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プロジェクト
日付
2008/7/3

2008年度第2回国連研究プロジェクト研究会

2008年度第2回国連研究プロジェクト研究会(議事録概要)
「『オーラルヒストリー 日本と国連の50年』を読む」



(研究会議事要旨)冒頭、潘氏(筑波大)、坂根氏(東大)、蓮生氏(大阪大)の3名より、『オーラルヒストリー 国連と日本の50年』についてコメント報告。ここで扱われたのは、第6・7章(潘氏)、第5章(坂根氏)、第4章(蓮生氏)の計4章。

続いて本書の編者である大芝・一橋大教授と書評を書かれた井上・学習院大教授を交えて出席者全員で自由討論。主な議題は、1980年代の国連行財政改革の背景、調達改革、人材登用、安保理改革などの諸課題、また本書の成り立ちについて幅広く議論。




1.出席者:
北岡伸一(主任研究員)、秋山信将(一橋大学大学院法学研究科/国際・公共政策大学院准教授)、井上寿一(学習院大学法学部長)、大芝亮(一橋大学大学院法学研究科長)、小澤俊朗(内閣府国際平和協力本部事務局長)、坂根徹(東京大学大学院、日本学術振興会特別研究員)、鈴木一人(筑波大学人文社会科学研究科准教授)、滝崎成樹(外務省国連政策課長)、中谷和弘(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、蓮生郁代(大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授)、潘亮(筑波大学人文社会科学研究科専任講師)、福島安紀子(国際交流基金特別研究員)、細谷雄一(慶応義塾大学法学部准教授)、相原清(東京財団研究員)、関山健(東京財団研究員)、都築正泰(東京大学大学院法学政治学研究科)

2.日時・場所: 5月23日18:30~21:00、東京財団A会議室

3.報告者:潘亮(筑波大学)、坂根徹(東京大学)、蓮生郁代(大阪大学)

4.配布資料:
『日本と国連の50年』書評(日本経済新聞2008年4月27日朝刊)、「『オーラルヒストリー 日本と国連の50年』書評(第6、7章)」(潘氏報告レジメ)、「『オーラルヒストリー日本と国連の50年』の国連行財政改革-調達改革とマンデート見直し-」(坂根氏報告レジメ)、「『オーラルヒストリー:日本と国連の50年』-松浦晃一郎・ユネスコ事務局長-」(蓮生氏報告レジメ)

5.コメント報告
(1)潘氏(第6・7章):
1983年から1988年までは冷戦が終結に向かった時期。国連のなかでは冷戦の継続を示す出来事とその次の時代を予兆する出来事があった。そのなかで日本の国連外交の政策決定者たちがどのように行動したのかがこの二章では示されている。それがどのようなものであったか、具体的な事例3点に沿って若干の感想とともに述べたい。

まず、第一に、1983年の大韓航空機事件。中曽根総理の判断で自衛隊が傍受した交信記録をアメリカ側に渡したことが象徴的であったように新冷戦と呼ばれる時期に日本が西側陣営に立って国連のなかで行動したことを示す。

第二は1980年代の国連の財政危機。この引き金となったのは、一連のアメリカ議会の法案(83年のカセバウム修正案、85年のグライム・ワートメントアーツ案)。これは国連が改革をしない限りアメリカの拠出金を大幅にカットするというもの。この動きを当時レーガン政権が後押し。また当時、ソ連もPKOの不払いがあり国連はかなり借金状態に。

このなかで当時いろいろな選択肢があったが、日本は行財政改革に積極的に関与する姿勢をとった。賢人会議の設置はその例。国連創設40周年の85年の総会での安倍外相の演説は国連の失敗を非難する厳しいもの。日本が国連の改革やその存続について積極的に関与したのはこれが初めて。

第三は、1980年代に顕著となる南北問題における日本の態度の変化。60年代と80年代を比較してみるとUNCTADにおける日本の姿勢には変化がみられる。60年代では南と北の間でバランスをとることを重視、しかし80年代になると北側の一員として南側に対峙していく姿勢に。その他に南南問題、特にイランイラク戦争の調停に日本が尽力していた点も特に指摘される。

