タイプ
その他
日付
2008/8/19

第21弾「海塩」(5/5)


6.人物ファイル


小渡幸信さん


サイパンで生まれた小渡さんは、終戦後沖縄に戻ってタイル職人として働いた。約50人もの従業員を抱え、全国へ技術指導に出かけたり、建築学会賞を受賞したりするほどの腕利きの職人だった。

 塩づくりに転進するきっかけは、自然塩復活運動の中心的な活動家であった谷克彦さんとの出会い。昭和49年(1974)、沖縄読谷村で自然塩復活を夢に全国から集まった有志たちによる「塩づくりワークキャンプ」が開催された。「70年代はじめに私は体を壊してヨガ道場に通い、自然食の大切さを学びました。そんなとき、沖縄で谷さんと出会って自然塩の大切さを目の当たりにし、一緒に研究を始めました」。研究を続けるうちに気付いたのは、ただ自然塩でありさえすればいいのではなく、海水と同じバランスでミネラル成分を含んだものがよいということ。「タワー式塩田法」という新方式の実験・研究と同時に、昔ながらの揚げ浜式塩田もつくられ30人以上が参加していたが、最終的に残ったのは谷さんと小渡さんだけだった。そして、谷氏が沖縄を引き揚げた後も研究を重ね、平成6年(1994)に粟国の塩が誕生した。

 平成16年(2004)にはイタリアでのスローフード世界会議で日本代表として講演を行い、現在も各業界からの講演依頼が多い。
 また塩づくりとともに、食育にも力を入れている。「塩づくりを通して、子どもたちに食の大切さが伝わればと思っています」と語る。


松宮賢さん・さゆりさん


もともと塩に興味をもっていたという賢さん。しかも、その興味たるや中途半端なものではない。「旅行では行かないような場所に頻繁に出張していたので、どうせなら、とその都度、現地の塩づくりを見学してまわりました」というように、趣味を超えた積極的な取材を行っていた。そんな賢さんが「生きることの原点に立ち返った仕事がしたい」と考えたとき、塩を選んだのはむしろ当然だったのかもしれない。

東京在住だったさゆりさんと野甫島へ移住すると同時に、婚姻届を提出。ここから夫婦の二人三脚が始まった。塩田設備はすべて、基礎工事から設計、建築まで専門書を勉強してふたりでつくり上げたものだ。「塩田建設中、週刊誌の取材が来たんですが、塩ではなくて日本の変人、みたいな特集でした」と当時を振り返る。

自然界のミネラルをバランスよく結晶化させた塩は、さゆりさんによって「塩夢寿美」と命名。料理番組や雑誌にも取り上げられ、料理人の間でも評判がいい。

 文章を書くのが好きな賢さんは、写真が趣味のさゆりさんの協力を得て、世界各地の塩の探検記などを紹介する無料のミニコミ誌を年1回発行し、8年目になる。世界の塩づくりを展示した資料館「ソルトクルーズ」もオープン。野甫島でつくられた珍しい形の塩の結晶や、世界各地の海塩、岩塩、湖塩などの現地取材の様子が紹介され、塩に対する強い情熱と生産者としての誠実さがひしひしと伝わってくる。







取材・文:福田素子
撮影:菊池和男