タイプ
その他
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日付
2010/6/25

【書評】『中国返還後の香港-「小さな冷戦」と一国二制度の展開』倉田徹著(名古屋大学出版会、2009年)

評者:前田宏子(PHP研究所国際戦略研究センター主任研究員)


本書は、1997年に中国に返還された香港が、中国と良好な関係を維持し安定を保ってきた原因について考察するものである。香港返還前は、香港の将来に対して悲観的な見方が世界に広がっていた。返還後の香港と中央政府の間には摩擦が生じ、中央政府は香港政治に干渉し、「一国二制度」は形骸化するのではないかと危惧されたのである。また、強い「香港人」意識を有する香港市民らの中国共産党に対する不信感と反感も、香港の統治を不安定化する要因になると考えられていた。

だが実際には大方の予想を裏切り、香港が中国に返還された後、中港関係は全体として良好に推移し、香港市民の中央政府に対する態度も顕著に好転した。本書は、その理由と過程について、中港関係を規定する制度や返還以来の政治過程、政府間・社会生活・個人の心理レベルにおける変化を分析しながら、解明していくものである。

なお、本研究は、もっぱら香港側で利用可能な資料に依拠しているが、その理由について、大陸側では中港関係に関する資料がほとんど公表されていないこと、また中港関係に対する関心は香港側でのほうがより大きいため、香港の視点からの分析が適切であるとしている。ゆえに本書は、香港の側から見た中港関係論という色彩が強いものとなっている。

本書の構成と概要

 目次
  序 章 「小さな冷戦」としての中港関係と「一国二制度」
   1 問題の所在――悲観論と予想外の現実
   2 中港関係への視角――「小さな冷戦」と「一国二制度」
   3 「一国二制度」下の中港関係の特徴
   4 本書の資料と構成
  第1章 「港人治港」の実態――香港政治エリートに対する中央政府の統制力――
   1 香港の政治勢力と中央政府との関係
   2 政治エリートの選出
   3 政策決定権の配分
   4 「中央の圧力」と香港政治エリートの反応
  第2章 民主化問題――「デモクラシー」から「中国の特色ある民主」へ――
   1 返還前の民主化問題――イギリスによる民主化と中国の反発
   2 返還初期――香港内部での静かな民主化論争
   3 2007年・2008年選挙問題の展開――中央政府の主導権掌握
   4 中央政府主導下の民主化問題の展開――「中国の特色ある民主」へ
  第3章 「防壁」の中の自由――香港メディアに見る「疑似国境」の政治性――
   1 「一国二制度」と「擬似国境」
   2 大陸と香港の報道の自由――「一国二制度」のメディア
   3 香港メディアへの大陸の影響力とその限界
   4 香港メディアの大陸への浸透
   5 香港メディアの越境現象の影響力
  第4章 「繁栄と安定」――中港関係の政治経済学――
   1 「繁栄と安定」のコンセンサス
   2 返還過渡期――「防壁」としての「一国二制度」
   3 返還当初の「一国二制度」――「防壁」性と「障壁」性の交錯
   4 2003年7月1日のデモと中央政府の干渉解禁
  第5章 「愛国者論争」――香港人意識と愛国心――
   1 香港人意識と中国人意識
   2 中国人意識の政治的作用
   3 2004年「愛国者論争」の展開
  終 章 「一国二制度」の中港関係
   1 「良好な中港関係」に寄与した「一国二制度」の構造
   2 返還後の中港関係の展開
   3 中港関係の将来

序章では、中港関係を捉えるための枠組みとして、「一国二制度」と「小さな冷戦」という二つの視点を提示している。中港関係の特異性として、返還後の香港が中国の一地方であり、中央政府との間で中央-地方関係が生じる一方で、香港が準国家としての性質を維持し続けているため、二国間関係に類似した側面をも持っている点が挙げられている。