(2)坂根氏(第5章):
本発表は3部構成である。先ず、?担当の第5章「国連活性化と行財政改革」の解説とポイントの指摘を行う。その後、行財政改革の具体例として、?調達改革、?マンデートの見直しを取り上げ、自身の研究などを基に報告する。

行財政問題は、国連の屋台骨で、国連の活性化に非常に重要。1985年に始まる国連行財政改革のための賢人会議は、日本提案による行財政改革の試みであり、具体的な進捗が見られた。その後高須大使は、国連財務官として、94-95年予算成立や、PKO予算改革・財政運用の改善に尽力。2期にわたるアナン事務総長は、国連改革を推進したが、大胆さに欠け身内に甘いという課題もあった。最後に、事務局の問題点と日本の課題について述べられている。

第5章のポイントは次の三点。(1)行財政改革の意義・位置づけが明確にされている。(2)1985年から2006年までの20余年にわたる行財政改革の推移・史的展開が把握できる。ここから改革の焦点の変化や多角化が読み取れる。(3)改革の推進あるいは阻害の重要要因を種々伺い知ることができる。

調達改革の重要性は、高須大使の就任時の発言やアナン事務総長の2006年3月の報告書「国連への投資」からも分かる。2005年には、通常予算約18億ドル、PKO予算が約47億ドルに対して、調達が約16億ドル。主要な調達品目の内訳はPKOオペレーション用が多い。主要な調達先上位10カ国には日本は含まれていない。日本の財政貢献度と比較して相当低水準で推移。

調達改革の開始は冷戦後のPKOの急増やアメリカの関心などが背景にある。1994年の総会決議、独立委員会の設置、翌年の事務総長報告書以降、10年以上にわたって続いていること自体注目に値する。アナン事務総長前/中期における成果としては、(1)中央調達部局の設立、(2)システム契約など調達方法の工夫、(3)業者登録の更新とそれに基づく入札の徹底などが挙げられる。調達改革の転機は、石油食糧交換計画や本部調達における不祥事・疑惑の発生であった。これらによって調達改革の内容はかなり変化。具体的にはアナン事務総長後/末期の成果として(1)調達監査・査察の充実、(2)人員の充実、(3)業者からの便宜供与の禁止や行動規範策定などが挙げられる。今後の調達行政改革における主要な課題としては、(1)途上国等からの調達増加要求への対応、(2)競争強化と透明性の確保、(3)更なる不正防止策・体制の充実などが挙げられる。

国連でのマンデート見直しとは、総会、安保理、経社理の決議に基づく活動で5年を過ぎたマンデートを見直すこと。2005年9月の国連首脳会議の成果文書で改革実施に合意。マンデートの総数は、総会全体で7千程度、それに安保理、経社理までいれると9千程度(2005年頃の情報)。マンデート見直しの意義は、環境・課題・ニーズの変化のなかで、限られたリソースをいかに効率的、効果的に配分するかにあるが、加盟国間の利害対立(日米等が積極推進に対して途上国はマンデート削減の警戒などで反対が強い)や、2006年6月のアメリカの立場変更もあって十分進展してこなかった。2008年には、クラスター分野ごとの見直しという手法が開始され、人道クラスターの具体的な見直しがなされてきた。マンデート見直しの一つのアプローチとして、「マンデートの設立、実施に不可欠な財源等資源の確保、履行、活動評価、フィードバック」という、マンデートサイクル全般にわたる見直しもありうると考える。

(3)蓮生氏(第4章):
報告を次の二点から行う。第一は松浦事務局長のもとでなぜユネスコが行財政改革に成功したのか。第二は規範形成分野でのユネスコの復権について。一般に松浦氏の業績にはマネジメント改革の成功と、アメリカのユネスコ復帰の2点が挙げられるが、それに加え第3の柱として規範形成分野でのユネスコのリーダーシップの復権を挙げたい。

