タイプ
その他
プロジェクト
日付
2011/5/27

【書評】『日中国交正常化の政治史』井上正也著(名古屋大学出版、2010年)

評者:佐藤晋(二松学舎大学国際政治経済学部教授)


本書は、1950年代初頭から1972年の日中国交正常化に至るまでの、日本の中国政策の変遷を、国際環境の影響と国内政治とりわけ保守勢力内部の対立の影響を織り込みつつ、日本側特に外務省の政策構想を中心として叙述したものである。日米中台の政府資料を慫慂し、20年という比較的長いスパンの中で生じた日中関係の主要事件を、すべて一次資料によって描ききった力作である。それでは以下、具体的な論点を見ていく。

まず、著者が「中国問題」発生の起源となったとする日華平和条約交渉についての分析が行われる。これまで、吉田が北京と台北の等距離外交を意図していた、または当初から国府との講和を選択していたなどの解釈の対立があったが、著者は、吉田は再軍備への抵抗に比較すると「吉田書簡」にはほぼ抵抗していないこと、講和条約のアメリカ上院における批准を最重要視していたことなどから、吉田が大陸中国との関係設定を考慮していなかったと結論付ける。さらに吉田は、中国との交渉を考えるどころか、「逆浸透」によって共産体制の転覆を考慮していたと論じている。とはいえ、日本側は国府との交渉で、この「協定」を全中国の代表としてではない地方政権としての国府と締結することを目指しており、それはその後の大陸との交渉開始を想定したものであった。しかし、これが実現しなかったために、その後、「二つの中国」に挟まれて大陸中国との国交開設を難しくしてしまったという。つまり、国府との取極めを、「戦争状態の終了」といった全中国との代表を相手とした条約と解釈せざるを得ない条文を含むものにしてしまったのが、「一つの中国、一つの台湾」との関係設定ができなくなった過ちの理由であるとするのである。その結果、中国を承認する場合に、法的な困難さが発生した。つまり、吉田と異なり、外務省事務レベルでは、将来的に大陸中国との関係設定を考慮する考えが存在はしたわけである。ただし、短期的にこれを実行する環境には到底なかったということになろう。

次に1950年代から1960年代にかけて、一般に「政経分離」こそが日本の対中政策の基調であったとされるが、これは日本がもともと意図していた政策ではなく、中国が開始した「平和攻勢」を契機とした日中民間交流の際に現れた考えであり、その後、「政経不可分」を主張した中国が、日本の政策を「政経分離」と批判する際に用いたものであると指摘する。それが、やがて石橋内閣になって初めて公式に表明され、岸政権で明示的に展開されたものであり、実際は日中政治関係に動けない日本が結果的にとったものであるという。

それでは、なぜ動けなかったかというと、先述したように日本が国府を、中国を代表とする政府と言わざるを得ない条約を結んでいたからであった。そこで、この手詰まりを打開するために様々な内容の対中政策構想が生み出された。当時、日本政府・外務省内で検討された中国政策の狙いは、大きく分けて二つあった。一つは、アジア局中国課の親中的な外交官に典型的であった考えで、中華民国との外交関係そのままで、大陸中国との国交を設定することを目指すものであった。そのためには国府との関係の再定義が必須で、要は台湾を中国から法的に分断した形での地位確定を行い、しかる後に日中国交樹立を実現させようとするものであった。一方、国際資料部などに居た反中的な外交官らは、台湾の確保を名実ともに実現させるため、台湾を大陸から法的にも切り離すことを模索していた。西側の手で台湾を確保し続けることこそが、日本の安全保障にとって重要とする考えである。このように狙いは正反対ながらも、形としては「二つの中国」政策こそが、双方の狙いを両立させることが可能な政策であった。

