タイプ
その他
プロジェクト
日付
2011/12/12

【書評】『ドキュメント 東京電力 ―福島原発誕生の内幕』田原総一朗著(文春文庫、2011年)

評者:宮城大蔵(上智大学外国語学部准教授)


本書は1986年に刊行された『ドキュメント 東京電力企画室』が改題の上、復刊されたものである。いうまでもなく今年3月の大震災と原発事故を受けたもので、復刊に際して「福島原発誕生の内幕」という副題がつけられた。

今春の震災と事故までさほど意識されることはなかったが、電力会社とはいかにも巨大な存在である。本書によれば1980年度の時点で電力業界の設備投資は自動車業界の4倍であり、国内の民間設備投資の4割あまりを占めた。産業や国民生活すべての根幹に関わる事業であれば、その巨大さもある意味、当然であろう。しかしそれゆえに、電力事業はしばしば政治の焦点として取り上げられてきた歴史があった。

1883年(明治16年)に日本最初の電力会社が設立されて以降、1912年(大正元年)には327社、1925年(大正14年)には738社もの電力会社が乱立した。このような過当競争を襲ったのがウォール街の株暴落に始まる世界大恐慌であり、昭和恐慌であった。加えて普通選挙の実現による参政権の広がりを背景に、大衆にアピールしやすい電気料金の値下げ、あるいは不払い運動が全国的に広がった。企業や政治家もこの時流に乗り、「豊富で低廉な電力の円滑供給」を掲げて電力国有化を目指す動きが大きなうねりとなったのである。

日中戦争が泥沼化し、世界情勢も不穏になりつつあった1938年に至って、戦時体制強化のかけ声の下、電力国家統制法案が可決された。電力事業は接収され、半官半民の日本発送電に一元化された。同時に国家総動員法が施行され、翌年には大政翼賛会が結成された。

敗戦後、GHQの下で日本発送電は解体され、9つの電力会社が成立する。しかしそれは必然というよりも、GHQや日本側の政財界有力者等による激しい角逐の結果であった。「この瞬間から、官僚たちにとって、九電力(九つの電力会社)は、いつの日かふたたび介入し、組み敷くべき、いわば怨念の標的となったのである」。

この国と電力会社とのせめぎ合いが、原発導入の背景にあったと本書は言う。1962年に東京電力が原発導入、すなわち福島第一原発の建設を決めたとき、石油は低廉で安定した資源であり、公害が社会問題化して火力発電所の新設が難しくなるのも後のことであった。加えて、本格的な原発建設に先駈けてイギリスから導入された原子炉は問題だらけという状況であった。「原子力こそが国家と電力会社の主戦場になる」という当時の東電首脳の言葉に、田原は上記の謎を解く鍵を見出す。

いまだ不安定であった原発導入を、国が主導して行うのか、それとも電力会社が率先して手がけるのか、それは日本発送電解体以来の、官僚と電力会社との「遺恨試合」という側面を持っていた。電力会社は官僚の介入を回避するため、国を挙げての日本独自の原発開発ではなく、アメリカのゼネラル・エレクトリック社(GE)製の原発をそのまま導入する道を選ぶ。

その後も核燃料サイクルや石油ショックなど、エネルギーをめぐる節目の出来事の度に、国と電力会社との確執とせめぎ合いが繰り返される様を田原は描き出す。

最近ではテレビ番組の司会者として認識されがちな田原総一朗だが、四半世紀あまり前に刊行された本書の切り口は鋭い。その規模と影響からすれば、電力事業の形態とは、政治と経済のど真ん中に位置する問題であることに気づかされる。それに加えて原発である。この度の震災が引き起こした原発事故によって、われわれの大半は原発をめぐる問題を、それを肯定するにせよ否定するにせよ、長年にわたって「非政治的」なものとして考慮と議論の範疇外におくことに慣れきっていたことを痛感したであろう。本書は電力事業と原発の「政治性」を、歴史をひもとくことで鮮やかに浮かび上がらせる。

田原は1970年代に原子力船「むつ」を扱った『原子力戦争』(ちくま文庫から2011年に再刊)を刊行し、それが引き起こした波紋によってテレビ東京を辞し、フリージャーナリストに転じたともいう。

新聞やテレビなど大手報道機関の社会部において、「花形」の位置を占めるのは事件を扱う警察担当である。NHK記者出身の池上彰が、「2010年の殺人事件は戦後最小の1067件。日本は世界に冠たる平和大国なのに」事件報道が社会面の中心を占めるのは、警察発表を軸にした「殺人事件の取材報道がマスコミにとって一番楽だからです」と指摘するのは慧眼なのであろう。「原発を典型として深い闇のまま放置された問題が露呈してきた現代社会。警察だけでは解決できない事象への調査報道に、多くの記者を投入する体制に変える時期か」という全国紙記者の自戒は(『毎日新聞』2011年8月19日)、四半世紀前に刊行された本書のユニークさを際立たせるとともに、日本のジャーナリズムのありようを逆照射するものだと言えるのかもしれない。