タイプ
論考
日付
2008/5/20

私のグローバル化論「現代中国の建設:改革開放30年間の歴史とその見通し」

呉敬璉
中国国務院発展研究センター研究員
(本稿は、2008年4月に開催された連続シンポジウム「グローバル化時代の価値再構築」第5回「市場原理と中国経済」でのスピーチ原稿の再録である。) (原文は中国語。)

中国の改革開放はプロレタリア文化大革命(以下、「文革」と略す)の終了とともに1976年から始まった。 

1. 存亡をかけた努力:「手探りで川を渡る」(1978-1983)

1950年代中期、中国は「スターリンスタイル」をモデルとする経済と政治体制を確立し、短期間に裕福な強国たる中国を建設しようとした。1950年代後半にこの体制は極端化し、結果として1960~1962年の大飢饉において3000万余人が餓死し、更に1966~1976年の「文革」は中国社会全体を崩壊寸前に追い込んだ。巨大な社会災難を経験した国民の大多数はいままでの体制と政策に絶望した。労働者・農民及び知識人が現状脱却を切望し、生存の道を求めていたのみならず、旧体制の大黒柱になっていた中国共産党や政府の高級幹部でさえ、「文革」中に受けた迫害に懲り、これ以上このような状態が継続してはならない、変革こそ救国の道だと認識していた。

改革開放の初期、中国の指導者達は自らの改革目標やモデルを設定することなく、いわゆる「手探りで川を渡る」(訳注:試行錯誤)方策を採用し、如何なる術であれ経済を回復・発展させることができるならば、救急策として用いた。当時、人々は長年の思想的束縛から解放されて思想は活発であり、さまざまな構想が描かれた。中国政府も英・米・仏・日・独の諸国に多くの視察団を派遣し、先進国の経済発展の方法を学んでいた。そうして、1970年代末から1980年代初期の「命令経済」(訳注:統制経済)がまだ絶対優勢であった時代に、その後の中国の市場経済の形成にとって重要な意義を持つ柔軟な制度が以下のとおり形作られた。

(1)「包産到戸」(訳注:農家生産請負制)
農民からの要請を受け、土地を集団所有(公有)としたまま、農家生産請負制の形で農家による農場家族経営を回復した。 

(2)行政的分権(administrative decentralization)
中央政府の資源配分権を各級地方政府に一部移譲し、資源配分権と財政収入配分における地方政府の政策決定権を拡大した。従来の計画経済体制における経済政策の決定権は中央政府に高度に集中し、その組織構造はひとつの企業体(Unitary-Form)のようであった。1980年、中国は「かまどを分けて飯を食う」(訳注:独立採算)の財政体制を実施し、省・地区・県等は独立して経済利益を保有する経済主体となった。すなわち、中国経済は単一体制から多くの独立したサブシステムを有する「多部門体制」(Multi-Division Form System)になったのである。このような体制下で、地方政府は一定範囲の経済に対する管理権を獲得し、地域内で創業する者に保護と支持を与え、地域全体の経済を発展させることで地方政府と地方官僚個人の収入を増やした。 

(3)資源分配(distribution)と価格決定(pricing)の「双軌制」(訳注:二重ルート制)
中央集権の計画経済期においては、生産資源や資本資源はすべて国に集中し、行政命令を通じて配分されていたのであるが、1970年代末から国有企業に対して「企業経営自主権の拡大」「権力委譲と利益譲渡」という改革を図り、中国政府は生産と販売の自主権を与えた一部の国有企業に対して「協議価格」(訳注:売り手と買い手の協議で決まる価格)による計画生産外の自主販売を許した。こうして生産財の配分と製品の価格決定において「第2のルート」すなわち市場ルートが事実上誕生したのである。1985年に中国政府はこのような「二重ルート制」を正式な制度として確立し、国有企業に計画に従って配分される生産財の数量は1983年の水準に固定された。「二重ルート制」下において、私企業は市場ルートを通じて生産財の購入と製品の販売をすることができ、いわゆる市場における生産活動を行う基本条件が整った。 