しかし、「二つの中国」は中国・国府ともに認めないことは明白な事実であり、最終的には1964年の中仏国交開設の際の事態の推移によって頓挫したものとされる。この間、中国・国府と日本との間で「二つの中国」政策が無理なことを示す様々な事件が起こったが、本書は国府の内部資料も用い、中国・国府それぞれの思惑が日本の保守政界の対立とも連動して、政府を困惑させていく様が生き生きと描かれている。もちろん、日本政府が常に受け身であったわけではない。例えば国連代表権問題をめぐって、国際連合の場の利用することで「二つの中国」の実現が図られた。ただし、池田内閣期には、中国の国連加入は日本の中国承認へのステップと考えられており、その裏では台湾との断交も当然視されていたという。この問題に関して本書は、1960年代初めの重要事項指定案は日本の発案ではなく、国府によるものであるとか、70年の逆重要事項指定案は日本の発案であったこと、その狙いは「二重代表」すなわち「二つの中国」ではなく、台湾の議席確保にあったことなどが指摘される。

この佐藤政権の中国政策についての分析は多岐にわたり非常に興味深い。まず、佐藤が意外にも「二つの中国」を否定して「一つの中国」を支持していた謎について、著者はこれを、沖縄との「分断」の悲劇の解消にまい進した佐藤の心情から類推して、同一民族の分断、すなわち中国の分断の固定化を避けたいという思いに動かされたものであったとする。その結果、佐藤は「一つの中国、二つの政府」を主張したと言う。しかし、これは佐藤以外からみれば「二つの中国」に他ならないのであり、その後中国との交渉に入るための方便的な建前であったと思われる。その証拠に、著者も指摘するように、佐藤も国府の国際的地位の確保を重視しており、経済援助を与えることによって台湾だけで生き延びるという「台湾化」を図っていた。つまり、佐藤も台湾が中国に吸収されることは避けたかいと考えていたと思われる。もちろん、本当に「統一」を願っていたわけではない。さらに佐藤は、台湾訪問を行ったり、沖縄返還時の「台湾条項」を受け入れたりと、台湾に対する安全保障上の関与にも消極的であったわけではない。もっとも佐藤も中国との国交正常化に乗り出そうとしたニクソン・ショック以降は、日中国交正常化と「台湾条項」の処理に苦慮することとなる。

次に論点となるのは71年秋の国連代表権問題への佐藤の対応である。佐藤は、最終的にはアメリカとともに「逆重要指定案」と「複合二重代表制案」の共同提案国になることを決断するのであるが、その意図と経緯がこれまで不明確であった。まず著者は、佐藤政権はアメリカの所長下「複合」二重代表制には反対であって、安保理議席は国府に残そうと考えていたこと、さらに71年の国連総会において佐藤は本気で勝つ気でいたことを指摘する。そうすると「二つの中国」が国連総会の場で実現することになるが、ここで国府の脱退を説得して阻止できれば、中国が加盟を拒絶するであろうから、現状がそのまま残ることになる。こうして問題をあと一年先送りしておけば、自分の後継者に意中の福田を継がせることが簡単になると考えていたという。中国加盟、台湾追放が実現してしまえば、中国との国交正常化を求める国内世論は食い止めようがなくなるであろうからである。また、沖縄返還協定の批准や蒋介石への感情も重要な要素であったとされる。

最後に分析は田中内閣の日中国交正常化に移っていくが、著者は台湾問題が最大の争点であったという。さらにニクソン訪中では、台湾に関する「暫定協定」が成立しただけであるのに対して、田中は台湾との断交を行ったという点で、一歩踏み込んだ「日本方式」が採用されたとする。しかし、それでもこれは日中間の「不同意の同意」であって、台湾問題の完全解決に至るものではなかったとする。