「“小さな”冷戦」としているのは、冷戦によって分断された他の民族や国家(ドイツやベトナム、朝鮮半島など)と比較すると、香港は規模も小さく、軍事・イデオロギーの正面衝突もなく、東アジアの冷戦構造の中では、あくまで周縁的な存在にすぎなかったからである。しかし、中国が社会主義国家となり香港が資本主義国家の支配の下に置かれたため、それまで自由な往来が許されていた中国と香港の間に分裂国家的な状況が生じたのは、まさしく冷戦に起因するものである。「一国二制度」は、「小さな冷戦」により構造化された中港間の遠心力と求心力を調整し、分断の残滓を除去していくことを意図して採用されたのである。

第1章では、「港人治港」(香港人による香港統治)が認められている香港に対し、中央政府がどのように、且つどの程度、統制を確保してきたかを分析している。中共中央は省委書記・省長などを任免する権利をもっており、地方指導者を頻繁に移動させることで、強力な地方指導者の出現を未然に防ぎ、中央に対する彼らの服従を維持している。しかし、香港については「港人治港」政策の下、行政長官以下、香港政府メンバーが香港市民によって構成されることになっているため、他の地方で用いているような人事権による統制力の行使には限界がある。他方、中央政府は主に任免権と制限選挙という二つの制度によって、香港の政治エリートの選出に影響を及ぼしている。さらに、香港では行政長官を頂点とする「行政主導」の政治体制が構築されているため、中央政府の政治的同盟者(保守派・左派)がトップダウンの政策決定を推し進めることが意図された。中央政府と香港政府が良好な関係を維持できたのは、中央政府が行政への統制を及ぼすことのできる制度が担保されたためである。

その一方で、立法会の普通選挙では、中央政府と対立関係にある民主派が常に多数を占めた。さらに、香港特別行政区基本法(※以後は「基本法」と記述)では、行政長官・立法会の選出方法について、将来的には全面普通選挙を導入すると規定されており、中央政府と近い立場の議員であっても、普通選挙が導入されたときのことを考慮すれば、民意をまったく無視することは不可能であった。その点で、中央政府が香港政治エリートに対して持つ影響力には限界があった。

第2章では、香港内政および中港関係の焦点となってきた民主化問題が分析対象となっている。1980年代に入ると、イギリスは返還交渉を有利に進めるため、また返還後の香港への中国の干渉を防ぎ、親英的な政権を樹立させるため、香港の民主化に着手した。中国は、イギリスによる「西方民主(ウェスタン・デモクラシー)」の導入に拒否の姿勢を示したが、基本法に将来の行政長官及び立法会の普通選挙化を盛り込むなどの妥協も見せた。

2003年7月、国家安全条例案に反対するため発生した「50万人デモ」が、2007年・2008年選挙問題へと転化していくと、中央政府は民主化問題への介入を始めるようになる。中央は2007年行政長官普通選挙・2008年立法会議員全面普通選挙の実施を却下したが、普通選挙実現の具体的なタイムテーブルを提示するという妥協を示しはした。ただし、立候補資格を制限することによって、民主派が多数を占めることのないような選挙の実施方法を準備しようとしている。このように、中央政府は、香港の政治体制の将来像を「デモクラシー」から「中国の特色ある民主」へと転換しようとしているのである。

第3章では、中央政府が香港政界に対して統制力を行使しようとしてきたのに対し、香港社会に対しては放任的な態度を取った要因について、「擬似国境」というシステムに着目して分析している。中央政府は、第二次天安門事件後、香港の民主派・メディア・法輪巧などへの警戒を強めたが、彼らの活動の自由を制限することはできなかった。その背景には、台湾や国際社会などに向けての対外的な宣伝という側面、返還直後の人心不安定期にある香港の市民に対する配慮、さらに「一国二制度」下の香港において、香港の法制度に基づいてそれらの勢力を取り締まることは現実的に困難であるという事情があった。

