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【書評】『ドイツ帝国の成立と東アジア 遅れてきたプロイセンによる「開国」』 鈴木楠緒子著(ミネルヴァ書房、2012年)

February 18, 2013

評者:五百旗頭 薫(東京大学社会科学研究所准教授)

狙いと構成

本書は、19世紀中葉のドイツによる東アジアへの進出を、ドイツ統一の促進という観点から再検討したものである。この促進作用のことを、筆者は「イースタン・インパクト」と呼んでいる。東アジアの近代史を、欧米がもたらした「ウェスタン・インパクト」を避けて論ずることはできない。これに対して本書は、逆に東アジアとの邂逅がドイツに対して持った意味を、発掘しようとしている。

目次は下記の通りである。

はしがき
序 章 ドイツ国民国家形成と「開国」期の東アジアとの関係
第 I 部 ドイツ自由主義と東アジアの「開国」
第1章 1840年代ドイツ自由主義二大新聞の中国論 ― アヘン戦争をめぐって
第2章 1850年代ドイツ自由主義陣営の東アジア情勢論
― ミュンヘンのオリエンタリスト、ノイマンの論説
第3章 オイレンブルク使節団とプロイセン自由主義者
― 小ドイツ主義的統一国家建設との関連で
第4章 ドイツ帝国の創建と在華ドイツ人管理・管轄問題
― 朝鮮南延君陵墓盗掘事件への対応
第 II 部 オイレンブルク使節団の東アジア体験
第5章 オイレンブルク使節団の中国論 ― 条約締結交渉の経験
第6章 19世紀中葉ドイツにおける日本旅行記の生成と受容
― オイレンブルク使節団の旅行記の役割
第7章 19世紀第34半期における日独相互イメージの形成
― オイレンブルク使節団と遣欧使節団の経験
補 論 近代ドイツにおける顕彰文化と「国際交流」の記憶
― ケンペルの事例が語るもの
終 章 新しいドイツ近代史像の構築 ― 「イースタン・インパクト」への注目から
あとがき 参考文献 人名・事項索引

内容

第 I 部は、本書の主題たる、ドイツ統一と東アジア進出の連関をあつかっている。

第1章は、ドイツ統一をめぐる議論において主導的役割を果たした自由主義陣営が、アヘン戦争をどのように論じたかを検討している。第2章は、その後のアロー戦争を主とする時期について、同様に検討している。素材となるのは、アウクスブルク一般新聞とケルン新聞である。

二つの新聞の報道・論調には、当時のドイツの自由主義陣営の国内的な問題意識が投影されていた。対東アジア政策を論ずるという体裁をとることで、ドイツ統一問題について検閲を回避しながら間接的に議論する余地があったからである。問題意識は多様であり、アヘン戦争に対する両紙の態度もゆらぎをはらんだものであったが、態度を最終的に規定したのは、中国が西洋文明に参画することへの期待・興奮であり、それは同時に、こうした世界史的画期に参画できないドイツの現状への慨嘆でもあった。1858年のアロー号事件にいたると、戦争に対する両紙の支持は断乎たるものがあった。

この間、ケルン新聞で健筆をふるったのがオリエンタリストのノイマンであった。ノイマンはプロイセンを盟主とする関税同盟が東アジアに進出することを強く主張したが、その動機としては、先行して進出しているハンザ同盟が、関税同盟によって代表されることを受け入れ、ドイツ統一の機運が東アジアから強まることの期待があったという(第2章)。このように、東アジアへの参画要求は、ドイツ統一要求と密接な関係にあったというのが、本書の最も重要な主張である。

ところで、ノイマンにとって、統一の主導権を握るのがプロイセンであるかオーストリアであるかは、未決の問題であった。1857年4月、オーストリアの軍艦ノヴァラ号が世界周航に就き、天津条約が締結されたころに香港に到着する。ノイマンを含むドイツの自由主義陣営では、ノヴァラ号が東アジア諸国との条約締結を実現することへの期待が大きかった。ノヴァラ号が学術調査に終始したまま1859年に帰国したことは深い失望を招き、同じ年にオーストリアがイタリア統一戦争においてフランス・サルディーニャ連合軍に敗れたこととあいまって、統一への期待はプロイセンへと大きく傾くのである。

その後、1860年から62年にかけてプロイセンは、オイレンブルク伯爵を団長とする使節団を東アジアに派遣する。この使節団の見聞は、ドイツ語圏の東アジアイメージ形成の原点となった。派遣の背景と評価を、プロイセンの自由主義陣営の視点から検討したのが、第3章である。

