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安田主任研究員講演録(シンポジウム[伊勢])

August 27, 2007

「マヤ文明と伊勢神宮に共通するものづくりと生命文明」

安田喜憲(東京財団主任研究員/国際日本文化研究センター教授)
シンポジウム(伊勢)での講演(抜粋)(2007年6月9日開催)

今日のテーマは「マヤ文明と伊勢神宮に共通するものづくりと生命文明」です。
これはアメリカの地図ですが、メキシコがあって、これがグアテマラという国で、これはベリーズという国です<図1>。今日はこのメキシコからユカタン半島にかけの地域に繁栄したマヤ文明と伊勢神宮に共通する、10の事柄についてお話しようと思います。

聖なる数

マヤ文明には聖なる数というものがあります。マヤ文明の人々が最も大事にした数字は「20」です。言うまでもなく伊勢神宮の式年遷宮は20年ごとにお宮を遷しますね。なぜ20なのか。なぜマヤの人々は20を大事にしたか。それは20が人間やあらゆるものの原点だからです。みなさん自分の指を数えてください。足の指10本、手の指10本ありますね。この指の数、これが人間の原点です。20年というのが人生の節目ですね。そしてだいたい20年というのが物事の区切りです。

私は1980年に環境考古学という分野を自分で確立しました。1980年に環境考古学という分野を確立した当時は、他にこのようなことを研究している人はひとりもいませんでした。しかしそれから20年経った2000年ごろから、環境考古学という本がたくさん出始めた。20年前には誰もやってなかったことが、20年経つとだいたい世の中に広まってくるのです。

マヤの人々が最も大事にした数字は20、そして式年遷宮も20年に一度。つまり、そのマヤ文明と伊勢神宮の共通性のその1は、20という聖なる数を大事にしたということです。

共通した時代背景

マヤ文明と伊勢神宮に共通する2つめは、極めてよく似た時代的背景を持っているということです。いまから約3200年前、紀元前1200年ごろに大きな気候変動があり、ユーラシア大陸や世界中が大変動に見舞われました。その気候変動の直後から紀元後250年の間を先古典期といい、その時代にマヤ文明は誕生しました。この先古典期の中でも最もマヤ文明が繁栄した時代が紀元前400年から紀元後250年の間で、この時代は日本でいうとちょうど弥生時代にあたります。

最近では弥生時代は紀元前1000年まで遡るということがわかってきました。そうすると日本の弥生時代と先古典期、つまりマヤ文明が最も繁栄した時代というのが重なるのです。

今までは古典期というのがマヤ文明の繁栄期だと考えられていました。ところが、マヤにはピラミッドがあり、その中を発掘すると何重にもなっているということがわかってきたのですが、一番外側のピラミッドは薄い石を置いているだけなのです。基本の大きなピラミッドのいくつかが紀元前400年から紀元後250年の間の先古典期に造られていることがわかってきました。

そして、その時代はまさに日本の弥生時代です。稲作漁労が日本に伝わって稲作漁労文明が繁栄した時代であり、伊勢神道が発展した時代です。その時代にマヤ文明も発展期に入っているのです。

太陽への崇拝

先ほど申し上げたように、紀元前1200年、いまから3200年ほど前に大きな気候変動がありましたが、そのもうひとつ前、4200年前にも大きな気候変動がありました。その大きな気候変動によって東アジアは激動の渦に巻かれ、中国の長江流域に住んでいた稲作漁労民が大挙して日本へやってきました。一方が雲南省などへ移動し、もう一方が日本へやってきて、日本にこの天照の信仰をもたらしたのです。

ちょうどマヤ文明が誕生した紀元前1000年、その時代に東アジアでも民族の大移動があり、その大陸での春秋戦国の動乱を逃れた人々が日本へ渡来し、伊勢神道の源流となって天照大神の信仰を日本にもたらしたのです。

日本の神話のふるさとは南九州だといわれますね。ここが霧島です<図2>。邇邇芸命(瓊瓊杵尊)(ににぎのみこと)は、この鹿児島の黒瀬海岸というところへ漂着したわけです。いままでの歴史学者は、「文明の中心は朝鮮半島へやってきているのだから、本来は北九州に渡って来なきゃいけない。古代の人々が北を南と勘違いしてそういうことを書いたんだ」と言ってきました。