<第一の点:松浦事務局長によるユネスコの行財政改革成功>
これについては、改革手法の観点から、それがトップダウンであったか、それともボトムアップであったかという点からコメントしたい。就任当時、松浦氏は次の3つの緊急課題に直面していた。すなわち、(1)事務局のミス・マネージメント、(2)プログラムの拡散、(3)在外事務所の強化。これらの課題に取り組むために、二つのアプローチが選択肢としてあがってきた。一つは、いわばトップダウンのアプローチで外部からコンサルタントを導入するという案。もう一つは、内部の不満を考慮したボトムアップのアプローチ。当時人件費削減や降格・解雇などによる内部の不満が高まっていて、新事務局長就任直後には管理職クラスの職員のハンガーストライキが発生。

松浦事務局長が実際に行ったのは、トップダウンとボトムアップの両方の折衷のアプローチ。トップダウンとしては、民間のコンサルティングファームへの外部監査の委託が財政上無理であったため、前任のマイヨール事務局長時代、ユネスコが対立していた国連システム内の外部監査(JIU)を受け入れるという形で対応。また、ボトムアップしては、事務局内部に課題別のタスクフォースをセットアップし、事務局員が改革案に対しownershipをもてるように配慮した。ただし、実際は、改革案に関しては、松浦事務局長自身が当初から明確な青写真を持っており、それに対する水面下での誘導が継続して行われていたのが、改革成功の最たる要因というのが私の所見。

<第二の点:規範形成分野におけるユネスコのリーダーシップの復権>
前任のマイヨール氏が国際的なフォーラムとしてのユネスコの機能を重視したのに対し、松浦氏は就任時から実質的な成果を重視するスタイルを導入。規範形成分野における松浦氏の功績としては、無形文化遺産保護条約の締結が挙げられる。この条約は、規範形成条約としては異例のたった2年という超短期間で、ユネスコ総会の採択までこぎつけている(2001年1月の総会で正式な準備が始まり、03年秋の総会で採択)。普通は6年かかり4年でも早いと言われる。

なぜ無形文化遺産保護条約が2年という短期間で締結されたのか。当然、信託基金の設置などの日本政府からのサポートが常にあったことが根底にあるが、松浦事務局長自身のリーダーシップと戦略の果たした側面も大きい。松浦氏の戦略は次の2段階。まず、条約自体はフレームワークを示しただけのものを用意し、採択させることを最優先させた。しかし、それだけでは規範は実質的に広まらないので、第2段階の手段として、条約の実施推進のための詳細なガイドラインを作り、規範形成の促進を細やかにサポートした。この戦略によって異例の早さで条約が総会で採択され、また発効までの期間も非常に短かった。条約のメカニズムは、発効によって初めて実際に稼動し始めるわけであるから、非常にうまいサイクルを創出したのではないか。


6.議論
(1)1980年代国連行財政改革の背景
(北岡)1980年半ばに日本が国連行財政改革のイニシアチブを積極的にとるようになったそのドライビングフォースはどこにあったのか。

(潘)外務省自身に顕著な政策転換が見られた。ソ連の姿勢の硬化など国連内部の変化を当時の外務省がある程度察知しており、それに乗じて何か変革を起こそうという機運があった。当時、外務省内で竹下内閣の「(国際協力構想)三本柱」構想立案を主導した村田良平氏を中心とする一種のタスクフォースが参事官レベルで設置されていた。また、1979年4月の時点ですでに省内で安全保障政策企画委員会が設置され、その枠内でPKOへの人的貢献の可能性についての議論が行われていた。

(小澤)この竹下内閣の「三本柱」は画期的であった。人的な面も含めて日本が平和に貢献するという点で。そこで視野にあったのはPKO派遣法。1987年ごろは気合が入っていた。この内閣で打って出るのだという機運。

(2)安保理改革3分の2賛成要件の総会決議
(北岡)『日本と国連の50年』の276ページ、佐藤大使の時に安保理改革に関する問題はすべて加盟国3分の2の賛成で決めようという総会決議案が通ったとあるが、なぜこのようなルールが易々と決まってしまったのか。これは一種のミニ憲章改正であり、また2005年の安保理改革において大きな障害となった。あらゆる手段を使えばこの決議採択を阻止することは可能であったはず。本省のミスではないか。

(小澤)これはラザリー提案が失敗に終わったことでショック状態に陥ったことに原因があろう。決議成立を阻止することは可能であったはずと思われる。しかしそれは決意次第であって、あの時点ではその決意はなかった。この決議案の原案を作ったのはイタリアで、常駐代表のフルチは当時一生懸命に画策していた。この決議はコンセンサスで採択され、日本は投票要求すらしていない。

