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日付
2007/11/20

第5回国連研究会から-歴史としての日本の国連外交(1)

2007年10月18日
於 東京財団


<潘亮・筑波大学人文社会科学研究科専任講師の報告>

 ご紹介あずかりました、筑波大学の潘と申します。まず、お断りしておかなければいけないのが、私は国連そのものを専門とするわけでもありませんので、単に日本外交史を研究する一環として、冷戦期の日本の国連政策を取り上げたにすぎないので、報告の中でいろいろと、特に国連関係の議論の中で、非常に幼稚なところも多々あるかと思われますが、それらについてはぜひご意見、コメント、ご教示いただければと思います。
 早速ですが、まず、今日は、これも新しい研究でもないんですけれども、1年前出版しました、私自身の著書(Liang Pan, The United Nations in Japan’s Foreign and Security Policymaking 1945-1992, Harvard University Asia Center & Harvard University Press)に基づいて話を進めてまいりたいと思っております。この本自体は、出版されたのが去年だったんですけれども、実際書き始めたのがもう10年前で、当時は大学院生で、たまたま修論のテーマで日本の国連外交を取り上げて、まだ非常に資料が少なくて、先行研究もほぼ皆無に等しい状況で、大変苦労していた覚えがあります。
 ただ、特に私は日本人ではありませんので、日本外交全般について勉強し始めたとき、この日本外交には3原則、いわゆる三本柱というものがあったと聞いております。1つは、西側の陣営の一員として国際社会で役割を果たすと。そして、アジアの一員としてアジア諸国と協力しながら、国際関係の中で自分なりの役割を果たすと。そして3番目は、いわゆる国連中心主義というものがあります。
 最初の1番目と2番目のほうは、外国人でもよくわかるようなロジックで立てられたもので、特に違和感はないんですけれども、3番目の国連中心主義について、これは若干、違和感というよりも、一体何を意味しているのか、特に外国人の目から見れば非常に理解しづらい。言葉自体は、要は国連を中心にして外交政策を立てるという意味かなと思っていたんですけれども、勉強を進めるにつれて、戦後日本外交というものが、別に国連を中心に日本が外交活動を展開しているわけでもないし、日本の外交政策の中軸となっているのが、どうもアメリカではないかという、非常に素朴な疑問が浮かんできます。
 しかも、いろいろな日本人の教員とか学生に聞いても、どうも国連中心主義、国連中心という考え方自体に対して、当たり前のようにみんな思っているところがある。私はいわゆる冷戦時代の鉄のカーテンの向こう側からやってきた人間ですから、どうしてこれが当たり前だったのかということについて、どうしても理解できないということがあって、この好奇心から研究を始めたわけでございます。
 その後、いろいろ紆余曲折があって、2000年あたりにこれについての博士論文を書いたんですが、その時点ではまだ資料の公開のぐあいなんかもあって、一次資料に基づく分析が博論の中で少なくて、結局、いろいろなところで理論とかモデルとかをもってそれを補っていたという状況で、外交史の論文としては若干弱いと、いつも思っていました。
 その後は1年半ぐらい、アメリカでポスドクの勉強をやっていて、その間に大量のアメリカで公開された文書に出会って、その中で、日本の外交文書そのものではなかったんですけれども、例えば国連代表部の中で、アメリカの国連代表部と日本の国連代表部との日々の接触についての記録。これは公式な接触だけではなく、非公式のランチョンとか、あるいは個別の代表部員同士の接触に関する非常に詳細な報告が、時系列で、一応20年分ぐらいはがーっと、クリントン政権の末期になって全部出ました。しかも削除なしで、ほぼありのままの姿で出ておりまして、出会ったときはすごく興奮していました。日本側の公開資料と質的な差が歴然としたものですから、それに飛びついて、結局、博論は書き直したかのような感じで、もう1回同じテーマで書いてみました。
