タイプ
その他
プロジェクト
日付
2014/12/19

【書評】植村和秀『ナショナリズム入門』(講談社現代新書、2014年)

評者:五百旗頭 薫(東京大学大学院法学政治学研究科教授)
 
  本書は世界の各地域を巡歴しながら、ナショナリズムの要素と、その要素の配合いかんによってひきおこされてきた功罪を概観したものである。目次は下記の通りである。
 

<目次>

第一章 ナショナリズムの作り方
第二章 ネイションの自明性──日本の形
第三章 ネイションの多義性──ドイツの変形
第四章 人間集団単位のネイション形成(一)──ドイツと東欧
第五章 人間集団単位のネイション形成──(二)ユーゴスラヴィアの滅亡
第六章 地域単位のネイション形成(一)──アメリカ大陸の状況
第七章 地域単位のネイション形成(二)──ヨーロッパの西と南
第八章 ネイション形成のせめぎ合い──重複と複雑化
第九章 ナショナリズムのせめぎ合い──東アジアの未来
第一〇章 政治的仕組みとネイション
 

<要約>

   第一章は、「ナショナリズムの作り方」という親しみやすい名前の章である。これに象徴されるように、本書は、内容を平明な「ですます」調(敬体)で伝えようという意欲で一貫している。第一章では、ナショナリズム形成の単位として、人間集団と地域が挙げられる。その一体性を担保する装置として文化と国家が挙げられ、文化が人間集団単位、国家が地域単位のナショナリズムにゆるやかに親和的である。例えば、地域単位のナショナリズムの方が、国家による領域支配に適合的で成功しやすい。
   以下、巡歴がはじまる。人間集団と地域が概ね一致し、自明すぎるからこそ分かりにくいこともある日本が、第二章で取り上げられる。ナショナリズムの形成に成功した経緯を概観した上で、昭和戦前期の暴走について、「自ら進んで身命を賭するよりも、自己の力不足をネイションによって埋め合わせ、何らかの意味でネイションに助けてもらおうとする動きが強まったのです」と述べ、「こだわりの重点が、多様な豊かさから力強い一体性へと移っています」(56頁)とも述べている。多様な豊かさから一体性へ、という説明は本書の記述だけからではやや分かりにくいが、この点は後ほど論じたい。
   第三章では、人間集団が多様で広範に広がり、自明さからはほど遠いドイツを取り上げる。ドイツ帝国は、ドイツ文化への帰属意識を持つ人間集団のごく一部を統一したのみであり、国家による台頭が目指される一方で、文化面からの物足りなさや疎外感が繰り返し表明された。ドイツ文化の逆襲・暴走は、国外(オーストリア)に生まれたヒトラーによって遂行された。現にナチス・ドイツは、人間集団への徹底したこだわりをもつ国家であった。これが多くの悲劇を生んだことはいうまでもないが、ナチス・ドイツの侵略、敗北、ソ連圏への編入を通じた強制的な移住により、人間集団の地理的分布はかなり整理され、社会主義圏の崩壊が大きな混乱を招かなかった背景ともなった。他方、これが未整理のまま戦後を迎えたユーゴにおいて、冷戦後に再度の悲劇が繰り返されたという。この第三~五章が、最も読み応えがある。
   一方、地域単位の作り方に問題がないわけではない。第六・七章では、アメリカ大陸やフランスやイタリアなどが取り上げられる。シビックな自己決定に基づくという誇りがある一方で、国家や文化が他のオールタナティブを抑圧する善悪二元論の側面もあると指摘する。支配の領域が複数の人間集団を包摂する帝国(ロシア、オスマン帝国)やイスラームは、第八章で点描される。
   第九章で東アジアを再訪し、中国が攻撃的な理由として「近代化が中途半端な時期」にあることが(248頁)、昭和戦前期の日本のアナロジーもまじえて説かれ、ナショナリズムの功罪を踏まえた上で対処すべきであると述べる。
 同じメッセージが、第一〇章では、国家や民主主義とネイションとの緊張をはらんだ関係を通じて再述される。
 