ところが最近、実はこの日本神話をもたらした人々は長江からやってきた稲作漁労民であるということがわかってきたのです。そしてその邇邇芸命は木花咲耶姫(このはなさくやのひめ)と結婚するわけですね。これが日本神話の始まりです。伊勢神道はここから始まり、そしてその時代にマヤ文明も誕生しているということです。

マヤの人々は太陽を崇拝しました<図3>。図はマヤ文明の最終段階に出てくるメキシコのアズテクという文明です。巨大なピラミッドで太陽の神殿といいます。彼らはこんな巨大な神殿を最後に造り、太陽を、天照大神を崇拝したのです。

山への崇拝

これはベリーズというところで見た紀元前100年に造られたピラミッドです。ピラミッドというのは実は山のシンボルでした。山を平野に持ってくることはできませんから、人々は山のシンボルとしてピラミッドを造り崇拝したのです。

たとえば本居宣長の歌に「天地(あめつち)の神の恵みしなかりせば、ひとよひとよもあり得てましや」という歌があります。天地がなければ人は存在しないということを言っているのです。美しい歌ですね。

なぜ人々は山を崇拝したかというと、この頂こそ天地(あめつち)を結合するものだからです。天地(てんち)を結合する、これが伊勢神道の根本ですよ。天地(あめつち)の結合、そこに豊穣を祈った。これが日本神道の根幹を形成するものです。こんなことを言った神道学者は誰もいません。

このピラミッドをご覧ください<図4>。ジャングルの中に山のシンボルとしてのピラミッドがあり、これが天と地を結合しているわけです。そしてその人々は玉(ぎょく)を崇拝した。

日本でも三種の神器のひとつは玉ですね。玉は実は山のシンボルだということは、私はこれまで何度も言ってきています。

日本神話に海幸(うみさち)と山幸(やまさち)の物語があるいのをご存じでしょうか。山幸が兄の海幸から釣り針を借りて釣りにいくが、その釣り針をなくしてしまう。山幸はそれを探しに海の底、竜宮に行き、そこで豊玉姫と出会うんです。豊玉(とよたま)、つまり玉(たま)、玉(ぎょく)ですね。そして結婚をして日本に帰ってきて海幸を降伏させるという物語です。豊玉姫は山幸と結婚し、鵜の羽を敷き詰めた産屋(うぶや)で子どもを産みますが、そのとき豊玉姫は山幸にこう言うのです。「私は子どもを産むときに先祖帰りをします。だから恥ずかしいから見ないでください。」しかし山幸は心配だから豊玉姫が子どもを産んでいるところを見てしまう。するとそこにはワニがのた打ち回っていました。豊玉姫の先祖はワニだったのです。なぜワニなのか。

ワニはいまは長江流域、揚子江流域より南にしか生息していません。そのワニが豊玉姫の先祖だったのです。たとえば『日本書紀』には事代主神(言代主神;ことしろぬし)が八尋鰐(やひろわに)になって三嶋の玉櫛姫に通った。出雲に来るときにはワニがアイの村の神玉姫を恋い慕って川を上ってきた。あるいは肥前の風土記にはワニが川上の世田姫(よたひめ)という石神(いしがみ)を慕って毎年毎年流れに逆らって上ってくると書いてあります。

長江流域よりも南にしか住んでいないワニが、玉姫を慕って日本にやってきた。それは玉(ぎょく)を求めて来たのです。長江の流域の人々が玉を求めてやってきた。そして彼らが稲作漁労の神話、日本の神話を生み出したのです。

鳥への崇拝

それからもうひとつの共通性として鳥への崇拝があります。なぜ鳥は神聖かというと、古代の稲作漁労民は、鳥は天と地を往来し太陽を運ぶと考えた。「天地(あめつち)の神の恵みし」です。天地(あめつち)の神の恵みを得るためには天地(てんち)を往来しなければいけない。だから鳥を崇拝した。同じようにマヤの人々もケツァールという鳥を崇拝したんです。鳥は天地(てんち)を往来する。あめつちを往来するのです。

