タイプ
論考
プロジェクト
日付
2014/5/7

生命倫理サロンを通して見えてきたこと


研究員兼政策プロデューサー
冨田清行



私たちは常に健康でありたいと願っている。最近ではアンチエイジングが話題になるように「若さ」も価値を高めている。しかし考えてみれば、このことは今にはじまったことではなく、古来、人類が長く追求してきた望みである。
技術の進歩はこの長年の望みを叶える力を与えている。そして、ある望みが叶うと次の望みが出てくる。技術は更に次の技術を生み出していく。
実際、私たちは連日のように先端医療に関する報道を見聞きするようになった。そこでは、先端医療は私たちの人生に新たな選択肢を提供する恩恵であり、また、日本の成長を支える源泉としての役割も期待する情感が込められる。

一方で、新しい技術が社会に新たな課題を生み出すこともある。先端医療は生死に関わることが多い。だからこそ、先端医療は社会の根幹を変える力を持ち、その力はこれまで蓄積されてきた社会のルールとの間に相克を生み出し、それが倫理の問題としてあらわれてくる。生命倫理問題が難しいのは、あまりに価値観が多様化しているからである。それは現代の社会構造を背景にしているのみならず、自分自身の立場や状況によって変化しうるからであろう。若い時と老いた時の判断は異なって当然だし、健康な時と病気になった時の判断は違うかもしれない。家族や親しい人など自分の周りのことを考慮すると判断は更に変わってくるかもしれない。

多様化しているのだから、個人の意思を尊重し個人の判断に全て任せることで良いのか。それとも、多様化しているからこそ、社会としての何らかの合意を見出すべきなのか。
東京財団は、この生命倫理を政策問題として捉え活動を続けてきた。政策論として考えるということは、一定の社会合意の形成を目指していくことである。いかにして多くの意見を引き出し、その合意を見出していくべきか。具体的には、2010年から生命倫理サロン を立ち上げ、シンポジウムなどの大規模イベントを含め、これまで24回にわたって開催し、多くの方々との議論を重ねてきた。ここでは、その活動を通じて、見えてきたことやこれから考えねばならないことをまとめてみたい。


繋がる個別の問題-人間の欲求



生命倫理サロンは、2009年の改正臓器移植法の施行直後に発足したこともあり、第1回目のテーマは臓器移植であった。その後の臓器移植を巡る状況の変化を見据えるため、少なくとも年1回は臓器移植を採り上げて議論してきた。その他、再生医療、生殖補助医療、尊厳死、動物実験など、その時々で話題となっているテーマを取り上げて、議論を続けている。一見すると、これらのテーマはそれぞれ別個の問題と思われるが、実はそれぞれ密接に繋がっている。

移植するための臓器が足りないから、脳死という臓器移植を広げる仕組みを作り、それでも足りなければ、再生医療という新たな技術を開発する。子をつくるという希望を実現するため人工授精や体外受精、代理母という技術が生まれ、生命誕生の選択肢を増やしてきた。その技術は受精卵を用いる胚性幹細胞(ES細胞)と繋がり再生医療の発展に貢献してきた。ES細胞が胚を利用するのに対し、由来源の倫理問題を解消すると期待されているiPS細胞については、その技術を更に進めて、精子、卵子さえも作製を試みようとすることで新たな倫理問題が浮上している。そして、最近では、子をつくること自体を超え、遺伝子技術を活用して、自分が希望する子をつくることまで考え出そうとしている。他方、生命の誕生に対して自らの希望を達成しようとすることと同様に、自ら望む方法で死を実現したいと尊厳死の議論が続いている。

こうした繋がりは、多くのテーマを同じ「場」で議論することを通じて、よりはっきりと見えてきた。タイムリーなテーマを採り上げてきたことは、一見ランダムなようでいて、結果的には、全ての繋がりを明らかにしている。
そして、この一本の繋がりの中に見えるのは、“人間の欲求”が生命倫理問題の根底にあることである。

「医療そのものがすべて願望実現のためである」
生命倫理サロンにおいて示された、ある医師の見解は、医療には生命倫理が必然的に内包されていることを指摘している。
自分の欲求は、対象を限定していても、それに留まらず、多くの別個の事柄にも繋がっているのである。そればかりではない。後述するとおり、自分が抱える欲求は、自分の力だけでは実現できないものでもあり、それが問題をさらに複雑にしている。