(4)経済特区
第4の制度改革は経済特区の設立である。「文革」が未だ収束していなかった1972年、早くも中国は「鎖国」を解除し、すでに先進国との貿易を開始していた。「文革」終了後、先進国との貿易は急速に発展し、そして中国政府は正式に「対外開放」政策の実施を宣言、海外の技術を吸収・導入し、外資による直接投資、特に香港・マカオ・台湾の資本による大陸での企業開設を誘致した。1980年には、広東省と福建省において「対外開放の特殊政策と柔軟な措置」を実施し、深圳等に4つの「市場メカニズムを主とする開放的経済特区」を設立することを決定した。

これらの柔軟な制度が作り出した好ましい経済環境によって、民営経済はゼロからの発展を開始した。1981年当時、中国の私企業社数は僅かに183万社であったが、1985年には1171万社にまで増加した。すなわち対前年比が159%を超える増加率を毎年記録したことになる。対外開放政策の実施により中国の輸出入貿易総額及び海外直接投資は飛躍的に増加した。しかし、これらの柔軟な制度では依然として政府が主導的役割を果たしていたため、「レント・シーキング」(訳注:贈収賄)の土壌も培われ、腐敗が醸成された。 

2. 市場経済改革目標の漸進的明確化(1984-1993)

上述の一連の措置が実施されたことにより、1980年代初期に中国経済は急速に回復した。しかし、1980年代中期になると、体系だっていない政策で「モチベーションの喚起」を行うだけでは、経済を軌道に乗せることができないことに人々は気付かされた。反対に、命令経済と市場経済が併存する「二重体制」によって多くの衝突と混乱を招いていた。そこで、「経済改革の目標モデルは何か」という重大な命題が提起されたのである。 

1970年代末から1980年代初期の模索を経験して、4つの目標モデルが形成されつつあった。すなわち、(1)改良型ソ連モデル、(2)国有制と計画経済を基盤とする「市場社会主義モデル」(「東欧モデル」)、(3)政府主導の市場経済モデル(「東アジアモデル」)、(4)自由市場経済モデル(「欧米モデル」)である。 

1980年代中期に至り、このうち前二者のモデルの影響力は後退し、後二者のモデルが優勢になってきていた。そのうち、東アジアモデルは改革派の政府幹部に好まれ、欧米モデルは欧米の影響を受けた知識人に歓迎されていた。 

1984年、東アジアモデルと欧米モデルを主張する人々の共同努力により、中国共産党第12期中央委員会第3回全体会議において「計画商品経済を有する社会主義」という改革目標が決議された。その後この経済体制は、独立採算の企業、競争的な市場システム、マクロ調整システムの3つから構成されるものであることがより一層明確にされた。 

1987年の中国共産党第13回全国代表大会において、商品経済のメカニズムは「国家は市場を調節し、市場は企業を誘導する」ことであると定義された。この時をもって市場経済への改革目標はほぼ明確になったと言えよう。 

1986年、中国政府は1987年から経済改革を全面実施することを決定し、1990年代に社会主義商品経済のフレームワークを構築することを決定した。これと同時に、鄧小平は、1986年にもう一度「党政分離」(訳注:党務と政府行政の分離)を中心とする改革を始動するとともに、中国の政治体制を市場経済に適合させようとしたのであるが、この2つの改革はいずれも継続することができなかった。ただし、こうした「社会主義市場経済」を目標とする全面改革は、1990年代中期になってから改めて開始されることになる。 

3. 新しい体制の確立及びその欠陥(1994年~)