<論評?―分かりやすさと分かりにくさ>

   本書は分かりやすい。分かりやすさの理由を二点、詮索しておく。
第一に、本書があまり論じないのがアフリカである。また、アジア主義にもページを費やさない。アジア主義やパン・アフリカニズムといった地域主義が、西洋への反発や抵抗の中から生まれ、ネイションを活性化しつつこれと緊張関係に立つ、という経緯の複雑さが、近代の世界史の複雑さのかなりの部分を占めていたと評者は考える。だが今や中国がアメリカに迫る大国となり、ナショナリズムの衝突が東アジア共同体の夢をかすませる。この見通しのきかない現況が、かえって平明な比較の背景となったのかもしれない。
 第二に、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」であれ、ホブズボームの「創られた伝統」であれ、ネイションの人為性や権力性を明るみに出すのがナショナリズム論の一つの作法であった。本書もそうした側面を指摘はするのだが、ネイションはいくつかの与件から生成するものであって、この与件をあらためて分解してレシピ(「作り方」)として提示することの方が重要であると考えているらしい。この点は批判を招くかもしれないが、興味深い巡歴へとなるべく早く読者を連れ出そうとする好ましい意欲と表裏一体である。
 さて、本書は読み方によっては分かりにくい。分かりにくさを二点、説明しておく。
第一の分かりにくさは、形成単位(人間集団/地域)と、一体性を担保するもの(文化/国家)という二つの対抗軸が、微妙にずれていることである。人間集団単位の形成が文化と、地域単位の形成が国家と親和的なのだが、しかしたとえば「地域を単位として、文化的なものや国家的なもので歴史的に形成されたネイション」(159頁)といった表現がある。だがこのずれは無駄ではなく、既に述べたように、ナチス・ドイツのような人間集団にこだわる国家を析出し、国家の力で人間集団の地理的分布を整理した前後の歴史を語る装置として働いている。
   第二の分かりにくさは、日本について先に指摘した分かりにくさ―昭和戦前期の特徴を自我のネイションへの依存ととらえ、多様性から一体性への比重の変化とみなしたこと―である。
   そして、これら二つの分かりにくさは、いずれも昭和、ないし(第一次世界大戦からソ連滅亡までの)短い20世紀への著者の関心から派生しているように気付かされる。この気付きは理解の助けとなるだろうか。
 

<解説―補助線としての『昭和の思想』>

   著者の前著『昭和の思想』(講談社選書メチエ、2010年)は、理の軸と気の軸によって昭和期の日本の思想を分類している(下図は、同書18頁の「位置関係図」に基づく)。
 
                      西田幾多郎
                /  気の軸
                         /
丸山眞男―――――――――平泉澄
                      / 理の軸
                    /
              蓑田胸喜
 
  理の軸に並ぶのは政治的な思想家であり、論理による説得を重んじ、全体を見回した戦術を意識した言説を生みだす。左翼よりに丸山眞男、右翼よりに平泉澄が位置する。
  気の軸は論理や理念よりも気や勢いを重視する発想である。ポジティブなエネルギーを発するのが西田で、ネガティブなエネルギーを発するのが蓑田である。
  『昭和の思想』は、理の軸、気の軸それぞれの中での対比や、二つの軸の間のすれ違いを通して、昭和の思想や事件に見通しを付けようとする作品である。
  さて、同書によれば、昭和ないし短い20世紀の世界の特徴は、政治が生活のあらゆる方面を左右するようになり、国家の全面化や国家と社会の相互浸透をもたらしたことである。こうした事態は、論理的には政治の闘争化や国家の全体化までをも帰結するわけではないが、実態としては帰結することがあった。
  実態として帰結させた要因の一つは、ナショナリズムというこだわりであると著者は述べる。『ナショナリズム入門』の一つの伏線であろう。
  また、国家の全面化や全体化への関心は、国家が地域を排他的に支配するのみならず、人間集団の運命を容赦なく左右することへの関心につながる。『ナショナリズム入門』の第一の分かりにくさを解きほぐす、もう一つの伏線であろう。
  丸山・平泉は、政治の時代に対応して、正面から政治化した。安保闘争における丸山は時代の寵児であった。しかし気の軸からは理解されず、反発を受けた。学生反乱において丸山は、攻撃の格好の対象となったのである。
  西田・蓑田は政治向きではなかったが、政治にのめり込む。だからこそ西田は正のマグマ(世界新秩序構想など)、蓑田は負の闇(天皇機関説批判に象徴される言論内部の言論弾圧)を遺憾なく表出する。蓑田に顕著なのは、自らの考える日本への精神的依存であり、異なる日本観を抱く他者の言論の否定である。『ナショナリズム入門』の第二の分かりにくさは、蓑田を念頭に置くと分かりやすくなるのではないか。
 

<論評?―文体>

   『昭和の思想』と『ナショナリズム入門』は、敬体を用いるという点でも一貫している。
   『昭和の思想』では、著者は蓑田に惹かれているように思われる。共感しているということではなく、蓑田の負のパワーを理解し、表現することに興味があったということである。拾い読みすれば、「(前略)蓑田が無を語ると、否定のブラックホールのようなイメージになってしまいます。無限の生成を自称するものの、実際には、否定的な働きに終始して、後には何も残りません。何か、黒々とした闇ばかりが見えるのです。(中略)壁を突き破って、ポジティヴな方向に気力を転じることは、ついにありませんでした。しかし思想史的には、そのことも重要なのではないかと思うのです」(136~7頁)と述べている。敬体だからこそ、まがまがしい雰囲気を与えるのに適している。
  『ナショナリズム』では、敬体は平明な比較の光を諸ネイションに降り注ぐ文体として働いている。もっとも、ミュンヘンでセルビア人のデモに遭遇した経験を書き出しに、「わたしはある冬の日に、ナショナリズムを見たのです」(10頁)という報告から始まる本書であり、優しい声でにじり寄る僧兵のような迫力は、いずれにしても健在なのだ。ナショナリズムをはじめて考える読者はもちろん、知識を積んだ読者も、こういう概説書なら退屈しないであろう。