聖樹

そして6つめとして、マヤの人々は聖なる木、聖樹を崇拝した<図5>。セイバという木です。木というのは柱なのです。たとえばなぜ伊勢神宮では心御柱(しんのみはしら)を立てるのか。これは天地(てんち)を結合しているのです。天地(あめつち)を結合する柱、これが心御柱なのですよ。こういう観点で日本の神道を見なければだめです。そして、このマヤ文明の聖樹、これは天と地をつなぐ柱です。

蛇への崇拝

マヤ文明と伊勢神宮の共通性の7つめは蛇を崇拝したということです。これは私たちが今年東京財団のプロジェクトでボーリング調査に行った湖です<図6>。この湖のそば、こういうブッシュの中に実はバルバマリアという毒蛇がいます。普通、蛇は人間が入っていくと逃げていくのですが、このバルバマリアというのは自分のテリトリーに入った人間や動物を攻撃するのです。そしてこの蛇に噛まれると20分で死ぬ。こういう毒蛇がこの湖岸には13種類いるそうです。

そしてそのマヤ文明の蛇信仰が最後にこのアズテクの蛇信仰になるのです。これは怖いですよ。アズテクでは1年は260日と考えられていましたが、この羽毛のケツァールを生やした蛇の神に毎日ひとりずつ、つまり一年で260人の人間を、毎日生贄(いけにえ)にしていった。それがテオティワカンのアズテク神殿の下に遺体として残っています。毎日ひとりずつ、一年で260人も殺すとはなんと野蛮な文明かと、アズテクの文明はこれまで散々批判されてきました。

私はあるとき、アズテクの文明は平和で穏やかな文明だった、自然と共存して素晴らしい文明だということを論文に書きました。すると、イアン・リーダー(英・宗教社会学者)などヨーロッパのキリスト教徒の人々から強い批判を受けました。アズテクの文明は一日ひとり、一年で260人の人間を蛇の神々への生贄にした野蛮な文明だった、というのがヨーロッパ人の主張でした。だから侵略してもいい、スペイン人がこの野蛮な文明を制圧して新しい文明をつくったのだと。これがヨーロッパ人が主張してきたことです。

しかし、アズテクの文明が繁栄した15世紀にヨーロッパの人々が何をしていたか。魔女裁判をやっていたのですよ。魔女裁判では1年に100万人以上の人間が殺されていました。そしてその延長にあるのがいまのアメリカ文明です。アメリカ文明はいまイラクに行って何をしていますか。イラクでは一日に600人もの人が死んでいるのです。一日にひとり死ぬのが何が野蛮だと言いたいですけども、これがいままでのヨーロッパ文明の論理なのです。

蛇に神に捧げるために人間を生贄にしたのは、われわれ日本人も同じです。日本の神話には八岐大蛇(やまたのおろち)の神話があります。アズテクの人々と同じように、人間が蛇の神のために人間を生贄にしたのです。われわれもアズテクの人々と同じ世界観を持っているわけです。

しかし日本には八岐大蛇のような大蛇はいません。ではどこにいるのか。マヤ文明と同じ時代に繁栄した雲南省に「てん王国」という王国がありますが、その青銅器の貯貝器を見てください<図7>。

これは当時の人々の生活を描いたものですが、ここの柱に2匹の大蛇が絡まりまっていて、その隣に裸の女性が柱に括りつけられている。これはまさに人間が大蛇の生贄になろうとしているところです。これはおそらくかつての女王だと思います。女王の力がなくなると生贄になったのです。マヤ文明も同じです。マヤ文明は雨季と乾季がはっきり分かれていて、乾季になると雨がほとんど降らない。したがって、雨季になって雨が降らないと大変です。穀物ができない。そこで王様は雨が降るよう祈るのですが、いくら祈っても雨が降らないとその王様は力がないといって殺されるわけです。たぶんこの女王もそのような生贄なのです。