以上の本書の内容を踏まえて、評者なりの検討を加えるとすれば、まず「台湾問題」の定義について触れざるを得ない。本書でも?中国との国交回復の際の障害としての「台湾問題」と、?台湾を中国から切り離す安全保障政策としての「台湾問題」=台湾確保政策という両面があったことは指摘されている。しかし、?の側面は1960年代前半までフォローされているが、国交正常化前後は検討されずにいる。1970年代初頭においては?の側面にもっぱら焦点が絞られている感がある。ここで検討しなければならない問題としては、例えば日中国交正常化時に、日本側がアメリカの台湾防衛についてどのような予測を立てていたか、または台湾が中国に吸収されることの脅威についてどう考えていたか、が挙げられる。この点については、これまでも早坂茂三の証言として、田中は「中国が、日本の敵対勢力なら台湾は重要だが、日中が国交を回復して全体として友好関係になれば台湾も友好的地域になる」と考えていたと言われていたり、佐藤日記の中で大平が佐藤に「台湾問題は米国を頼りにして、米台条約が当方の救いになり日米安保は中国にとっても救いもの」(72年7月29日)とされている。大平には、米華相互防衛条約継続の認識があり、さらに中国も台湾について日米安保を有用に思っているとの判断があったと思われる。前者の点については、田中はニクソンとのハワイ会談後の印象を、佐藤に「米は台湾や韓国問題を重視してその基本線を動かすようなことはしないと云っていた」と伝えており、後者の点については、田中がのちにスハルトへ、北京交渉時に中国側に対して「台湾から米が引いて別のものが入ってこないと云う保証はない、そこを中国は、高度の政治的判断をすべきである」と伝えたとしており、さらに「中国は、台湾を米に委託しておくことが一番利口であると考えているものと思う」との印象も語っている。このように、それまで政府・外務省内に強かった台湾「確保」の命題は、日中国交正常化交渉の際に切り捨てられたのか、それとも維持できるとされていたのであろうか。

次に、この延長線上にある争点が日中国交正常化前後の中国脅威認識の変化についてである。本書の中でも折に触れ、1960年代までの中国の脅威について核開発、東南アジアへの拡張(浸透)、日本への内政干渉等が取り上げられている。一般的に1960年代までの日本政府・外務省は、中国に対する強い脅威を抱いていたとされており、そこから東南アジアにおける中国封じ込め、アメリカの拡大核抑止の継続要請が行われた。しかし、1970年代には一転して、中国の近代化支援に協力したイメージが持たれている。では、本当にこのような転換が急激になされたのであろうか?それは政府内での勢力関係の変化に起因するものであろうか?それとも政府全体として対中脅威を払しょくしたと言えるのであろうか? もし、そうだとすると、それは何をきっかけとしたものなのであろうか?

さらに著者も指摘するように日中国交正常化交渉の最大の焦点は台湾であった。しかし、長期的に見れば、本来、日中間に潜在的な問題は台湾だけではなかった。言うまでもなく、賠償問題と、日米安保・米軍駐留の問題があったわけである。それが、日中国交正常化交渉で台湾問題のみに収れんしたのだとすると、それをもたらしたメカニズムはどのようなものであったのか。仮説としては、日本が経済大国化し軍事的強化が進んだと中国側が捉えたことで、中国にとって台湾への「日本再進出」の悪夢が支配的になり、それ以外の争点を重要性のないものにしたとも考えられる。ここには「瓶のふた」論を中国側が受け入れて、日米安保・米軍駐留を受け入れるようになったという仮説も含まれる。それでは、日本としては、以上の三つの争点のうち、二つは論争化することさえもないまま自らの主張が通り、残る台湾についてすら実務的関係が維持できたとすると、何を失ったのであろうか?著者も指摘するように失ったものはほとんどない。中国側に、台湾との外交関係を切るという「日本方式」を確立し、その後に予想されたアメリカとの交渉でのモデルとして使いたいという狙いが優先していた結果、そのおかげで日本はほぼ満点の交渉ができたと言えるのではないか。なぜなら、日本として台湾と外交関係を切る代わりに、中国との外交関係が結べたわけで、これは国民の大多数が希望していたからである。その上、台湾における経済的利益は守ることができた。さらに台湾の「確保」、つまり中国に台湾が吸収されることを防ぐという目標は、当時はアメリカがやってくれると信じていたし、実際、現在もそうした目標が実現したままの状況が続いている。言い換えると、経済大国は軍事大国化するという米中両首脳のリアリズム的な「予測」が、その気もない日本の「幻影」として作用して、あの時期に日本に有利な形での国交正常化が実現したと言えるのではないか。ひるがえって現在の経済大国化した中国の軍事大国化の「現実」に、日米のリアリストはどのように対応するのであろうか。