政策論として考える-前提に立ちはだかる諸問題



欲求や願望は、社会の発展の原動力でもあるし、それ自体が人間らしさを形づくるものという見方もあるが、それを際限なく認めれば、社会の中で衝突が生じる。そこに社会は個人の欲求をどこまで認めるのかという、政策論として生命倫理を扱う意義がある。

政策として扱うということは、最終的に法律(又は予算措置)によって、制度化されることである。日本では、生命倫理に関連する法律は極めて限定的に制定されている。クローン規制法、臓器移植法、そして昨年11月に成立した再生医療等安全性確保法があるが、これらの法律の対象の外においては、医療現場による自主規制等により運用されている状況である。

現在、尊厳死については超党派、生殖補助医療については自民党を中心に議員立法の動きが加速化している。現時点では、党内議論及び他党への働きかけが行われており、国会での法案提出の目途は分からないが、今通常国会での提出の可能性も指摘されている。

尊厳死や生殖補助医療にように、全国民に関係する政策をどのように合意形成するのか。
通常、政策立案においては利害関係者を見極め、その利害関係者間の調整が不可欠となるが、生命倫理分野における利害関係の認識が極めて難しい。例えば、臓器を必要とする人と提供する人、不妊に悩む夫婦などの当事者は現時点で利害関係者として直ちに認識されるものの、臓器移植や生殖補助医療、再生医療、尊厳死は誰もが関わる可能性がありながら、直接の当事者でなければ自らの問題としては捉えにくい。そして、生命倫理問題は一般的な問いでは議論が困難である。例えば、臓器移植は是か非か、といった問題設定では議論は噛み合わない。そのため、臓器移植は必要なのか(なぜ認められるのか)、なぜ他人の臓器を使うことが許されるのか、どういう人から臓器をもらうことが認められるのか、といった論点を展開することで自らの考え方がはっきりすることも生命倫理サロンを通じて発見できた。

どのような政策であっても、広く国民を対象とするものは利害調整が難しい。したがって、利害調整を進めるためにも、法律の対象は明確にして、利害調整の範囲を特定していく必要が出てくる。その意味では、生命倫理を扱う法律が臓器移植、再生医療のように限定的な範囲で制定されていることは、辛うじて社会合意を形にするという意味で現実的な対応と見ることもできる。

しかしながら、個々で扱われる生命倫理の問題が相互に繋がっていることを考えると、法律によって線引きすることは出来るのか、という疑問も沸いてくる。果たして、生命倫理問題の全体を包括する基本法 のようなものの必要性が持ち上がってくるのである。この問題について、昨年(2013年)の秋に東京財団フォーラム を開催し、憲法上の尊厳を巡る議論や包括法を制定した韓国の事例の紹介などを通して、多くの参加者の意見が交わされた。そこでは、そもそも法という明確に線引きをする仕組みを用いて生命倫理を規定することへの疑問や個々人の考え方もまとまらないままに制度が先行することへの懸念などが示された。

これまで3年半の生命倫理サロンでの議論を通してみると、具体的な法案を考える以前の問題として、そもそも何を法律にすべきなのか、逆に、何は法律にすべきではないのか、という点すら依然として合意は遠いという印象を持っている。
しかしそれは、法案化の議論にほど遠いから今は考えなくても良い、ということを意味するものではない。社会合意は法律という形で実現する以上、法案化という目標を持って議論を継続することを諦めてはならないと考える。したがって、生命倫理サロンでは様々な事象を取り上げているが、さらに議論を積み重ね、生命倫理政策の具体化、つまり法案化の可能性を常に意識して意見の集約を試みている。


可能性の拡がり-自己決定と責任の視点



自分の希望を実現しようとすることで様々な生命倫理問題に直面するが、より具体的に考えると、自分の希望を“どのようにして”実現するかが問われていると思われる。
例えば、尊厳死は延命治療の発展がもたらす問題であるとされるが、尊厳死を医師に求めることは矛盾した行為でもある。