そして、日本神話の八岐大蛇の物語は、実は長江の流域の人々がもともと持っていた物語なのです。日本には大蛇はいませんが、長江の流域にはかつて人間をひと呑みにする巨大な大蛇がいた。いまも雲南省にはいます。その大蛇が人間を生贄にする、そういうわれわれの世界観はマヤの人々と共通しているのです。

水の循環

もうひとつ大事なことは、このマヤ文明と日本の伊勢神道は、水の文明だったということです。水を非常に大事にした。神社ではまず水で手を洗います。あれは清めるわけです。五十鈴川を見てください。なんと清らかな水が流れているか。水を美しく使う文明、これが伊勢の神道であり、そしてマヤの文明なのです。

マヤの文明は先ほど申し上げたように、雨季と乾季がはっきりしています。乾季はまったく雨が降りません。6月から雨季になると、ものすごい雨が降る。彼らはその雨季の雨の水を貯水池を造って貯めておくのです。そして乾季のあいだ利用するという、完璧な水の利用をやっていた。位の高い王様が水を使った水を次の貴族が使い、次に農民が使い、最後の水を農耕地にやるという、こういう美しい水の循環系を彼らは完璧に維持していたのです。

魚食の文化

そしてマヤと伊勢神宮のもうひとつの共通性、それは何を食べるかということです。太陽の神の内宮(ないくう)は天照。外宮(げくう)は豊受の神、これは食べ物の神様です。21世紀の人類が生き残るかどうかは、人間が何を食べるかということにあるます。
1?の食肉を作るためには1万2,000トンの水が必要であり、ハンバーガーやビーフステーキを食べるということは、大量の水を消費しているということになります。

ところがこの地球上にはもう2.5%の淡水しか残っていません。それをあと20年後には70億近い人々が分け合って生きていかなければならない。そのときに大きなビーフステーキを食べることはできないのです。「肉を食べるな、代わりに魚を食べろ」と外宮の神様は言っているのです。豊受の神は魚を食べる。魚を食べるためには川に水が流れていなければいけない。川に水を流すためには森を守らなければいけない。魚を食べるためには森と水の循環系をきちんと守らないとこの地球で生きていけないのです。

人間は生きるためにはタンパク質を摂らなきゃいけない。そのタンパク質を羊や山羊や牛の肉から摂るのか、それとも魚から摂るか、そこに大きな違いがあります。豊受の神は魚を、マヤの人々も魚を食べた。だから森が残ったのです。

ものづくりと生命文明

そして最後、マヤ文明と伊勢神宮の10番目の共通性、それは今日のテーマでもある「ものづくりとアニミズムの生命文明」ということです。

実はマヤ文明の人は王様もモノを作りました。美しいものを作る人こそが偉かったのです。王様もものづくりに参加し、自ら美しいビーズや玉(ぎょく)や土器を作り、尊敬を集めました。

それだけではありません。たとえばこの戦争の絵を見ると、こちらにケツァールの美しい羽飾りを着けた人の顔があります。戦争のときも美しい羽飾りを着けて行くのです。一方、右手の人は髪の毛を掴まえていますね。髪の毛を掴まえたらもうこれで勝ちなんです。戦争というのは美しいものを作って着飾って、そして相手を威嚇しながら戦って、相手の髪の毛を掴まえたらこれで終わりなのです。殺し合わない。これがマヤ文明なのです。ものづくりに命を懸けて美しいものを作り、そしてときには戦争も起こるけれども、相手の髪の毛を掴まえたらもうこれで勝負はできたのです。

それに対していまの世界はどうですか。先ほど言ったように、イラクでは一日600人の人々が殺されています。そういう文明がなんで野蛮じゃないのですか。蛇の神に一日ひとりの人間を生贄にした。年間たった260人の人間を生贄にした文明が野蛮であって、一日600人の人間を民主主義、自由という名の下に殺している。これが野蛮ではないのですか。これが野蛮であるということをはっきりとわれわれは言わなければなりません。

そしてこの平和で自然と共存する美しい文明の伝統がこの伊勢の地にあるということを、私たちは世界に発信していかなければいけないのです。

    • 元東京財団主任研究員/国際日本文化研究センター教授
    • 安田 喜憲
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