 実際、この原稿を書き上げたのが2002年で、最終的に出たのは2006年1月ということで、ですから、本の中でさまざまな議論がありましたが、その一部については、最近、新しい資料も出まして、若干修正する必要もあるのではないかと思って、今ちょっとアップデートしようとしているところでございます。
 本題に戻りますが、この本を書くときの、いわゆる問題意識というんでしょうか、最初の関心というものが、非常に表面的な話でございますが、要するに、冷戦期の日本外交全体をレビューしてみれば、どうしてもある種の二面性に気づいているのであります。つまり、冷戦期の国連に対する日本の姿勢というものが、片方で非常に積極的な一面があります。例えば先ほど申し上げました外交3原則の中に、これは1957年の話ですから、この時点で既に国連中心というスローガンを公式に打ち出していたと。
 さらに、日本の国連との関係を見てみますと、ほかの大国、例えばアメリカとかイギリスに比べて、いわゆる国連離れの現象が、冷戦期を通して基本的には日本の対外政策には生じなかったと。国内政治のほうを見てみますと、日本の中で、西側諸国の中で、アメリカにせよイギリスにせよ、国内に国連を擁護する勢力が確かにありました。しかしもう一方で、ものすごく国連に対して敵意をあらわにしていた反国連勢力というものが、アメリカとかイギリスの中では、それも根強く存在していたのに対して、日本には、少なくとも冷戦期を通して、非常に反国連的な国内政治勢力というものが見当たらなかったと。むしろ全般的に、世論なんかを見てみますと、どちらかといえば、国連に対して非常に好意的な姿勢、好意的な評価というものがよく見られていたのであります。これは積極的な一面でございます。
 これに対して、日本の国連政策の中に消極的な一面もしばしば見受けられているのでございます。これは冷戦期の話でございますが、例えば、ほかの先進国に比べると、国連における日本の活躍というものは、非常に目立たないもので、ある種の沈黙主義のような外交を展開していたイメージがありました。さらに、また同じ国連中心主義の話で、結局、スローガンと外交政策の実態の中で、特に国連中心主義をめぐって大きな乖離があったと。つまり、ある意味では、言葉がよくないかもしれませんが、有名無実というような印象をどうしても受けました。
 そういうふうに、国連政策の中で、積極的な一面と消極的な一面の両方、同時に存在していた中で、先行研究の中で、著者たちの姿勢、個人の価値判断とかによって、積極的な一面と消極的な一面のどっちかに焦点を当てるという傾向がありました。その結果、焦点の置き方によって、結局、全く違う冷戦期の国連政策のイメージをつくり出してしまったのではないかと思われます。
 その点を直すためには、やはり複眼的な研究の視点が必要だと痛感いたしました。しかもこの複眼的な視点というものは、正確な外交資料、外交のアーカイブスによって裏づけられているような分析でなければいけないと。そうじゃなければ、依然として表面のイメージ、違うイメージによって翻弄されてしまうのではないかと思って、結局、外交史のアプローチを使って、冷戦時代における日本の国連政策史というんでしょうか、それを再検証することにいたしたわけでございます。
 そこで、いわゆる複眼的な研究視点を取り入れようと考えておりましたが、どういう視点を取り入れるべきかという問題については、いろいろと、それもまた何度も試行錯誤をやって、結局、3つのレベルの分析に絞ることにしました。1つは、国際社会全体の国際環境、国際政治の構造に焦点を絞って、いわゆる国際安全保障という視点から、冷戦期日本の国連政策を分析すると。そして、2番目の視点は、ややレベルを下げて、今度は国際政治の構造ではなくて国内政治の構造、特に政党政治の構造の中で、この国連というものが、一体どういう位置づけだったのか検証しようとしていたのであります。