものであった。しかし、日露交渉が緊迫化するなか、ロシアも日露対等な満韓交換へと方針転換を図った。

最終的に、日本は、膨張主義のロシアは交渉を引き延ばすだけで、日本との妥協の意志なしと判断した。その結果、日露交渉は中断され、満韓問題の解決は軍事的決着(日露戦争)に委ねられることとなったのである。

第III部では、日露戦後、日本が欧米列国との間で多角的同盟・協商網を構築していく軌跡が描かれている。

第一次西園寺内閣の林箽外相及び第二次桂内閣の小村寿太郎外相という日露戦後の日本外交を担った両者の外交路線は、これまで大きな差があったと見なされてきた。だが、実際、両者の路線に大きな相違はなかった。すなわち、両者ともに、日英同盟を主軸に多角的同盟・協商網を構築していくという大きな路線では一致していたのである。では、両者の相違点は何か。著者によれば、小村外交の方が林外交よりも帝国主義外交として「洗練」されていたという。

こうして、日露戦後、日本は日英同盟、日露協商(日露協約)、日仏協商(日仏協約)といった多角的同盟・協商網を構築するに至った。だが、この日英露仏のネットワーク(日英露仏による四国協商)は、辛亥革命後の中国の南北分裂及び日本の対中政策に批判的なアメリカの存在によって、動揺をきたす。また、辛亥革命後の中国情勢の混沌は、日本陸軍の大陸政策を活性化させた。その結果、外務省は、対中外交めぐって、陸軍との対立を深めていく。

第IV部では、第一次世界大戦期のさなか、日本が欧米列国との多角的同盟・協商網をついに完成させたものの、それがすぐさま崩壊し始めるさまが描かれている。

1916年7月、第四次日露協商が締結され、日本は、従来の日英同盟に加えて、日露同盟を新たに実現させた。このように、第一次世界大戦は、多角的同盟・協商網の中核である日英露仏の四国協商を強化させる作用を及ぼしたのである。さらに、翌年11月には、石井・ランシング協定が結ばれ、日本は四国協商に枠外にいて日本の対中政策に批判的であったアメリカの取り込みに成功する。この石井・ランシング協定の締結は、日本外交の悲願であった欧米列国との多角的同盟・協商網の完成を意味するものに他ならなかった。

だが、この多角的同盟・協商網は、ロシア一〇月革命の勃発により、まさに完成した瞬間に崩壊し始める。そして、第一次世界大戦が終結すると、日本外交を取り巻く情勢は、一層厳しいものとなった。パリ講和会議で締結された国際連盟規約により、日英同盟は形骸化する。連盟規約が規約と矛盾する同盟や協商は否定したからである。このように、日本は、「旧外交」を習熟し終えるとほぼ同時に、いわゆる「新外交」の風潮に直面したのである。

その結果、日本は、新たな外交戦略の練り直しを迫られることとなった。そこで、原内閣(原敬首相)は、「対米英」協調を主軸に据え、「新外交」に即応する外交路線をとることにし、ワシントン会議への参加を決断する。これは、「旧外交」を根底に据えながらも、「新外交」へと路線を転換する試みに他ならなかった。

第V部では、第一回万国平和会議(1899年)からパリ講和会議直後にかけて、日本が国際紛争を処理する仲裁裁判条約とどのように関わったかが検討されている。

1904年から翌年にかけて、ハーグの常設仲裁裁判所で行われた、外国人の永代借地に対する家屋税課税の正当性をめぐって、日本がイギリスやフランスなどと争った裁判(家屋税事件)で、日本は敗訴する。この敗訴は、日本の仲裁裁判に対する姿勢に大きな変化をもたらせた。例えば、1907年の第二回万国平和会議における多数国間仲裁裁判条約(国際紛争平和的処理条約)改定問題で、日本は義務的仲裁裁判条約に反対する立場をとる。このように、日本は、仲裁裁判に対し、消極的な姿勢を取るようになったのである。

第一次世界大戦後、国際連盟規約に基づいて常設国際司法裁判所が設置されると、日本連盟理事国の一員として判事を出すことになった。しかし、日本が常設国際司法裁判所を利用したのは、共同原告として訴訟に関与した二件に過ぎなかった。また、直接の訴訟当事国として、他国と単独で争うことも一度もなかったのである。

