タイプ
レポート
日付
2008/4/24

奨学事業レポート「ケニア選挙後の暴動:SYLFFフェローによる現地レポート」

ケニアでは、昨年12月の大統領選をめぐって、全国的な暴動が発生しました。アフリカで政治的に安定した国の1つである同国がなぜ突然の激変に直面することになったのか、ナイロビ大学出身のSYLFFフェローで、現在同国オランダ大使館にて人権担当官を務めるオティエノ・アルオカ氏によるレポートをご紹介いたします(同レポートは、2008年2月末時点で執筆されたものです)。


英文(原文)はこちら

「ケニア選挙後の暴動(Kenya’s Post-Election Violence)」
オティエノ・アルオカ (SYLFFフェロー、ナイロビ大学)


アフリカ大陸の東部に位置するケニアは、アフリカでは政治的にもっとも安定した国の1つである。ケニアは、長年の武力闘争と外交交渉を経て1963年に英国からの独立を果たしたが、この独立闘争時の指導者らが、現在も国政の中心を担っている。そして、長年にわたって様々な利権が蓄積され、なかでも特に商業利益がこの国の政治を支配し続けている。2007年12月に行われた選挙では、若手政治家から構成される野党が現政権をしのぐ勢いをみせたが、現政権指導者らが頑固に世代交代を拒否したことを受けて、広範な地域において暴動が発生した。EU、米国、英国などを含む国際社会の支援を受け、前国連事務総長コフィ・アナンが調停を開始したが、ケニア政府は責任と義務の履行を回避し、野党との実質的な連立政権合意を拒否した。このレポートは、こうした状況を大局的な視点で捉えようという試みである。

ケニア選挙後の暴動
2008年の最初の2ヵ月間、ケニアの政治情勢は流動的で、緊張が続き、予測は困難であった。国内は混乱し、不正が疑われる選挙によってケニア民主党(PNU)のムワイ・キバキ大統領が再選されると、引き続いて数週間にわたる民族紛争そして流血の惨事が発生した。住民の大半が右往左往する中、ナイロビでは、アナンを団長としたアフリカ連合(AU)著名人パネルの代表団による、和平会議が開催された。

同会議で野党勢力であるオレンジ民主運動(ODM)は、キバキ大統領辞任と再選挙を求める従来の過激な立場から後退し、交渉の余地を開いた。キバキを大統領と認めないODMは、会議冒頭の声明でキバキが自らを正当に選ばれたケニア大統領と呼んだことに反発し、あやうく会議をボイコットするところであった。与党は、会議の和平精神を回避し、行き詰まりの解決を模索する内外からの圧力の強さを測り違えていたと言える。和平会議には、AU議長を務めるタンザニア大統領ジャカヤ・キクウェテおよび米国務長官コンドリーザ・ライスの仲介も加わったが、彼らは同和平プロセスが頓挫すれば恐ろしい結果が予想されると与野党に警告を与えた。両者からの圧力が功を奏し、敵対する与野党間で新たな和平合意が締結され、近々共に行政権をもつ首相と大統領が選出されることとなった。この大連立合意は、憲法へに組み込まれる予定である。

EUおよび英連邦を含む多数の国内および国際選挙監視団は、2007年12月に実施された選挙、とりわけ大統領選挙の結果は、不正開票によって損なわれたとの一致した見解を報告している。約40の異なる民族集団から構成される多民族国家ケニアは、この論争で大きく動揺した。アナンが議長を務めた和平会議では、選挙の大失敗に隠蔽された事実の立証と検討を行う委員会の新規設立、ならびにケニア国民の和解と紛争の部分的原因となった歴史的不満の処理を目的とする「真実、正義、および和解委員会(Truth, Justice, and Reconciliation Commission)」の創設が合意された。

選挙に続く紛争で、この国は大きな損害をこうむった。約1,500人にものぼるケニア人が選挙後の衝突で命を奪われたのみならず、35万人が家を追われ、その多くは国内難民となって、現在も各地のキャンプに仮住まいを続けている。そして経済は停滞し、経済損失は20億米ドルに達すると現地では試算されている。和平交渉がさらに混乱し、焦燥と主戦論が定着すれば、ケニアは最終的に麻痺状態から崩壊へと向かうであろう。一体、なぜケニアはこのような状態に陥ったのか?