そして最後に、さらにレベルを下げて、今度は構造ではなく、構造の中で活動している個人のほうに還元しまして、つまり、日本の対外政策の決定者たちが、冷戦時代において、国連とのつき合いを通して一体どういったものを求めようとしていたのかと。もちろんさまざまな政策目的があったと思いますが、その中で特に日本の国際的地位、そして国家の威信という心理的なレベルでの政策目標に焦点を絞ってやっていくことにしました。おおむねこの3つの視点から、それぞれレベルの差があるのですが、それによって、完璧に立体的な研究はおそらく無理だと思うんですが、ただ、従来の研究に比べると、よりコンプリヘンシブな分析ができるのではないかと期待して取り組んだわけでございます。
早速ですが、それぞれのレベル、それぞれの視点から、具体的にどういったものを結局見出したのかと。そして、これらの問題に対する私なりの分析はどういったものだったのかということについて、手短にご説明したいと思います。
 まず最初の、国際政治の全体的な構造から見る日本の冷戦期の国連外交という視点から、これは本の中で一番分量を占めるセクションでありますが、一応パート?ということで、4章に分けて議論を試みました。基本的には、1945年から大体冷戦終結までの政策を時系列でレビューしながら、全体的な傾向を見出そうという努力でございます。
 そこからどういった問題が提起されたかといいますと、一言で、いわゆる安全保障という視点で日本の国連外交を分析するといっても、まず安全保障とはどういったものなのかということについてある程度定義しないと、特に歴史的な資料と照らし合わせながらやっていくと、どうしても混乱してしまいます。ですから、私なりに、それも非常に単純な分け方で、おそらく政治学者から見れば、ものすごく満足のいかない分け方だと思うんですが、あえて私なりに分けてみますと、まず狭義的な安全保障というところに焦点を絞って、分析を進めました。いわゆる狭義的な安全保障とは、要するに軍事力に基づいて、国土の防衛、あるいは国益の保護とかいったものを図るタイプの、いわば一番伝統的な安全保障の側面から、まずこの国連の役割を検証してみました。
 その中で一つ気づいたのは、終戦直後――終戦直後といっても、もうちょっと正確に言うと、45年8月から47年の大体七、八月までの2年間の、外務省の内部の政策立案を見てみますと、当時、これから日本という国の安全保障をどういうふうに確保していくべきかという問題について、さまざまなオプションが議論されていたことに気づきました。いろいろな議論の中で、定番として必ず出てくる一つのオプションは、国連を中心に戦後日本の安全保障体制を立て直そうという考え方がありました。いわゆる国連安保中心論みたいなものが、今の視点で見ると非常にアンリアリスティックな考え方でございます。しかし、当時の政策担当者たちは、大変真剣にこのオプションの可能性を探究していたと言えると思います。
 ただ、この国連中心の安保論というものが、わりと早い段階で後退してしまったのであります。それはよくご存じのように、1947年に入ると、特にトルーマン・ドクトリン、その後6月になると、マーシャル・プランの発表によって、少なくともヨーロッパにおいて、米ソ冷戦という構図が、もうだれの目にもはっきりと映るようになったのであります。
 ですから、47年9月に、当時の芦田均外務大臣が、横浜に駐屯していた米八軍の司令官のアイケルバーガー中将に親書を託して、その中でこれからの日本の安全保障というものが、国連を頼りにするというよりも、むしろアメリカと協力しながらやっていくというような方針を、いわゆるこの芦田書簡の中で示されたのであります。その後、さらに政策の検討を経て、結局、1950年4月の池田蔵相の訪米によって、独立後の防衛と安全保障の問題は、基本的にはアメリカとの協力、日米協力中心にやっていくということになりました。
 ですから、その時点では、おそらく狭義的な意味での安全保障という観点で言えば、戦後日本の安全保障政策における国連の役割というものは、極めて限られるものになってしまったのであります。しかし、もうちょっとこの視点を広げて、広義の安全保障という視点から見てみますと、その後の冷戦期を通して、依然として国連というものが、日本の安全保障にそれなりの意味を持っていたのではないかと思われます。