「命を救うことを使命とする医師に生命を終わらせるよう処置を求めることは、おかしいのではないか。そもそも延命措置は自分や身内で外すことができるもの」

生命倫理サロンにおける、ある医師の意見である。自分が希望していることを他人に委ねる、あるいは他人の責任に帰することが、当たり前になっているのではないか、そう気付かされる。自分の欲求を実現したいが、その結果に責任を負わないのであれば、それはあまりに身勝手なものと周りに映る。

今年(2014年)1月の生命倫理サロンで採り上げた安楽死はその問題を露わにする。オランダの安楽死制度は、積極的に終末を迎える行為を認めるものであるが、この行為だけに注目すると制度の背景を正しく理解できない。オランダでは、自らの終末について親しい人たちと徹底的に話し合う機会が豊富にあり、また、継続的に健康に関して相談相手となる家庭医との徹底した話し合いも踏まえた上で安楽死という結論を自らが選択している。このように身近な人との徹底的に議論する文化や家庭医を中心とするプライマリ・ケア制度が確立し、その上に自己決定という自らの意思を貫徹する社会が成立している。現在、日本で議論されている尊厳死は、いわゆる積極的な安楽死ではなく、延命治療の中止などによる死の制度化であるが、それを受け入れる社会の合意をどうつくるのだろうか。制度をつくれば自動的に機能するものではないことは、臓器移植法の改正後の推移を見れば、明らかである 。自分らしさを追求する前に、自己決定とは何か、それを支える条件とは、そして、それを受け入れる環境とは何かをよく考える必要がある。これらは、多くの生命倫理サロン参加者に共通した視点であった。

例えば、子を持つことについても、その結果をどのように受け入れるのか。子をもつための技術が増えることで、社会全体で見れば、子を持つことの果たすべき責任も増えていく。新型出生前診断における事前カウンセリングという仕組み、つまり、その判断を求められる瞬間だけでなく、常日頃、自分の身体のことや健康に関し、信頼して相談のできる相手が必要である。出自を知る権利や代理母のように他者のリスクの問題を生み出し、子を持つことの願望が親だけでなく子供や第三者に影響していくことについても、生命倫理サロンで多く関心が寄せられた。

自分の希望や欲求を自分一人で実現することは、実は難しいことが多い。生命倫理分野においては、特にそうである。配偶子を必要とする生殖補助医療や他人の人体組織を利用する臓器移植などは、他者の存在が不可欠である。一見、自己完結すると思われる再生医療や尊厳死であっても、自分の判断が家族や親しい人など周りへ影響を与えるし、医療技術の進展の背景には多くの動物の犠牲があることも忘れてはならない。

このように自分の欲求を果たすことが世の中にどのような影響を及ぼすのか、社会との接点を欠いた自己決定はあり得ない、ということに生命倫理サロンでの議論は気付かせる。


原点をみつめる-社会合意形成への挑戦



生命倫理を考えることは、公共を考えることである。
生命倫理サロンを続けてきて分かったことは、生命倫理問題には本当に正解がないことである。議論すれば、その議論に参加する人数分の価値観が存在するといっても過言ではない。しかし、だからといって、何も決めなくて良いということでもない。生命倫理サロンでは、社会の合意はどこに導き出されるか、という意識を常に持とうと努力を続けている。

社会合意プロセスは最終的に国会審議を経て制度化されるが、2009年の改正臓器移植法案の審議では、政党という単位では意思統一できず、党議拘束を外して、議員個人の意思に委ねられた。このことは、生命倫理についてこれまでの通常の政策決定過程では対応しきれない性質を持っていることが明らかになった。

しかし、これは生命倫理に限らないことかもしれない。価値観の多様化が進む社会における合意形成の仕組みを改めて考える時期に来ているとも考えられる。最近では直接民主制の要素を取り入れて、代議制民主主義の補完を目指したり、情報技術を駆使して、国民の声を政策決定過程に反映させたりする取り組みも見られるようになった。多様な民意をどうやって集約するか、という民主主義の原点ともいえる問題に改めて直面している。

生命倫理サロンは、多様な民意を吸い上げ、集約し、政策形成過程につなげる民間シンクタンクの一回路としての役割を果たすべく、挑戦を続けている。

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