また、大陸と香港の「擬似国境」は、香港メディアや活動家の影響が大陸へ浸透するのを防ぐ「防壁」として機能し、中央政府が不干渉政策を取る余裕を与えることになった。大陸と香港のメディアは全く異なる環境下に置かれており、中央政府は香港のメディアに対しても自己検閲などの圧力をかけているが、市場原理によって動く香港メディアへの影響力は限定的にならざるをえない。香港メディアの大陸への影響については、大陸当局は、番組差し替え、ネット接続の制限、出版物の大陸への持ち込み禁止などの措置で、その浸透を防ごうとしている。とはいえ、香港と大陸の経済関係の緊密化に伴う越境現象の拡大は、情報の往来の取り締まりを益々困難にしており、今後は香港の「防壁」の中の自由が、大陸の社会や政治に変化をもたらす契機となる可能性がある。

第4章では、大陸の経済発展が、香港社会を大陸へ引きつける求心力として作用した側面に着目し、中港関係を取り巻く経済的要因の変化が「擬似国境」を挟んだ両地の関係に変化をもたらしてきた点について分析している。従来、大陸と香港の関係は、地方自治と国家統合の対立という観点から論じられることが多かったが、著者は、両地は香港の「繁栄と安定」を目指す協力関係でもあったと指摘する。

返還前から、中国政府・香港政庁・香港市民のそれぞれが、香港の「繁栄と安定」を守ることを重視し、それが三者の共通利益でもあった。香港市民は、その出自や政治的無関心の傾向から、「民族自決」型自治への関心が高くなく、繁栄と安定への志向が強いという特徴をもつ。それゆえ、イギリスの支配に対し自治要求を高めなかったのと同様、中国に対しても、それを排除してまで香港の自治を守るような決意をもたなかった。

第二次天安門事件後、大陸と香港の政治関係は緊迫したが、経済関係は「前店後廠」(香港と広東省の工業分野での垂直分業体制)によって大きく進展した。そのことは、中港関係の悪化を一定の範囲内に食い止める役割を果たした。

既に見てきたとおり、返還後、中央政府は香港への露骨な干渉を避け、香港市民の懸念はやわらげられた。そして、アジア金融危機の発生により香港経済が悪化する一方、大陸経済が著しい成長を実現すると、香港政府のほうから中央政府に経済関係強化を働きかけるようになるのである。中央政府は香港の安定のため、香港経済を救済する一連の措置を取り、香港市民に不人気であった董建華行政長官を更迭した。この間に、中央政府は2007年・2008年の普通選挙要求を却下してもいるのだが、経済の好転によって、香港市民の反北京感情は改善した。さらに、香港政府は、香港が中国経済の「周縁」となることを危惧し、国家経済への適応を模索するようになったのであり、大陸と香港の経済融合が進んだ。

第5章では、個人の心理レベルの中港関係、すなわち香港市民のアイデンティティとナショナリズムに関する分析が行われている。香港市民は「香港人意識」を有する一方、民族的に中国人であるという「中国人意識」も持ち合わせていた。これらのアイデンティティは対立するものではなく、地方と国家へのアイデンティティを同時に共存させることに矛盾はなかった。

返還後も、「一国二制度」の適用により、香港市民の生活に大きな変化は生じず、中央政府の干渉も顕著にならなかったため、香港人意識が激化することは回避された。ただし、返還によって香港が植民地支配を脱し、正統な地位を与えられたという「集団の記憶」が、香港人意識を支える新たな基盤として加えられることになった。