 広い意味での安全保障とはどういったものであるかというと、本書の中では、基本的には2つの文脈でそれを論じていたのであります。1つは、いわゆる政治的安全保障。政治的な安全保障とはどういったものかというと、つまり外交交渉とか平和的な対話を通じて、国際紛争の発生をまず事前に防ぐと。あるいは、既に発生した紛争の被害を最小限に食いとどめるといった、外交的な努力を意味するものもあります。この点で見てみますと、当時の日本側の外交文書、あるいは外交官の残したさまざまな手記とか資料の中で強調されていたものは、国連というものが、見た目では弱いかもしれませんが、いざ大国と小国の間で紛争が起こった場合、大国の恣意的な行動を牽制しながら、小国の不満をやわらげるための一つのフォーラムになると。つまり、国連の場というものが、結局、一種の小国の不満のガス抜き作用を果たしてくれているんだと。その意味だけでも、国連というものは重要だという議論がありました。
 さらにもう一つの議論は、いわゆる東西のかけ橋としての国連の役割というものでございますが、こちらでの東西というと、私なりに理解すると、実際、2つの意味があったのではないかと思われます。1つは、いわゆる東洋と西洋というorientとoccidentという意味での東西ということでありますが、もう1つは当時の冷戦の文脈で、東側陣営と西側陣営の意味での東西。その両方の文脈で言えば、日本は、どっちにおいても非常に微妙な立場に立たされていたのであります。まず東洋と西洋という意味で言えば、それは明治時代以降、ずーっと日本の外交政策決定者、あるいは日本の外交の専門家たちを悩ませてきた問題で、いわゆる東と西の間に、日本は結局どっちのほうに入るべきかという問題は常にありました。
 一部の議論では、例えばハーバード大学の入江先生のお話では、要するに、戦前の日本外交の中には思想と言えるものがもしあったかというと、これはいわゆる東と西についてのものであったと。その点は、実は戦後の日本の外交政策の決定についても同じことが言えるのではないかと思われます。やはり東と西の間、東洋と西洋の間に立たされていた日本というのは、どっちのほうを向いて努力すべきかという問題がありました。そして、東西冷戦の文脈でもまた、日本は東西の狭間で身動きのとれない状況に陥っていたのであります。隣国を見てみますと、ソ連もあったし、中国もあって、そしてまた非常に不安定な北朝鮮・韓国の問題もありまして、東アジアないし東南アジアにおいて、さまざまな紛争のスポットというものがありました。
 ですから、そのとき、日本の実際の外交政策で、東西の間で、東西に対してどういう姿勢をとるべきかという問題も、現実問題として、安全保障と密接に関連していたのであります。そのとき、少なくとも政策上、あるいは理論上の一つのオプションとして、国連を通してこのような矛盾を、完全に解決することはできないかもしれませんが、ある程度やわらげると。
 そういうような動きが、確かに少なくとも1950年代の後半、つまり日本が国連に加盟した直後からありました。例えば日本が国連加盟を受諾した際、当時の重光外務大臣が国連でスピーチをしまして、その中で、日本はこれから国連外交を通じて東西のかけ橋になる用意があるということを宣明しました。そして岸内閣以降も、外交折衝とか、あるいは国会答弁とかの中で、政府の関係者たちが、東西のかけ橋と国連外交との関係について、しばしば強調されていたのであります。ですから、一種の政治的な安全保障という意味での国連の役割というものは、依然として重視されていたのではないかと言えると思います。
 さらにもう1つの意味での広い安全保障とは、政治とか軍事面ではなくて、今度は非政治的な部分で、例えば経済面とか社会面での安全保障、例えば貧困の解消とか開発援助とか文化交流を通じて、平和的な国際環境を整備すると。そういった、よりソフトな意味での安全保障という視点から見てみますと、そちらも冷戦期を通して、日本の政策担当者たちは、その点における国連の役割をかなり重視していたと言えると思います。
