タイプ
その他
日付
2007/10/24

第1弾「とち餅」(2/5)


2.なぜ、たからものなのか?(歴史的背景と危機的状況、他の在来種との比較)


縄文時代から続く栃を食べる文化

栃は、朴葉のように大きな葉をつける落葉樹で、大きいものは30メートルにもなる。そして、この栃の実を食する文化は、実に縄文時代からわが国にみられるという。同じ縄文食の中でも、寿命30~40年の栗と違い、樹齢300年以上の巨木も多く、老木になっても大きな実をつけるありがたい木である。
『栃と餅』(野本寛一箸、岩波書店、2005年)によれば、新潟県の奥三面元屋敷からは、栃の貯蔵庫が発見され、埼玉県の赤山遺跡からはその加工場らしきものが出土している。ところが、サポニンやアロインなどの強い苦み成分を持つ栃は、そのままではとても食べられず、西洋ではまったく食習慣がない。街路樹として知られるマロニエは、その親戚で英名はホース・チェストナット、セイヨウトチノキ、あるいはウマグリなどと訳される。 


さて、栃の実を食すには、清流に何日もさらし、楢や栃などの木灰でアク抜きしなければならない。縄文人たちも、何らかの方法でアク抜きするすべを体得していたと思われる。
以来、険しい山あいの地では、栃は、戦後まで、主食のひとつだった。山形県の朝日地区には、栃を粉にし、稗(ひえ)などを団子にしたアンポや栃粥を、通年、食する習慣があった。また各地に栃の共有林を守り、「山の口あけ」と呼んで210日の解禁日を決めている地域もまだある。民俗学者の結城登美雄によれば、栃食の文化はマタギ文化圏に重なり、焼畑で蕪(かぶら)や雑穀を育て、時に猪や野鳥で栄養を補う暮らしに、栃や栗、茸など山の幸は欠かせなかった。海から遠い地域の縄文の食生活を彷彿させるものである。そんな地域では、今も災害時に「蓄えがある」といえば、「屋根裏の栃」を意味するという。かつては、娘を嫁に出す時、栃を数本、持参金代わりに送る習慣もあった。こと江戸時代になっても水田のない地域の飢饉対策、非常食として、各地の山村では、どんなに手間でも栃食を守ってきた。

しかし、昭和30年代から、栃の実を食べる習慣は急速に減少する。各地の山村で、古老が「昔はどの家でもよく作った」と呟くとち餅も年々、作り手がいなくなろうとしている。 
大きな要因は、まず、杉の植林による栃の伐採。次に食生活の変化で、手軽な食品が出回る中、栃はアク抜きに10日からひと月近い手間がかかること。そして、もっとも懸念されるのが、加工の技を持つ人たちの高齢化である。

また、その加工には、灰でアク抜きするという古来の知恵も見られる。ところが目下、各地に共通の課題は、アク抜きの木灰の入手の難しさだ。木灰は、アクの強い楢(ナラ)、栃の皮、そばガラ、ケヤキなどを使うが、このうち楢は、数年前から全国的に病気で立ち枯れする現象が拡がっている。それ以上に、池田町に通う学者、伊藤洋子さんによれば「とち餅は、囲炉裏のある暮らしと切っても切れない関係」にある。囲炉裏は、火を囲んで語らう文化や煮込みなどの伝統料理を守り、干し柿を燻し、納豆などの発酵食を育んだだけではない。その木灰で、筍や栃のアク抜きをし、囲炉裏の上のしつ(あま天井)に乾した栃や大豆を保存しておけば、カビも生えず、凍らなかった。それも昭和30年代から囲炉裏が埋められ、石油ストーブ、電気ジャー、冷蔵庫が普及、一気に灰も手に入らなくなった。(続きを読む