そこには、東アジアで商業活動を展開していたハンザ都市を巻き込む意図が、やはり介在していた。ケルン新聞も、もっぱらこの観点から使節派遣を歓迎する。プロイセン邦議会も、手続き上の問題点(予算承認の前に使節団の一部が発出)や実利への疑念にもかかわらず、「ドイツ的使命」をプロイセンが先導することに賛成した。

このプロジェクトの最大の障害は、日本であった。幕府側全権の村垣範正が「北ドイツ」(関税同盟とハンザ都市・両メクレンブルクを含む)の複雑な内実について詳細に質問し、使節団を困惑させた。村垣の前任者であった堀利熙は切腹しているが、プロイセン以外の国名が条約案に含まれていることを責められたからであるという証言が、日本側にあったほどである。結局、使節団は、プロイセン一国との締結しか実現できなかった。

これに対して中国は柔軟で、日本・シャムと中国の関係がドイツ諸国とプロイセンの関係に対応するとみなし、交渉に応じた。公使館設置への抵抗が強かったものの、条約締結にこぎつけた。

シャムは親西欧路線をとっており、かつコーチシナをめぐってフランスの脅威に直面していたため、きわめて協力的であった。

以上の交渉に対する、ドイツにおける評価はどうであったか。

日本との条約には、自由主義陣営から失望の声があがった。小ドイツ主義的対外政策を頓挫させるものと受け止められたのである。

一方、プロイセン邦議会で問題となったのは、中国やシャムとの条約であった。属人主義的な領事裁判において、ドイツ人(例えばプロイセン人)の権利が、その邦(例えばプロイセン)の法律に通じていない領事(例えばバイエル人)によって適切に擁護されるか、疑問であったためである。これに触発された議論が、1865年のプロイセンの領事制度改革に結実する。

第4章は、ハンブルク出身の在上海ユダヤ系商人オッぺルトらが1868年に朝鮮で起こした南延君陵墓盗掘事件が、ドイツ領事法制の統一を促進した側面を取り上げている。

この事件は、大院君の父たる南延君の遺骸と埋葬品を掌握することで、朝鮮に開国圧力をかけようとしたものであった。だが盗掘は失敗に終わり、しかも祖先崇拝の強い朝鮮の強い反発を招き、その排外姿勢を一層強めるに終わった。

当時、東アジアにおけるドイツ人の管理・保護をめぐっては、プロイセンとハンザ都市の間で管轄権争いが頻発していた。既に1866年の普墺戦争の結果、翌年に北ドイツ連邦が成立していた。だがプロイセン法が後進的だとみなされていたこともあり、ハンザ都市の商人領事への評価は、東アジアにおいてなお高かったのである。

しかし、オッペルトの事件は条約が締結されていない朝鮮で起きており、在中領事の裁判権の範囲内とはいいがたかった。しかも、上海のハンザ領事であったハインゼンはオッペルトの後援者の一人であり、裁判を拒否し、関係書類を所持したまま帰国の途についてしまった。こうして、オッペルトの処分はヨーロッパに委ねられた。

それは、ヨーロッパにおける力関係 ― プロイセンが優位な ― に、委ねることを意味した。プロイセン本国は、ハンブルク本国にオッぺルトへの裁判を押しつけつつ(被用者と朝鮮人の生命を危険にさらした罪により禁固三カ月)、この事件を契機に上海ハンザ領事の統合に成功していくのである。東アジアでのイベントがドイツ統一を促進した、もう一つの事例であるといえよう。

第 II 部は、オイレンブルク使節団の活動の諸相にあらためて注目し、交流とその記憶、相互イメージの変遷について論じている。

第5章は、オイレンブルク使節団と中国との交渉をより詳細に跡付けた上で、使節団による中国観の形成を展望する。

英仏公使館の情報に影響されて、使節団は、清朝内の理解者としての恭親王に強い期待を抱いていた。恭親王と接触しようとするオイレンブルクの焦りが、清朝の許可なく随員ブラントと画家のベルクを北京に派遣するという北京「不法侵入」事件を招いた。

だが清朝と使節団は関係の修復に成功し、1861年9月2日に条約が調印される。その後、使節団は入京を許可され、27日に恭親王との会見を実現し、彼に好印象を抱く。この印象は、その直後に恭親王が西太后と結んで、洋務運動の起点となった政変に成功するという運命的なめぐり合わせによって、一層強められた。こうした経緯は、ドイツに砲艦外交を行う力がなかったこととあいまって、ヨーロッパに劣らぬ文明が中国に存在するという、中国に対するドイツ側の高い評価をうながしたのである。