 特に1960年代以降、世界の隅々まで経済力によって進出しながらも、強い軍事力を持っていない日本にとって、経済とか社会面での国際環境の不安定要因を、経済的な手段をもってそれを解決しようという意欲がかなり見られていたのであります。この点で言っても、本書の中では、どちらかといえば、政治とか安全保障面に重点を置いているんですけれども、この経済や社会面での安全保障という部分での国連の役割も無視してはならないのではないかと思われます。これらの面における国連の役割への日本の期待というものは、結局、冷戦期を通して捨てられていなかったと言えるのではないかと思われます。
 さらに冷戦期、日本と国連とのつながりは、単なるグローバルレベルでの安全保障に限られたわけではなくて、むしろ国内政治のレベルでは、より密接なつながりがあったのではないかと思われます。この点を理解するには、一つ国連自身に見られる一種のあいまい性、あるいは柔軟性に注目する必要があるのではないかと思われます。これらの問題については、本書の中ではパート?の部分で、こちらも3章に分けて、第5章から第7章まで分析を進めていたのであります。
 まず、ここで第6章と第7章で立て続けに、私は結局、日本にとって――特に冷戦時代の国内政治を見ると、どうも国連というものが一種の政治的万能薬、Political Panaceaという言葉を使っていたんですが、のような存在だと見ております。これは一体どういう意味であったかといいますと、そもそも国連という普遍的な国際平和機構の理念を見てみますと、実際、この理念の中で、必ずしも何か常に一貫性のある文脈があったわけではなく、むしろ、いろいろなところで相矛盾する理念が、一つの憲章の中に含まれているというところが多いのではないかと思われます。例えば集団的安全保障と集団的自衛権の問題、あるいはグローバルレベルでの平和維持、そして地域的な安全機構。これはグローバルな平和機構としての国連の役割と、地域的な安全機構の役割の両者の関係についての規定とか、これらの問題について、どっちでも解釈できるような文言が、国連憲章の中で随所に見受けられるのであります。
 この国連という組織が、憲章に基づいてなされてきた仕事の中身を見てみますと、国連を通じてさまざまな紛争の解決が図られていたのでありますが、しかし、そこで見られている国連の姿勢というものが、決して一つの何か論理的な一貫性を持つ精神に基づいて、一貫した姿勢で国際紛争の解決に臨んでいたのではなく、むしろ外交的な駆け引きに基づいて、妥協できるところまで目いっぱい交渉して、最終的にはほどほどのところで妥協して、何らかの暫定的な合意とかが成立して、その積み重ねによって、最終的に何らかの形で問題が解決してきました。つまり、妥協の産物ということであります。その意味でも、国連を通じる外交というものが、政府を通じる外交と同じように、結局、一種の妥協の芸術というんでしょうか、外交的な駆け引きに基づく妥協の産物であるといえます。
 ですから、この国連憲章をはじめとする、いわゆる国連精神、あるいは国連理念の中では、必ずそういう、悪く言えばあいまいな部分、よく言えば柔軟な部分が、非常に目立つわけでございます。そして、これらの部分は、実際、国連自身の仕事の中だけではなくて、例えば日本のような関係国の国内政治の中でもそれなりの役割を果たしているのではないかと私なりに解釈しておりました。
 この文脈で日本の国内政治に立ち戻って、2つだけ例をここで取り上げてみますと、例えば冷戦期を通して、日本国内政治の中で、常に争点となったのは、やはり安全保障問題であって、与野党の間でどうやって国を守るかという非常に根本問題について、全然違う理念に基づいて、違う方向へ議論が平行で進んでいたのであります。しかし、このような、一見、全く妥協できない与野党双方の安保論争の中で、一つ共通点みたいなものが見出せるのであります。それはどういうことかというと、与野党双方が、国連憲章や国連精神の中で、みずからの政策を正当化する根拠を見出していたのであります。