3.論点と展望
本書は、二〇世紀最初の四半世紀における日本の対外政策を精緻に分析した良書である。
本書では、視角をあえて日本の対外政策に絞る代わりに、分析対象とする時期が長く設定されている。その結果、読者は、「旧外交」の形成という視点から、当該期の日本外交の軌跡が容易に鳥瞰できる。本書は、分析対象の時期設定を長めにとり、明確な分析視角のもと、史料を精査すれば、伝統的外交史の手法でもまだまだやるべき課題が多数残されていることを予感させる。とりわけ本書の第I部及び第V部は、後進の外交史研究者に、さまざまな研究上の示唆を与えることであろう。

本書は、対象時期に関する公刊史料は当然のことながら、膨大な未公刊史料を精査したうえで書かれている。本書の脚注からは、国立国会図書館憲政資料室が所蔵する桂太郎をはじめとする政治家等の個人文書や、外務省外交史料館で所蔵されているさまざまな外交案件に関する簿冊が精査されていることが伺える。歴史研究者の多くも、千葉氏の史料調査にかけた労力に対しては、正直なところ脱帽せざるを得ないであろう。

そして、本書では、著者の問題関心に沿って、膨大な史料が見事に使いこなされている。例えば、第I部及び第V部は外交史料館の史料(件名簿冊)を、第II部から第?部にかけては憲政史料室の史料(書簡や書類)を、軸に据えて分析がなされている。また、辛亥革命期などの分析では、防衛省防衛研究所図書館の史料が効果的に利用されていることも見逃せない。要するに、著者は、歴史研究に不可欠な史料を、その性格に応じて自在に使いこなして、この大作を書き上げたのである。

また、本書では、北岡伸一氏の『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会、1978年)や小林道彦氏の『日本の大陸政策 1895-1914―桂太郎と後藤新平―』(南窓社、1996年)をはじめとする優れた先行研究の成果が巧みに織り込まれ、本書の叙述に一層の厚みを増している。確かに、著者が謙遜する通り、研究史に精通する者の目から見れば、本書は「個々の叙述の細部が新知見の連続」というわけではない。だが、安心して読める叙述のなかに、著者の興味深い解釈や問題提起が多数散りばめられているのである。

その他、本書では、特定の人物に焦点を当てず、外交官や閣僚、元老ら多種多彩な人物が静かにゆっくりと「旧外交」を習熟していく群像劇という叙述様式をとっている。これも、本書の特徴のひとつといえよう。そもそも外交交渉の大半は血肉沸き踊るものではなく、地味なものである。現実には、ひとつひとつの外交交渉の積み重ねによって、総体としての日本外交が形成されている。本書の淡々とした叙述から、評者は、当たり前すぎて、つい忘れがちになる「現実」の外交の営みに思いを走らせてしまった。

本書から浮かび挙がるのは、日清戦後から第一次世界大戦期にかけて、欧米列強に対し、心底では絶えず不信感・警戒の念を持ち、日本が東アジア国際社会で生き残るため、必死で安定した「秩序」を作ろうと模索する「孤独な」日本の姿である。また、外交問題を多国間ではなく、二国間で解決しようとする日本の頑なな姿勢も明瞭となった。

かつて高坂正堯氏がバーナード・クリックの『政治の弁証』を引いて述べたように、外交で「国際関係にゆるぎない秩序を作ることはできない」し、「外交のなしうることには明らかな限度がある」(『古典外交の成熟と崩壊』<中央公論社、1978年>、のちに『高坂正堯著作集』第6巻<都市出版、2000年>所収)。数百年の歴史を有し、「古典外交」とも称されるヨーロッパの「旧外交」と比較すると、日本の「旧外交」は確かに「未熟」に見える。ただし、二〇世紀最初の四半世紀に、日本の外交に関わった人物の大半は、「外交の限界」について身をもって理解していたことは間違いない。それでも、彼らは、日本を取り巻く国際環境の安定をめざして、多角的同盟・協商網の構築に邁進したのである。

最後に、本書は、日本の「旧外交」の歴史的展開に関する金字塔として、今後末永く読み継がれていくであろう。そして、本書が叩き台となって、日本と欧米における「旧外交」の歴史的展開に関する議論が活性化することを期待したい。そうなれば、外交という営みに新たな知見がつけ加えられ、現代の日本外交にもきっと何らかの貴重な示唆を与えるだろう。


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