香港人としてのアイデンティティ問題が政治のレベルであまり注目されなかったのに対し、中国人意識の表出である愛国運動のあり方は、大きな政治的論争となった。それは愛国心ゆえに中国政府を支持すべきか、或いは愛国心ゆえに中国政府に抗議すべきか、という議論であったが、いずれにしても中国からの分離・独立を志向するようなものではなかった。民主化運動の高まりに危機感を抱いた中央政府は「愛国者論争」を発動し、「愛国」と「愛党」は異なるものであるという論調を否定するが、結局、この議論は2007年・2008年選挙問題の決着とともに立ち消えとなる。自らを「愛国者」と考える多くの香港市民にとって、この議論は要領を得ないものであり、さらに「愛国者」を厳密に定義すれば、それまで中央政府が時間をかけて勝ち取ってきた保守派や香港市民などの信頼が失われ、中央政府にとってもメリットとならないことに気付いたからである。

終章では、各章の分析を総括し、大陸と香港の分断の残滓の除去がどの程度まで進んだのかについて考察している。中国経済の発展に伴う求心力の増大により、大陸と香港の社会は結びつきを強化している。ただし、香港市民が中央政府に対する信任度を高めているとはいえ、共産党や一党独裁体制を支持するようになったわけではなく、むしろ共産党が共産党らしくなくなってきた点に好感を抱いている、と著者は指摘する。

最後に、今後、中港融合が大陸と香港の社会、経済、政治にもたらす影響が何点か挙げられているが、筆者は中央政府が「中国の特色ある民主」として香港の普通選挙を処理しようとしていることが、大陸にとっても課題であり続けている政治体制改革のモデルとなる可能性があると指摘する。2007年の行政長官選挙では、中央政府が支持する候補者の当選が確保されてはいたが、候補者の政策論争によって政策の質が高められるという効果が見られた。それが、共産党が一党独裁を手放さない中で進める「民主化」にとって、一つの理想形態になりうるとしている。

評価

本書は、返還前には悲観的に捉えられていた中港関係がなぜ良好に推移したのか、という明快かつ重要な問いに対する答えを提示しようとするものである。「第二次天安門事件後、多くの人が中国の将来に対し悲観論を示したのに、なぜそれらの予測は裏切られたのか」という問いが、重要であるのにあまり省みられないのと同様、本書で筆者が取り組んでいる問題に関する実証研究も多くないように思われる。その原因の一つは、香港と大陸の関係が安定していることに対し、少なからぬ人々が漠然とした失望を感じたからではないだろうか。「自由や民主を求める香港が、一党独裁体制の共産党と良好な関係をもてるはずがない」という期待があり、その予測が外れると、今度はその原因を単純に香港人の政治的無関心や実利主義のせいにしてしまったのではないか、というと言いすぎだろうか。

筆者は、中港関係を政治、経済、社会、個人の心理という多層なレベルにおいて丁寧に分析し、香港側に存在する大陸への求心力と遠心力を明らかにしている。同時に、香港市民の大陸への感情が改善したのは「共産党への賛同というより、(対港政策に関して)共産党が共産党らしくなくなったため」と指摘するように、中央政府が香港に対し「一国二制度」を適用し、政治的統制を図りつつも、露骨な干渉を避けた過程を詳細に紹介している。これまで統合と自立の対立関係で捉えられることの多かった中港関係について、香港の「繁栄と安定」のために政策を調整しあう協力関係として捉えた点が新鮮である。

本書は、主に香港側の視点で中港関係について論じている。著者も述べている通り、この問題に関して中国側で公開されている資料は少ない。しかし、香港返還にどう対処するかという問題については、大陸側でもさまざまな意見の対立と調整が存在したはずであり、今後は、中国共産党側から見た研究が提示されることを期待したい。

最後に、著者は香港が「中国の特色ある民主主義」の先駆的モデルになる可能性を示唆している。中国共産党が、決して一党支配体制の変更を認めようとしない現状下では、確かにそれは現実的に望ましい体制なのかもしれない。ただ、「中国の特色ある民主主義」について、筆者はそれを中国がさらに別の体制に至る過程での途中形態と考えているのか、あるいは中国の安定と発展にとって最も望ましい体制と捉えているのか、気になるところである。