 例えば自民党のほうは集団的自衛権、つまり国連憲章51条ですね。集団的自衛権に関する国連憲章の条文と、そして日米安保条約と直結させる方法をとって、それによって日米安保体制を正当化しようとしていたのに対して、社会党も社会党で、逆に国連憲章第1条に見られる、紛争の平和的解決を訴える部分をとにかく強調して、それをもって自分の非武装中立政策の理論的な根拠としていたのです。ですから、どっちも結局、国連の中からお墨付きみたいなものを見出せるといったところがあります。これによって、実際は、国連を利用するという点でいえば、それは両方にとってWIN-WINゲームであります。
 もう1つ、同じ冷戦期のケースでありますが、対中政策、つまり中国との関係をどうすべきかと。これは国交回復前の話で、自民党の場合は、みずからの対中政策、つまり台湾の国民党政権を承認して、北京の中華人民共和国政府と国交樹立はしないという政策を正当化するために、しばしば使われていた根拠の一つは、中国が国連に加盟していないという点であります。しかも、中共が1952年の国連総会で侵略国と認定されており、この事実を日本としては無視してはいけないと。ですから、北京が国連と敵対関係にあった以上、日本としては当然、国連の一員でもあって、安保理常任理事国の席も持っている国民党政権と国交を持つべきだという論法です。これは日本の、国連中心主義という三本柱の中の一つとも合致する姿勢であるというふうに論じていたのであります。
 これに対して社会党は、逆に国連の普遍性の原則を掲げまして、国連は常にすべての国に対して門戸開放と。にもかかわらず、当時は7億の中国大陸の民を抱えている、世界で最も人口の多い国に対して、国連のドアを閉ざしてしまうと。そのやり方自体はおかしくて、日本はそれを支持するとすれば、これは国連憲章違反じゃないかということで、また同じ、国連から社会党の対中政策を正当化する一つの根拠を見出したのであります。
 しかも非常に興味深いところですが、中国との国交正常化の一部始終を見てみますと、結局、転換点はどこにあったかというと、確かに時期的にはニクソン・ショックの直後だったんですが、ニクソン・ショック自体は決定打にはならなかったんです。つまり、ニクソン・ショックの後でも日本政府は対中政策は変わらなかったからです。依然として台湾の国民党政権を支持し、国連の中でも国民党政権の席を守るという姿勢を貫いていたんです。ただ、がらっと変わったのはいつかというと、その3カ月後の10月25日、中華人民共和国が今度は国連に入って、国連の一員と認められるようになった次の日、佐藤内閣が公式声明を出して、北京は既に国連の加盟国になった以上、日本としても中国との国交回復に向けて、これから積極的に準備を進めるようになるというふうに、公式の発言をしたのであります。
 では、なぜこういうふうになったかというと、実際、1964年3月に、ちょうどフランスが中国を承認した直後で、日本もかなりショックを受けていたんですが、これに関する国会答弁の中で大平外務大臣は日本自身がどういった時点で中国と国交を回復するかというと、中国が世界大半の国々の祝福を受けて国連に加盟することができたら、日本も対中政策を考え直す必要が出てくるかもしれない、ただ、今は国交を回復しないと発言しました。この大平発言は、佐藤内閣にも踏襲されまして、実際、佐藤内閣は、この大平発言によって示された手順と全く同じような段取りを踏んで、対中政策の転換をやったのであります。その意味では、確かに対中政策については国連中心と言えるかもしれません。
冷戦時代は実際、このようなケースがほかにもたくさんありましたが、そこからやはり、国連と日本の内政との間に一種の非常にユニークなつながり、きずなみたいなものが生まれてきたことは、大変興味深い現象ではないかと思われます。しかも、国連のいわゆる柔軟性というものが、結局――柔軟性というか、あるいはあいまい性というんでしょうか、それは国内政治だけではなくて、心理的な意味でも、日本外交における国連の重要性を高めたのではないかと思われます。これはすなわち第3の視点で、パート?のところでございます。
