タイプ
その他
日付
2007/12/17

第5弾「干し柿」(1/5)

  
「食のたからもの取材レポート」第5弾は、「干し柿」のレポートをお届けします。柿(学名:Diospyros Kaki)は数少ない日本原産の果物。寒い季節に干し柿が家々の軒先に下がる光景は、日本人の原風景といえます。17世紀初めに沖縄や西日本で砂糖作りがはじまるまで、干し柿は、蜂蜜と並び、唯一といっていい貴重な甘味でした。しかし、その後の砂糖輸入量の急増や日本人の食生活の変化、そしてなによりも担い手の高齢化により、いま干し柿は何度目かの生産の危機に直面しています。プロジェクト・リーダーの島村菜津氏が、岐阜県美濃加茂市の蜂屋町に取材しました。

――――― <目次> ――――――
1.なぜ、たからものなのか
2.どうやって作られているのか
3.どんなところで作られているのか
4.人物紹介
5.どこで味わい、買うことができるのか

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■English Version→  Dried Kaki


1.なぜ、たからものなのか




岐阜県の美濃加茂駅に瑞林寺という美しい古寺がある。歴代将軍の御位牌が納まったこの由緒ある寺は、地元では「柿寺」の名で親しまれている。本堂の欄間には、柿の文様があしらわれ、その一角には、柿を天皇家に納めるための献上篭が残っている。そして、この寺に伝わる古い地図には、寺の裏手ともう一箇所に「お柿所」と書かれた敷地が描かれている。住職によれば、それは、蜂屋村は、江戸幕府の「御菓子場」として、毎年、将軍に干し柿を献上していたが、この加工するための場所だったという。


なぜ、干し柿が“菓子”かといえば、江戸の鎖国時代になっても、日本は、海外から高価な砂糖を買うために、銀や銅を輸出していた。やがて、その銀や銅も枯渇してきた頃、漂着した中国で身につけた甘藷栽培と製糖の技術を持ち帰った人物が、砂糖作りに成功したのも、17世紀の初め。以後、じわじわと沖縄や西日本で砂糖作りが広がる。それ以前の長い歴史の中では、干し柿が、蜂蜜と並び、唯一と言ってもいい貴重な甘味であり、“お菓子”だった。

この『柿寺』では、年に一度、一月に『蜂屋柿茶会』が開かれる。つまり、寺の見下ろす蜂屋町を中心に、この地域原産の蜂屋柿の干し柿作りが、今も続いている。

柿寺の隣り、蜂屋小学校には、黒みかげの石版に、坪内逍遥の作詞による校歌が刻まれ、そこには「千歳の昔に、その名高く 雲居の供御とも なりぬる柿」とある。これは誇張ではなく、実際、平安の学者、藤原明衝の書簡を集めた『明衝往来』の中に美濃国から朝廷に干し柿が届いたという記述があるという。

また、室町時代、この瑞林寺を開山した仁済和尚は、足利幕府に蜂屋柿を献上し、そのおいしさに感銘を受けた将軍から、「柿寺」の称号を授けられたという。さらに年貢を納める村人の苦労に心を傷めた柿寺6代めの明丘和尚の交渉によって、豊臣秀吉は、“蜂屋柿100個を上納すれば、年貢米5斗(375キロ)年貢が免除される”と定めたという。

それほど歴代の権力者に愛されてきた干し柿だが、その名声は国内に留まらず、宣教師ルイス・フロイスは、『日本史』に、織田信長から蜂屋柿でもてなされたと書き記し、1900年、明治政府はパリ万国博覧会にこれを出品、銀賞を受賞し、好評を博した。そのせいか、柿は、ヨーロッパでも「カキ」と呼ばれ、詩人ヘッセも異国情緒漂う庭木としてこよなく愛した。

ところが、蜂屋柿は、その後、二度の存続の危機に陥った。大正から昭和の初め、国家産業としての養蚕がさかんになると、柿の栽培は激減。30軒ほど残っていた農家の畑が軒並み、桑畑と化した。その昭和五年、蜂屋柿の復活に生涯を捧げようと一念発起したのが、当時20歳の村瀬俊雄さんである。この町では、今も小学校で干し柿作りの実習をするが、高等中学で、これを経験した村瀬少年は、「自分の仕事は、この柿を作ることだ」と心に決めた。村瀬さんは、古老の話を聞き、旧家の庭に残っていた蜂屋柿の木から、少しづつ木を増やしていく。徴集されて戦地に赴いても、奥さんに、肥やしのことなど細かに書いてよこすほどの熱心さだった。

しかし、戦中と戦後の食糧難で、ふたたび嗜好品の柿畑には穀物が植えられ、周りの木は燃料と化したが、村瀬家は、頑固に守り続けた。やがて昭和53年、村瀬俊雄さんが地域に呼びかけ「堂上蜂屋柿振興会」を発足、干し柿作りはまた復活。2007年、イタリアに本部を持つスローフード協会から、世界の優れた食文化遺産の一つとして『味の箱舟』に承認された。

ところが、この蜂屋柿の存続に、またもや正念場が訪れた。柿は数少ない日本原産の果物。そして長い間、唯一の甘味だった干し柿が、寒い季節、軒先に下がる光景は、日本人の原風景でもある。蜂屋の農家では、10年ほど前から、貴重な干し柿が雨に打たれぬよう考案された滑車つきの台車が主になり、柿すだれは、ほぼ消えてしまった。しかし、自宅用の柿すだれは、まだ方々で目にすることができる。

松尾芭蕉は「里古りて柿の木持たぬ家はなし」と謳ったが、次第にそんな光景も少なくなってきた。柿だけを見ても、甘柿の富有柿や平核無柿、刀根早生といった商業品種だけで栽培面積の約45パーセントを占め、かつては全国に千種もあったという在来の柿は、どんどん姿を消している。

その要因は、食べる側の事情としては、輸入の砂糖が氾濫し、サッカリンなど人工甘味料も生れ、洋菓子チェーン店や工業製品の菓子類など圧倒的に甘いものが増えた。清涼飲料水でさえ大量の砂糖が含まれる。そんな中で、干し柿は、唯一の甘味としての地位をとうに失っただけでなく、そのほのかな苦みや渋みをはらむ甘さがわからない層が多いこと。  

そして何より深刻なのは、担い手の問題。蜂屋柿の味を支える農家は約80軒、加工までするのは46軒。だが、その平均年齢は74歳。若くて積極的なのは、村瀬俊雄さんのお孫さん夫婦くらい。天候にも恵まれた平成14年は、1.5キロ箱を8400箱、出荷したが、以後、これを越えることはなく、数も安定せず、「村のほまれ」と逍遥も湛えた日本が誇る柿は、今、3度めの、深刻な危機に瀕している。