(北岡)反対運動をしていれば、少なくとも議論は紛糾して投票に持ち込んだはずだ。かなりの数の棄権が出て、この決議は否決できたであろう。

(3)国際法研究上の意義
(中谷)国際法の観点からも、このオーラルヒストリーは非常に興味深い。なかなか公式文書ではわからないことが明確になっている。たとえば、小和田大使の章で言及されている安保理決議1154の成立過程など。このような国際法上の問題について当事者からのオーラルヒストリーで公表された事実は、安保理決議や条約の解釈・適用の証拠として直接引用することが可能となり、有用である。

(4)国連調達行政の実態と諸課題
(中谷)国連の大口の調達先国のなかで、第6位にモナコが入っているのはなぜか。

(坂根)この点について掘り下げて見ていないが、確かに非常に興味深い点。基本的に大口の調達先国の構成は、欧米諸国を中心としたPKO運用の一端を担える諸国と、またフィールド調達・現地調達もありPKO受入国が大半である。イタリアが5%という点はそれ自体PKOの実施能力を示しているがブリンディッシにPKOのデポがあり、ロジスティクス上も貢献している。

(関山)国連の調達は、国際競争入札かそれとも随意契約か。

(坂根)基本的には国際競争入札。事案によっては随意契約も結構ある。昔は随意契約が多かったが、近年は調達改革の流れのなかで競争入札が増えている。

(関山)調達先国のなかでアメリカが占める割合が極めて大きい。この内訳は何か。

(坂根)アメリカはPKO関係で大口の調達先となっているが、ニューヨークに国連本部がありいわばホストカントリーである点も効いている。調達には、物資の調達だけでなく、サービスの調達も含まれる。最近ではたとえば老朽化している国連本部ビル改修関連の受注は、ほとんどがアメリカの業者。地の利を生かしているという面がある。

(関山)日本からの国連調達が低下傾向にある理由は何か。また日本からの調達を増やすための方策はあるのか。

(坂根)1999年は8.5%と結構大きかったが、この理由はPKO特需のなかでトヨタを中心に車両の調達が一挙に増えた。しかしこれは一過性のものでその後低下傾向。車両の交換時期にはまた増加するかもしれないが。調達増加については、車両以外の幅広い物資・サービスを通じた貢献の余地がありうる。

(関山)アメリカのトヨタから車両を調達する場合、それはアメリカの調達に計上されるのか。

(坂根)そのとおり。トヨタからの調達には基本的に二通りあって、一つはエクスファクトリーといって日本の工場からの出荷で、これは日本からの調達として計上される。もう一つ大きいのは、ジブラルタルにトヨタのデポがあり、これは日本のカウントにならない。

(小澤)ランドクルーザーは国連で相当人気が高く、トヨタが企業努力をする以前に国連側から接触していて、その調達で日本が潤っているというのが実態。外務省としては、日本の企業が幅広く国連調達に関心を持たないことを問題視していて、例えば医薬品業界にユニセフの調達にもっと関心を持ってほしいと説明会を開催するなど本省の課長がこれまで創意工夫をしてきている。

(北岡)調達先を決定するのはSRSGの裁量であるが、そこに日本は入っていない。そのことも日本からの調達が少ないことに多少影響しているのだろう。

(5)国連行財政改革の契機・動因
(小澤)ユネスコと国連を比較してみて、前者では行財政改革が困難ではあるが成功しつつあるのと対比して、後者ではなかなかうまくいかないといわれる。この点についてどのように考えるか。

(坂根)行財政改革がどのような要素で進むのかという点は非常に重要。事務総長の関心や手腕・能力等、加盟国の関心や態度に加えて、例えば高須大使も言及されているように、危機があると改革は進む傾向にある。日本とアメリカがマンデートレビューを推進させるために2006年の予算執行権限を半年間しか認めなかったというのも一種の危機の創出であった。