1993年の中国共産党第14期中央委員会第3回全体会議において採択された「社会主義市場経済体制の確立に関する若干の問題に関する決定」に基づき、経済改革が全面的に実施され、その改革には次のような内容が含まれる。 
  • 1994年からの財政税制システム改革・銀行システム改革・外国為替管理システム改革
  • 1990年代中期からの国有小企業の活性化(「江蘇省南部モデル」と「郷鎮企業」を含む)と民営経済の発展
  • 1990年代後期からの国有企業の「公司化」(訳注:民営化)改革
  • 中国共産党第15回全国代表大会の決定に基づき1990年代末に実施された国有経済の「可進可退」(訳注:市場参入・退出自由)による「構造調整」及び私有経済促進
これらの努力を通じて1990年代末から2000年代初期に多様な所有制経済が共に発展する状況が出現し、国民経済に占める民営経済の割合は大幅に高まった(現在、民営経済は経済全体の3/5を占めているが、沿海地域においては更に高い)。 

市場経済制度の初歩的な確立によって、中国の経済は急速に発展した。1993年から現在までの15年間、中国経済は年平均10%の高成長を持続し、国民の生活水準もかなり高まった。いまや中国は世界経済において重要な経済体として認められている。 

しかし、その反面、この改革で確立された現在の経済体制にはまだ大きな欠陥がある。それは経済発展に対して政府が行う各種の規制に具体的に現れており、重要分野では国有経済の独占により資源配分における市場本来の役割が果たせずにいたり、「レント・シーキング(rent seeking)条件」(訳注:贈収賄が横行する条件)が普遍的に存在しているため腐敗が醸成・助長されたりしている。 

そもそも「社会主義」の市場経済とはいかなるものかという命題については、当初から理解がまちまちであった。一部の人は、経済活動における政府の強力な関与は、重商主義(Mercantilism)或いは東アジア諸国の発展初期段階のいわゆる「レント・シーキング(rent seeking)条件」を現代市場経済の常態と捉えており、レント・シーキング活動から利益を得ている既得権益者は現代市場経済の方向へ進もうとしない。これらの人達は、自らのレント・シーキングにかかわる権力が削がれることのないように、さまざまな手段で市場化の改革を阻止したり、あるいは改革を極力捻じ曲げてレント・シーキングを拡大しより多くの富を手に入れようとするのである。 

このように、改革開放には30年来このような状況が絶えず存在していた。市場化改革を実施した場合、例えば1990年代初期に商品価格の統制が解禁されてレント・シーキングの可能性が著しく縮小した時期には、腐敗は抑制され、国民の喜びの声が支配的であった。逆に、「ストルイピン式」(訳注:ストルイピンは帝政ロシア時代の政治家)の権力私有化が行われたように正しい改革の決定が歪曲された場合や、あるいは例えば国有独占企業の改革が足踏み状態となるように改革が阻止された場合には、腐敗が蔓延し、国民の不満の声が高まる。 

改革の途次、このような改革を阻止しようとする行為が浮き彫りになり、これらの行為によって改革のテンポが緩められたり、後退したりすることもあった。例えば、中国共産党第15回全国代表大会と中国共産党第15期中央委員会第4回全体会議において国有経済の構造調整と国有企業の株式会社化が決定された後に、国有経済の改革は大きな進展があったのであるが、巨大独占国有企業を改革しようとすると、なかなか進まなくなり、一部の分野において「国進民退」(訳注:国有企業の躍進と私企業の撤退)といった逆戻りの現象も現れた。 

経済改革の遅れをのぞいても、1990年代末から2000年代初期に各級政府はミクロ経済の分野にも介入し、一部の官僚が土地や金融信用枠などに関する自らの重要な権限を乱用してイメージアップや政治的業績のためだけのプロジェクトを大々的に実施したり、或いは建設プロジェクト決定権や株式上場等批准権を乱用して、これらの権力に近づくことのできる官僚や「赤頂商人」(訳注:巨商)が暴利を得た。 

もう1つの重要な問題は政治改革の遅れである。鄧小平は1980年と1986年の2回にわたって政治改革の実施を切り出したが、これを徹底することはできなかった。1997年の中国共産党第15回全国代表大会において「法治建設」(訳注:法制度の整備)が改めて提起され、2002年の中国共産党第16回全国代表大会においては社会主義民主政治の確立が提起されたが、残念ながらこれらの改革速度は非常に緩やかである。これは市場経済の整備にとって極めて不利である。「非人格化交換」(訳注:属人的条件に左右されない取引)が主要な地位を占める現代市場経済にとって、公平・正義の法律体系と独立・公正の司法がなければ契約の履行は保障されない。このような情況下においては、経済活動の参加者は自らの財産の安全を保護するために政府や官僚と結びつかざるを得ない。公的権利が明らかでないため、官僚の個人的意志によって企業の「成功失敗・禍福」が決められる環境下において、何の拘束も受けない官僚の手にある権力は売れ筋の良い商品となり、官職の売買までが広く蔓延している。 