第6章は、オイレンブルク使節団の日本旅行記を紹介している。その日本社会の分析は、鎖国時代の日本についてのケンペルの業績から多くを継承しつつも、鎖国下の平和と幸福というケンペルの理解は否定し、開国後の混乱や内戦を色濃く反映したものであった。だがその後、明治維新後の新しい情勢を踏まえた修正を伴わなかったため、日本観の混乱を招くことになったという。

第7章は、より長い期間をとって、日独の相互イメージの変遷を追跡し、一定の相互理解の進展があったことを明らかにしている。

開国前から、日本はドイツの国制についてかなり正確な情報を得ていた。もっとも、「ドイチ国」や「独逸」と記述される国がオーストリアを指すのか神聖ローマ帝国を指すのかが不明確であり、また、関税同盟についての知識はなかったようである。

オイレンブルク使節団を通じて日独が直接に接触するようになると、幕府がドイツについてかなり詳細な知識を有していることに使節団は印象付けられた。随員であり、後に初代駐日領事になるマックス・フォン・ブラントの名をきいた堀や森山多吉郎は、当時有名であった作戦学の著書の名前を連想し、ブラントがその息子であると聞いていたく喜んだ。このエピソードは、ドイツのメディアに広く流布した。

また、福沢諭吉と使節団メンバーの双方が、幕府権力衰退後の日本の国制がドイツに近い連邦制になると予測するといった、興味深い一致も見られた。

補論は、ケンペルの顕彰活動を題材に、アジア交流の記憶について論じたものである。

ドイツでは、研究者としてケンペルを評価する傾向が強い。ナチ党が、ドイツ民族の精神を最果てにまで伝え、「諸民族の結合」を先駆けた偉大な研究者・旅行者としてケンペルを顕彰した時期もあった。

戦後もケンペル研究は持続するが、日独交流の先駆者としての関心が強まる。1971年には、日本から石塔と句碑が郷里レムゴーに贈られた。

さらに、ケンペルが箱根の自然をたたえたことから、「箱根を守る会」は自然保護の原点としてケンペルを顕彰する行事を例年開催している。

日本では日独交流の観点からケンペルを顕彰することが多いのに対し、ドイツではあくまで研究者として取り上げることが多い。それは日独関係の記憶における日本の片思いを象徴していると著者は総括する。

評価

ドイツが東アジアから受け取った「イースタン・インパクト」は、東アジアが欧米から受け取った「ウェスタン・インパクト」とは、深刻さにおいて比肩するものではないであろう。東アジアとの交流の中には、ドイツ統一への機運を反映した諸相は見いだせるが、あえて促進したとまでいえるものは多くはない。それでも、本書がこれら諸相に光をあてたことで、我々は、プロイセンの東アジアへの進出が、ドイツにおいてどのような期待と評価に取り巻かれていたかについて、大きく理解を前進させることができた。

また、明治日本が強力な統一国家としてのドイツから学びはじめる前に、連邦制的な国家としてのドイツが東アジアにおいて認知されていたという指摘は、重要である。

評者の理解では、日本の条約改正交渉においては、本書も指摘するところの、国内の法制の多様な国が領事裁判の運用に見出す困難というものが、交渉の促進要因として意識されることがあった(拙著『条約改正史 ― 法権回復への展望とナショナリズム』有斐閣、2010年)。日本の要求に比較的早期に応じようとした主要国が、アメリカとドイツであったことは、そのことと関係しているかもしれない。本書の知見を踏まえて、明治日本の外交史が深まる可能性がある。

そのためにも、筆者には、研究史上のメインストリームというべき問いに対して、より積極的に見解を提示してもらいたいと思う。例えば、そもそもドイツの自由主義陣営は、どのような意見に基づいて、いかに統一を促進したのか。統一国家を造ろうとする日本は、ドイツからどのように学んだのか。ドイツの東アジアに対するいわば帝国主義的な進出は、いつどのようにはじまったのか。本書は、こうした手あかのついた問いそのものではなく、その前の時代や、東アジアとの接触面などに光をあてて、興味深い発見をした。その発見を踏まえて、上記の問いにあらためて向き合う中で、本書の真価も明らかになるであろう。もっとも、これは本書への批判というよりは、本書を楽しんだ者の、次の注文というべきであろうが。
    • 政治外交検証研究会幹事/ポピュリズム国際歴史比較研究会メンバー/東京大学大学院法学政治学研究科教授
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