(北岡)確かに危機がないと改革は進まない。アメリカは加重投票やサンセット法案を提起するが、これらのアプローチは過半数の支持を得ることが困難で必然的に失敗する運命にある。しかし2006年6月にアメリカが突然態度を変更したことには驚いたが。

(小澤)マンデートレビューをアメリカが推進したい理由は2つある。一つは単純に増大したマンデート全体の総数を減らし、非効率な事務局の運営を是正することであり、日本もこれには賛成している。もう一つは、人員も多く予算も豊かなパレスチナ関連のマンデートを縮小することでこれが隠れたねらい。しかし事もあろうにアメリカの次席代表はこれを公に話してしまったので、マンデートレビューが進まなくなった。

(6)本書の成り立ち
(北岡)『日本と国連の50年』の成り立ちについて伺いたい。

(大芝)2006年2月から8月、約半年かけてヒアリングを行った。その聴衆は基本的に研究者と国連詰めを経験しているマスコミの人で固定していてクローズドな形で聴取をおこなった。事前に10点程度の質問項目を伝えておき、それについて最初に話してもらい、不足している部分についてはその後の質問で補った。各大使の個性の違いがあって、リタイアしたので自由に話してもいいと考える方とリタイアしても守秘義務があり外務省のチェックを入れた方がいいのではないかと考える方もいた。しかし、これによってせっかく自由に話してもらったことを削除することになりかねなかったが、外務省として一応内容をチェックするが最終的に掲載するかどうかはこちらに任せるということになった。大抵の方はチェックがあった箇所も削除しないようにとのことでそのまま掲載した。

(7)人材登用の諸課題
(大芝)本書は『日本と国連の30年』の続編としての性格があるが、歴代の国連大使のみならず国連で活躍してきた日本人も扱いこれを第?部とした。これは30年と50年の大きな違いであり、日本の国連外交も随分活発になってきたという印象を持っている。しかし、20年後に出版する場合、50年にある第?部はないかもしれない。
他の国と比較すると、国連で非常に高いポストを取るときに、向こうは外務大臣経験者など政治家が出てくる。日本はこれに対する戦略が必要で、ポリティカル・アポインティーのあり方が検討されるべきである。

(秋山)最近国際機関のトップの選挙で日本があまり勝てないという印象があるが。

(滝崎)勝てないわけではないが肝心なところまで行かない。P5の国は政治家を出さなくても国連本部でポストをとることができるが、これは例外。非P5の国から大臣経験者が出てくると、局長ぐらいしか経験していない日本の候補はこれに太刀打ちできない。政治家に国連システムに入ってもらうような仕組み、あるいは政治家をやめた後に国連の高官になる可能性もあるのだと政治家に知ってもらう必要がある。

(小澤)ある民間出身の閣僚経験者に国連システムに入ってもらうことを考えたことがあるが、なかなかうまくいかなかった。現在落選中で国連システムに関心の高い方もいるが、おそらく再選して議員に戻られるであろう。

(細谷)ヨーロッパの場合、与野党政権交代があって下野した政治家、特に首相や外相経験者が国際機関トップに就くことがある。ヨーロッパは国際機関の数が多いから、色々なかたちでポストに就くことが可能だ。国際機関のトップを経験した政治家はその運営に精通しまたそこで信頼関係も構築できる。日本にとってはこのような機会に相当するものはあまりなくそれが非常に大きな欠点。

(北岡)だからいきなり高い地位をねらうのは難しくまた下からも難しい。ASGあたりで優秀な女性外交官を入れるという方法が妥当ではないか。

(滝崎)日本から要職に人を出す場合、その人を外務省は組織をあげて支える。一つ室を作ったり、その機関に補佐官など出向者を出したり。こういうことを前提とするとポストを取ることに政策的考慮から慎重になってしまう面がある。

(秋山)選挙キャンペーンの期間に限定して候補者を一時的に外務審議官に任命するのはどうか。

(滝崎)ポストの数は法律で決まっているのでその間誰かポストを外さなければいけなくなる。一番簡単なのは首相補佐官、副大臣、補佐官など政治任命のポストに就けることかもしれない。

(8)安保理改革
(北岡)『日本と国連の50年』のなかで、安保理改革について国民世論が十分に熟していないことが非常に大きなハンディであると指摘する大使がいたが、それについてどのように考えるか。