2002年の総選挙キャンペーン中に起きた交通事故で命を落としかけたキバキ大統領は、車椅子に座ったまま就任宣誓を行った。このときの彼の勝利には、国民虹の連合(NARC)の協力と連帯が大きく貢献した。キャンペーン終盤の数週間、彼は車椅子に頼る生活を送ったが、ザ・サミットと呼ばれる愛党心に燃えた熱烈なNARC支持者らによって構成された選挙運動員は、改革という政治要綱を掲げて国中を縦横に駆け巡った。

選挙の敗北結果を受けたケニア・アフリカ人民族同盟 (KANU)の円滑な譲歩によって、ケニアはアフリカにおける政権移行の模範例となった。しかし、それは過去の話である。今回キバキは、皮肉なことに、彼の大統領就任に功績のあったライラ・オディンガ率いる強力な野党連合と前大臣らの挑戦を受けることになった。

2002年の大統領就任時、キバキ政権は、新憲法の制定、公務員の汚職や縁故主義の廃絶などを公約に掲げた。今後のキバキ政権の前に立ちはだかるのは、こうした公約であり、経済活性化の公約ではない。事実、キバキ政権は、2002年の疲弊した経済レベルから8%の成長を達成したとする健全な経済政策を武器に、再選挙を戦った。しかし、彼の政治的公約のほとんどは実現せず、とくに新憲法制定と政府高官の腐敗問題は手つかずのままである。さらに悪い材料は、選挙前に同僚との間で結んだ連立政権に関する合意の反故をキバキに説得したとされる民族グループが、現在の政権中枢を占めていることである。

接戦?
選挙が接戦の様相を呈し、多くの世論調査が僅差の選挙結果を予想したとはいえ、ケニア人の多くは、その結果がこれほどの論争と残忍さをもたらすとは考えていなかった。PNU、ODMの両党は、ともに国内の各地で多くの支持を集めた。ケニア選挙管理委員会は、(3選挙区での開票を無効とした後)最終的に209選挙区の結果のみを公表し、キバキ大統領の得票がODM擁立の大統領候補ライラ・オディンガを20万票上回ったと発表した。論争は、その直後から起こった。この頃には、メディアによる開票結果の実況放送は禁止され、ナイロビは、治安パトロールの強化と道路封鎖による警察国家になりさがってしまった。何が原因で選挙後の暴動は引き起こされたのだろうか?

かつてモイ前大統領は、多党主義が部族間の緊張をもたらし、この国の地域分裂を深刻化するであろうと予言した。前大統領は彼自身、分割統治戦術のエキスパートであった。彼は、1980年代の熱烈なケニア政治改革キャンペーンの最中に、いまだケニアでは結合力が希薄なため、政治的な多元性には反対すると主張した。ケニアにおける複数政党制民主主義は、1991年最終的に再導入されたが、1992年および1997年の選挙では、とくにケニア西部のリフトバレーと沿岸部で選挙に起因する暴動が発生した。

ケニアの政治では、当選を確実にする投票数の獲得は、しばしば候補者と選挙民との親子のようなつながりによって強化される。上記地域の政治家たちは、移住してきた開拓者集団から投票者を追い出すことが、「党のゾーン」宣言の実現には得策と判断した。リフトバレーはKANUのゾーンであることが宣言され、他の党はそのエリア内での活動を行わないよう警告が発せられた。かくてこの事件は、多党政治についてのモイの予言をも実現させたのである。1997年にも、同じ状況がさまざまな戦術と結果によって再現された。紛争に国が関与した後には、公然と隠ぺい工作が行われた。これを受けて議会は調査委員会を選定し、委員会は1993年に発生した衝突が陰謀であったと勧告したが、その後の調査はうやむやに終わった。もう一つの部族間衝突司法委員会は1999年に役割を終えたが、モイ政権やキバキ政権はいずれもその勧告を実施に移すことはなかった。

植民地時代の遺物か、あるいは民族的複雑さか?
分割統治戦術は英国植民地時代の遺産とはいえ、その戦術に磨きがかけられたのはKANUによる統治の時代であった。国選による任命、予算配分、公共財の配分などは、民族的忠誠心や国家権力との親密度に厳密に従うかのごとき印象を与えている。このような国家資源配分方法は、民族がもつ不満の主な原因である。ケニア大統領の巨大な権力を考えれば、この方法は混乱を引き起こす前兆となり得る。たとえて言えば、自分たちが権力から離れた周辺にあると考える地域社会は、食べ物の盛られた皿を自分たちへも回して欲しいとの思いを軸に、現状への抵抗運動を展開する。「今度は我々が食べる番だ(It is our turn to eat)」は、ケニアの選挙運動で頻繁に用いられる常套句なのである。