 国際的地位との関係についての国連外交の意味を、簡単にご説明してみたいと思います。こちらも国連システムにおける一つの矛盾点というんでしょうか、あいまい性というんでしょうか、そこから生まれた議論であります。つまり、よくご存知のように、国連システムの中に、2つの相矛盾する理念が併存しているのであります。それは今も変わらないと思います。つまり、片方で大国中心主義というものがあって、もう一方で国際的民主主義とも呼ばれる部分があるんです。
 まず国際民主主義とはどういうものであるかというと、要するに1国1票ということで、どんなに小さい国でも1票があると。アフリカの中で、いわゆる国連の予算の中で0.01%とかしか払えない国も1票持てる。そしてアメリカも1票しか持たないと。それは国連総会、そして国連総会の下の各委員会、あるいは主要理事会の理事国、その中では安保理の非常任理事国も含まれているのでありますが、これらのポストは、すべてこの1国1票のルールに基づいて、民主的な選挙によって選出されるのであります。つまり、小国でも安保理の理事国になろうとすればチャンスがあります。民主主義的なルールでできます。それは、いわゆる国際民主主義的な部分であります。
 しかし、これと同時に平和維持機構、あるいは国際平和機構としての国連の中軸となる部分、中枢となる部分、安全保障理事会の中で、常任理事国制度というものもありまして、そちらは選挙なんか全くなくて、最初からP5、5つの国が、常任理事国という身分が与えられまして、それによって多くの特権が付与されております。しかも全般的な安保理の中での協議は、基本的にはこのP5を中心に進められているのであります。その点でいえば、まさに大国中心主義的なやり方であります。かつての国際連盟の理事会の中ではそういう常任理事国制度はなくて、みんな1国1票で、しかもコンセンサス、全会一致の意思決定の仕組みがあったので、小国も大国も、連盟の理事会の中で1票を持って、みんな拒否権を持っていました。これは非常に民主的なやり方なんですけれども、これに対して、国連安保理の場合は、その点でいえば、必ずしも民主主義的とは言えなくて、むしろ大国中心主義的な存在となってしまったのであります。しかも、この2つの理念、ルールは、国連システムにおいてあたかも車の両輪のように働いておりまして、非常に巧みなバランス関係がそこから生まれておりまして、加盟国間の力の均衡を維持してきたのであります。
 これに照らして、じゃあ日本の国連外交、特に日本の国際的地位との関係で、この文脈で、大国中心主義と国際民主主義という文脈で見てみますと、非常におもしろい現象が一つ見出せるんではないかと思います。つまり、戦後初期の日本にとって、国連加盟というものが非常に重要な課題で、これは特に1952年のサンフランシスコ平和条約が成立した後、ますます日本外交の中の至上命題のようになって、一日も早く国連への復帰を果たさなければならないということで、国連加盟というものが非常に重要な課題となっていました。その背後には、やはり国際社会への復帰、つまり国際社会において、再びほかの国々と肩を並べるような立場に戻り、平等性を主張しようとしていたんです。そして、国連加盟を果たした後でも、しばらくの間、国連の重要な選挙、特に総会のもとの各委員会の選挙の中で、かなり積極的に立候補して、いろいろな席を獲得しようとしていたんです。
 最近解禁されたこの時期の日本外交の文書なんかを見れば、しばしば文書の中に、国際民主主義という言葉が出てくるんです。この言葉は、最近の日本の公式文書の中ではほとんどもう死語になっているようなもので、国際民主主義という言葉はなかなか出てこないんです。しかし50年代、少なくとも60年代の前半までは、時々この言葉が出てきます。国際民主主義と国連との関係云々、非常に強調されていたのであります。しかし、この姿勢が微妙に変わり始めたのは60年代の半ばごろからであります。つまり、その時点から、日本はもう経済大国になりつつあって、平等な地位のみならず、より高い国際的地位を求めるようになったのであります。
