タイプ
論考
プロジェクト
日付
2011/7/14

関東大震災と後藤新平・復興院の挫折

東京財団上席研究員
筒井 清忠


東日本大震災の復興では政治家によるリーダーシップのあり方に加えて、復興対策を進める組織づくりが論点となっています。その多くが関東大震災の震災復興に着目し、第2次山本権兵衛内閣の内務大臣だった後藤新平が復興対策のリーダーシップを振るい、後藤の主導によって創設された「復興院」によって東京の復興対策が進んだと強調しています。さらに、今国会で成立した復興基本法では、復興院を参考にして「復興庁」の新設も決まりました。

しかし、筒井清忠上席研究員は関東大震災後の政治状況と後藤の動向を詳しく分析し、当時の政局の関心は震災復興よりも普通選挙実施や新党結成にあったこと、内閣の中心的な存在だった後藤が新党結成に失敗して政治的な影響力を失ったこと、その結果として復興院が短命に終わったことなどを考察する論考をまとめました。

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東日本大震災の後、後藤新平と復興院の名が称揚されることが多くなった。しかも、国会では明らかに関東大震災後の復興院のことを念頭に置きつつ、復興組織のあり方が議論され復興基本法が成立した。しかし、日本近現代史を研究した者からすると復興院は早い段階で廃止された組織でありそれを参考にするということ自体が不正確な歴史認識に基づいた議論にしか思われない。そして、このまま放置しておくと、この先こうした一連の虚構に基づいた歴史認識から誤った政治的判断が行われかねない有様である。復興基本法には1年以内に「復興庁」を創設することが盛り込まれているが、新しくできる復興庁はいかにあるべきかを考えるためにも、後藤を中心とした関東大震災後の政治状況を正確に明らかにし、識者の公正な判断の基礎を提供することにしたい。

通常想定されているのとは異なり、関東大震災後の政治過程の主たる政治焦点は震災からの復興の問題ではなく、普通選挙・新党問題の方にあった。その一焦点が後藤新平であった。後藤は震災からの復興に関わる組織をも利用して一部政党の乗っ取りによる新党形成を策したのである。しかし、冒険的で強引な手法をとったためそれは一時的成功に終わらざるを得なかった。さらに、政府の最大の武器である「解散総選挙」が後藤らの閣内地位の低下と閣内の不統一のために駆使できないと見定めた反対党の政友会の判断により最後の政治的勝敗は決し後藤は敗北する。復興院は廃止され内務省の外局の復興局となるのである。

東日本大震災からの復興に関し、関東大震災の復興院を参考にした形で、復興庁の設置が決まった。それならば、復興院は計画のみに携わったのであり実施は内務省外局の復興局と東京市が担ったことを忘れるべきではない。すなわち、関東大震災後の復興が評価されるというのであれば、復興計画のために新官庁が出来ることがあるとしても実施は既成の所管官庁(もしくはプラス外局程度の規模のものの新設)と地方自治体とで十分ということになるはずである。 また、政府はすでに復興構想会議を設置している。復興構想会議は文字通り復興の構想を練る会議であるはずだ。そうするとこの報告を受ける首相を本部長とする復興対策本部が復興構想会議のプランを各省庁に割り振って各省庁が実施していくということが可能であれば、意見集約の困難な各省からの寄せ集め官僚の統合体のような新官庁は不要だったはずなのである。復興は迅速を要する。 来るべき復興庁のあり方はこのような視点から検討されるべきであろう。

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第2次山本権兵衛内閣の4ヵ月

1923年
  • 8月24日、加藤友三郎首相死去。後継首相を巡り、多数党の立憲政友会と第二党の憲政会が対立
  • 9月1日、関東大震災が発生
  • 9月2日、第2次山本権兵衛内閣発足。内相に後藤新平、逓信相に犬養毅。山本首相を中心とした薩派と後藤・犬養という革新政治家が軸を形成
  • 9月5日、内務省幹部人事の発表。憲政会系の幹部を起用
  • 9月6日、後藤内相が「帝都復興ノ議」を閣議に提出
  • 9月19日、帝都復興審議会官制公布。山本首相が総裁、後藤内相は幹事長に。政党代表や政財界幹部に加え、後藤・犬養との「同盟」が言われた枢密顧問官伊東巳代治と政治浪人大石正巳も参加
  • 9月27日、帝都復興院官制公布。後藤内相が復興院総裁を兼任
  • 10月16日、関係五大臣会議で普選実施の原則を決定
  • 10月18日、後藤内相が法制審議会で普選の審議促進を要請(12月5日に最終答申提出)
  • 10月中旬~、憲政会を取り込む形での後藤・犬養主導の新党計画が浮上
  • 10月25日、地方長官の異動人事。政友会系知事を一掃
  • 11月12日、山本首相が三大政綱(綱紀粛正、普選即時断行、行財政整理)を発表。次期議会への普選案提出を明言
  • 11月24~27日、帝都復興審議会総会。復興計画に対する批判強まる
  • 11月下旬~、加藤高明憲政会総裁の反発で後藤・犬養の新党計画が後退。普選実施を巡る閣内の対立も激化、普選尚早論の政友会に賛同する意見が拡大
  •  =>後藤の影響力が後退
  • 12月3日、復興予算案を閣議決定。当初段階で約10億円だった予算額は約5億7千万円に削減
  • 12月5日、憲政会は新党への合同を拒否。憲政会は政友会との連携に傾く
  •  =>後藤をターゲットにした政友会の政府攻撃が激化
  • 12月18日、政友会は復興院廃止と復興予算大幅削減の方針で一致(その後、復興予算は4億6844万円に削減)
  • 12月19日、復興予算大幅削減をめぐる解散総選挙の是非を巡って閣内が対立。犬養は解散を主張、後藤は政友会への屈服を選択
  • 12月23日、火災保険貸付法案が審議未了。田健治郎農商務相が辞任
  • 12月27日、摂政宮(=後の昭和天皇)が狙撃される「虎ノ門事件」が発生。元老の西園寺公望は慰留も、犬養は総辞職を主張
  • 12月29日、山本内閣総辞職