キバキ政権によって権力の中枢から疎外され取り残されたと感じた地域社会は、ODMの下に集結し、反政府的立場をとった。しかし、政権交替の機会を逸したことは、彼らに苦痛と失望感をもたらした。その原因が疑惑視されている票の紛失であれば、怒りと失望が暴動を呼ぶことは当然の結果といえよう。1963年の独立以来、ケニアを支配し続け、国家資源を独占してきたキクユ族への根深い怒りが原因となることは疑いのないところである。この国に独立をもたらしたマウマウの反乱は、植民地開拓者の土地収奪に対するキクユ族の蜂起が一因であったが、去り行く開拓者らは、臆面もなく搾取的で不和の原因となる国家機構を、キクユ族の一員であったジョモ・ケニヤッタ配下の新たなパワーエリートに譲り渡した。教育水準の比較的高い労働者階級と白人行政官らから引き継いだ良好なインフラの利点を活かし、ケニヤッタは独立後の経済発展を成功させ、キクユ族に強大な力をもたらし、羨望の対象へと育て上げたのである。

1952年、英国政府はケニアでの非常事態宣言を行った後、「スウィナトン・プラン(Swynnerton Plan)」と呼ばれる土地合理化計画を発表した。この計画で英国は、新たに独立したケニアの資金を用いて、白人入植者が開拓した「白人の高地地方(White highlands)」を買い戻すよう促した。白人入植者らが去った後には、かつてカレンジン族やマサイ族が所有していた広大な土地が、無人のまま残された。しかし、遊牧民であるマサイ族は、英国植民地政府との間で交わした1904年と1911年の合意によって、リフトバレーの大部分の権利を喪失していた。一方のカレンジン族にとっては、彼らが先祖代々所有していたと主張する土地が、独立政府によって併合され、主にキクユ族移住者に分配されるという事態が生じたのである。このキクユ族の再移住計画をカレンジン族で支持したのは、一部の政治家のみであった。1971年までには、カレンジン族が定住していたリフトバレー北部の耕地の半分以上が、新たにキクユ族購入者の所有となった。この歴史的不満への解決が見いだされない限り、この地域におけるカレンジン族・キクユ族間の衝突は再発が予想される。

キクユ民族主義におけるマウマウの反乱という有名なエピソードと同様に、カレンジン族も独自の勇敢な物語をもつ。東アフリカ鉄道が彼らの所有地に到達した1905年から1911年にかけて、伝説的人物であるサモエイ(Orkoiyot Koitalel Arap Samoei)率いるナンディ抵抗運動が展開された。カレンジン族社会も、反植民地主義運動の最前線に立っていたのである。この民族としての誇りは、カレンジン族社会全般にそして政治の伝統に生き続けている。

しかし、メディア文化もまた非難をまぬがれることはできない。ケニアには、信頼性・独立性の高い報道の自由があるが、国内メディアは何れか一方に加担した報道を行ってきた。選挙運動における民族的利益のためと思われるこうした偽装は、深い失望を助長し、憎悪に満ちたプロパガンダ、欺瞞、戦争挑発などの道具となりかねない。ケニアの民族メディア局は、否定的民族感情を煽る点で咎められるべきである。

今必要とされるのは、将来のケニアに同様の状況が再発しないよう、持続可能な解決策を見出すことである。「真実、正義、および和解委員会」の設立ニーズにこめられた曖昧な司法への改善提言は、依然として重要かつ喫緊の課題である。曖昧さの排除は、この国に持続する苦痛と不満の理解、そして解決策の処方に有用である。近い将来、和平の継続が重要となるが、この問題と真剣に取り組むには、連立政権に関する憲法上および立法上の合意が必要であり、さらには大量貧困層の解消が不可欠である。
そして正義が勝利するために、ケニアの立法機関は、不十分な法律文書およびそれらを裁定する司法機関の改革に取り組まなければならない。不満の解決に指導者たちは法的手段の行使を躊躇するが、それはさらに大きな混乱をもたらすだけである。


オティエノ・アルオカ (Otieno Aluoka)

1999年から2000年にナイロビ大学(University of Nairobi)にて、SLYFF奨学金を受給。ケニア在住の社会科学者、開発コンサルタント、政治活動家。現在、アフリカ対話財団(DAF)の評議員ならびにナイロビのオランダ大使館においてコンサルタントおよび人権問題担当官を務めている。批判的分析、著述、研究、教育などの分野で経験豊富な人類学者でもある。日本、アメリカ、ドイツ、イギリス、オランダを含む数多くの国々を訪問し、招請に応じてリーダーシップについて講演するなどの経験をもつ。