(滝崎)現在では日本が常任理事国になってしかるべきだという世論は広く形成されている。時代が変わったと思う。

(北岡)無関心な国民世論があるのはある程度やむを得ない。日本の常任理事国入りを政治家間の個人的対立のなかであるいは憲法問題で反対する動きがあるが、それに対して日本の発言力を増やすためだ、何が悪いと主張すればよい。あともう一点気になったのは、大島賢三大使の章で安保理改革を「ミドルパワーの戦い」と言っていた点。私自身はこの表現に反対であり、当時大島大使はこんな言葉を使っていなかった。自分でミドルと言ってしまうと、国際社会では自分で小国だと言っていることを意味する。

(小澤)G4案決議を通していくときに、P5と非G4国の間でのせめぎ合いのなかでどう上と下と付き合っていくのかという意味でのミドルパワーという意味と理解している。

(大芝)要するに、ミドルから抜け出そうとする国のなかで足の引っ張り合いをしているという話で、ここでは国際連盟のときの話もあった。

(細谷)大島大使の章のなかで、ハイレベル委員会で安保理改革のオプションAとBの二つのなかで後者が優勢であったとの記述があったが。

(北岡)放っておけばオプションBのみになっていた。それを阻止するべく猛烈に働きかけて両論併記にさせたが、結果的にそれが良かったかどうかはわからない。オプションAで行くと主張してG4を結成したわけだが、それがどういう提携なのかというのが問題。我々はワン・ステップでやることに反対し、枠組み決議を通じて投票は別々だと主張した。しかし結局、決議を通すときにはやはり同盟を作って運動することになる。一国でも賛成を増やしたいから強固な連帯となるわけで、いったん運動が始まると舵を切るのはなかなか困難であった。

(小澤)しかしかなり脆弱な運動体でもあった。4カ国のなかでお互いに批判し合っていた。

(大芝)G4アプローチのなかで、対米、対中についてどのように対応していたのか。

(小澤)対米については、単に行政府のみではなく議会との関係も重視した。また、対中について困ったのは総理の靖国参拝であった。

(北岡)2004年の時点では中国は日本の常任入りに絶対反対とは決めていなかった。2005年の正月に総理が靖国参拝したことでその後中国が反対することになった。要するに、トップが戦略的に考えてこれをどうしてもやる、そのためにはほかの事は従属的に考えるという決断をしなかった。しかし当時の総理が自身でG4の枠組みを主導したのであったが。

(井上)波多野大使の章で国連は安保理がすべてであるという見解があったが、今日冒頭の3名のコメント報告では、安保理とは直接には全然関わっていないテーマが中心となっていた。この対比が非常に興味深かった。現在の状況は1930年代と似ている。当時の日本では、国際連盟離脱後に連盟をどう改革するのかを論じている。離脱しているのだから別に改革も何もないだろうと思うが、国際連盟を変えてもう一回戻るぞと議論している。それが今とすごく似ている。要するに、安保理がすべてであるという見解がある一方で、安保理を懐疑的に見る視点がある。

(鈴木)リアリスト的な視点、要するに国連は大国の政治バトルの場でありそこでの中心はやはり安保理である。そこには情報も権力も集中していてだからそこにとにかく入らなければならないという視点。その一方で、いや国連はいろいろなことが可能であって、そういうところで地道に頑張ることが実は日本の国連外交であるという視点。この2つの視点のなかでどこにコンセンサスがあるのだろうかとこの本一冊を通じて考えさせられる。

(北岡)今日の3名の報告者が安保理以外の話をしたと指摘があったが、80年代半ばの日本の行財政改革の努力というのも、いずれそれをレバレッジにして安保理につなげたいという考えがあってのことではないか。今、エンクローチメントという言葉があるが、人権など安保理は以前よりも何でもやるようになっている。もし日本が何かやりたいことがあるのなら、安保理にいることはすごい近道である。幸か不幸か日本は安保理に手が届くぐらいのサイズである。斜に構えて総会でファシリテーターや副議長をやるというのもあるかもしれないが、日本以外の国が常任になりそうだときいたら、日本人はこれを看過できないだろう。