4. 出口と未来図

前述のように、近年、広く蔓延している腐敗現象は、経済改革と政治改革が徹底されなかったことに起因しているが、改革前の旧体制や旧政策の一部の支持者は、現代社会における劣悪な現象の原因についてその真相を歪曲して解釈し、我々が直面している様々な社会問題や経済問題、例えば腐敗の蔓延・所得分配の不公平・医療費の高騰・入学難等は、「新自由主義主流経済学」に惑わされ、市場経済と対外開放の方針を採ったためにもたらされたものであると強く鼓吹した。そのため、2004から2006年まで改革についての大論争が起こったのである。この論争において、旧体制と旧路線の支持者は、現在中国社会に存在する腐敗や所得分配不公平に対する一部の弱者グループの正当な不満を間違った方向へ誘導し、1978年からの改革開放政策を切り捨て、再び「階級闘争こそ要」や「ブルジョア階級に対する全面政治統制」の旗印を掲げ、「プロレタリア独占政治体制下の継続革命」の道に回帰し、「1978年のやり直し」、「プロレタリア文化大革命を徹底しよう」と煽動するのである。 

このような回帰派の主張に対し、中国共産党と政府の態度は非常に明白である。2007年10月に開催された中国共産党第17回全国代表大会における中央委員会の活動報告においても「どんな旗印を掲げるか、どんな道を進むか」という問題を鋭く提起し、そうした回帰派の主張を真正面から批判した。この活動報告は、「改革開放は共産党と国民の意志に符合し、時代の流れに順応している。その方向と道は間違いなく正しいものであり、その成果と功績は否定の余地がないのであって、停滞や逆行に出口はない。」と指摘している。これより前、胡錦涛主席は全国人民代表大会上海代表団での講話においても、改革の方向を断固として堅持し、社会主義市場経済体制を完成し、資源配分における市場本来の役割を発揮していくことを明確に表明した。 

現在、一部の地方において新たな思想解放運動が起こりつつあり、古い観念の束縛から抜け出し、経済・社会・政治の分野で新しい思想が形成されている。明確な認識に基づき、中国の経済改革と政治改革が推進されることを期待したい。 

私が考えるに、改革を推進できるか否かの鍵は政府自身にある。計画経済下において、政府はマクロからミクロ、ひいては国民の家庭生活まで全てを管理していた。このような政府から、公共財のみを提供するサービス型の政府へと改革していかねばならず、そのためには政府の官僚は公心を以て事にあたり、公僕の身分にそぐわない権力は自ら切り捨てなければならない。政府改革の任務は、資源配分と価格形成における行政関与の低減や除去によって市場メカニズム本来の役割を機能させるだけでなく、より大きな任務は、市場が正常に機能できるように制度的なプラットフォームを築くことである。そうした制度的なプラットフォームなくしては、規則の曲解、秩序の混乱、汚職などの状況から抜け出すことは難しい。 

中国には憲政の伝統が希薄であるため、法治の実行は必ず障害や抵抗にあうことは承知しておくべきである。端緒についたばかりの新たな段階において、我々はさまざまな障害を克服し、豊かで、文化的な、民主の、調和のとれた中国を建設する偉業を推し進めていかなければならない。 


【略歴】国務院発展研究センター研究員。1954 年復旦大学経済学部卒業。中国社会科学院大学院教授、北京大学経済学研究科教授、中欧国際工商学院教授、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、経済委員会副主任。2005 年中国経済学賞受賞。国際経済学連合(IEA)執行委員(2005-08年)。