 そして、一つのシンボルとして、安保理の常任理事国のポストというのが非常に重要になってきたわけでございます。特に例えば、1967年だと記憶しておりますが、当時の鶴岡千仭国連大使、赴任直前の外務省内での記者会見の中で、日本の国連大使として初めて、公式の場で、自分の国連大使としての使命の1つは安保理常任理事国入りだということを明言しましたが、私はこれは非常に重要な発言だと思っております。実際、鶴岡大使は在任中、アメリカの大学とかでの公式演説の中でも、この常任理事国入り問題を取り上げていたのであります。
 そしてその二、三年後、愛知外務大臣のとき、日本の外務大臣として初めて、国連の総会での演説の中で、明言はしていなかったと思いますが、一歩手前の感じで、日本は実際、安保理常任理事国入りを目指しているというような発言をなされたと。アメリカ側で公開された文書を見てみますと、国務省の記録によれば、日本からそういう安保理常任理事国入りについてのアプローチをされたのが1956年が最初だったということですが、どういったきっかけでこういう接触があったかは、ちょっとまだ不明であります。
 このような安保理常任理事国入り問題が、日本の国連外交の中で非常に重要な一つの地位を占めるようになったのが、1970年前後だと思われます。この時期から、アメリカとかの文書の中で、かなり具体的に、安保理常任理事国入り問題についての日本側との交渉の記録が出るようになったのであります。それ以降、1970年代全般を通して継続的に、日米の間で――そして、イギリスの外交文書にも出ております。私はフランス語は読めないんですけれども、おそらくフランスとかのほかの常任理事国との間でも、同じような交渉がなされていたのではないかと想像しております。
 ですから、その時点になると、むしろ50年代の国連加盟運動のときと比べると、70年代初等の安保理常任理事国入り問題の提起に至る日本の政策というものは、ある意味では日本の国連外交の一つのウエートの置き方の変化、シフトがその中から見られるのではないかと思われます。つまり、最初は国際民主主義、平等ということを強調しているんですけれども、次第にむしろ大国中心的な一種の国連観というか、国連認識というか、そういう方向へ次第にシフトしていったと言えるのではないかと思われます。そしてその背後には、国力の増強とそれに付随する、国際政治における日本のウエートの変化があったのではないかと思われます。
 長々と、まとまりのない話で恐縮でございますが、最後、結論として、このような3レベルに分けて見てきた冷戦期の国連外交の中から、一体何が言えるのかといいますと、簡単に一言で申し上げますと、冷戦期の国連に対する日本の姿勢というものは、政治や安全保障だけではなくて、かなり幅広い要素によって規定されていたと言えると思います。幅広い要素によって規定されたから、冷戦時代において、国際平和機構としての国連の無為、無策というものは、直ちに日本を国連離れの方向へ向かわせたことはなく、むしろ日本は、常に一定のレベルで、対国連協調の姿勢を維持することができたのではないかと思われます。
 しかし、これらの幅広い要素の中で、国連の本来の使命と直接関係のないものも一部ありまして、それは逆に、冷戦期日本の国連外交に一種の不安定要素ももたらしてしまったともいえます。不安定な一面とはどういうものであるかというと、例えば冷戦期の国連外交を見ても、日本は国連の中でさまざまなポストを獲得することには、非常に熱心でありました。しかし、地位の獲得には熱心でありますが、獲得した地位をどういうふうに有効に使うかと、この点ではなかなか消極的で、要は、選挙で勝った後は、また沈黙に戻ってしまうというところがあります。そして、国内政治との関連が比較的薄い問題に対しては、国内の関心も薄くなってしまって。あるいは、場合によっては無関心ないし消極的な姿勢をとるようにもなってしまうという、不安定な一面ももたらしてしまったのではないかと思われます。
 非常にまとまりのない話でございまして、以上、私の報告とさせていただきます。ありがとうございました。


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