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2018/6/19

明治150年を展望する:第7回「150年をまるごと視野に入れることで」

 ※本稿は2018年1月30日に開催した政治外交検証研究会の議論、出席者による論考をもとに東京財団政策研究所が構成・編集したものです。

第7回:150年をまるごと視野に入れることで

自ら筋の悪い落とし穴に入り込まぬように

細谷 五百旗頭さんが指摘された中国の脅威についてはいかがですか。日本は中国とどう向き合うべきでしょうか。

宮城 問答無用でアジアで唯一だった日本がそうではなくなってきたという話と裏表で、日本が自ら筋の悪い落とし穴に入り込んでいかないよう、気を付けなければならない。

   たとえばですが、尖閣諸島や靖国神社の問題が政治問題化していなかったとしたら、日本にとって中国はどう見えるか。随分違って見えるのではないでしょうか。この手の国民感情に関わる話は巻き戻しが難しい。尖閣諸島の問題も、2012年の石原慎太郎東京都知事(当時)の尖閣購入計画が始まりです。一回、事が起きると巻き戻して考えるのは難しいことが落とし穴だったりするわけです。

 これからの日本にとって大きな宿題のひとつは、いったい中国のどういうところが脅威なのか、脅威ではないのかの見極めです。

   たとえば、中国が主導してアジアインフラ投資銀行(AIIB)をつくったとき、麻生太郎財務大臣は対抗心を露わにして「アジア開発銀行(ADB)が(アジアの)インフラ開発で主導的役割を果たすことが重要だ」と述べましたが、そもそもADBは日本の機関ではないし、現場ではADBとAIIBは協調融資をやったりしている。軍事が絡んでくれば別でしょうが、産業基盤は誰でもが使えるわけです。中国のすることが何でも脅威だと、ラベルを貼ることにばかり熱心になると、なかなか第三国の共感を得るのも難しいでしょう。日本が自ら筋の悪い落とし穴に入り込まないよう心理的調整の舵取りに慎重を要する。それは政治だけではなくてメディアを含め国民が関わる話だと思います。

 

野党のつくられ方――<負け馬に乗る>法則

小宮 宮城さんが指摘された国際環境の変動と国内政治の関係(連載第4,5回)、あるいは五百旗頭さんが論じられた戦前・戦後の憲法の比較(連載第1回)に関連することで付言すると、戦前にも国際環境の変化が政界再編を引き起こしています。

   日本が日露戦争に勝利し、満洲の権益を獲得した後、1911年、中国で辛亥革命が起こります。こうした状況下、対外硬(強硬外交)を唱える在野勢力や、メディアを支持勢力に抱えた大隈系政党が勢力を拡大し、立憲同志会が結成されます(これが後の憲政会、民政党となります)。これに対し、自由党・政友会系の星亨(1850~1901年)、原敬らは、外交交渉はエリートが秘密裏に行うものであり、党員は党首・党幹部が決めた党の外交方針を従順に受け入れ、地域開発といった内政に精力を注ぐ方が望ましい、という考えでした。メディアや大隈系政党の面々は、それでは政治家は育たないし、国民を堕落させると批判しました。

 政党内閣期(1924~32年)は中国の革命外交などがあり、中国のナショナリズムに過剰反応をしてしまいました。たとえば、政友会は野党のときに政府を「軟弱外交」と批判をしていたために、与党になったときには強硬にならざるをえなかったわけです。

 戦後において決定的に大きいのは、55年体制の成立でしょう。1955年に社会党が再統一し、自由党と日本民主党が保守合同して自由民主党(自民党)を結成します。以後、自民党が代表する保守と社会党が代表する革新の対決という構図が固定しました。これは、宮城さんも指摘されました(連載第4回)が、冷戦下の国際環境があまりにも深刻だったからです。

   冷戦終結後、1990年代に日本は政治改革を行います。自民党竹下派内の権力闘争で劣勢となった小沢一郎らが、政治改革を旗印に自民党を離党して新生党を結成したことが引き金となった政界の地殻変動です。日本新党や新生党をはじめとする非自民・非共産の八党派が連立して細川内閣を誕生させ、55年体制を打破しようとします。

   しかし、自民党が連立政権の中枢にいる小沢と対立した社会党、さきがけと連立し、一年で政権に復帰します。これに対し、非自民連立政権の中心勢力が結集した新進党が国際協調に基づく国際貢献、新自由主義を掲げて、自民党に対抗する軸をはっきり打ち出せばよかったと思うのですが、思いのほか早く瓦解しました。こうしたなかで、国民からすると、内政、外交とも政党の立ち位置が見えにくくなり、いまにつながります。

   国際関係の変動が国内の政治的変動をもたらすとき、当事者たちの危機意識の度合いがその帰趨を占ううえで大きな意味をもつのではないでしょうか。

細谷 宮城さん、小宮さんのお話からは、与野党の駆け引きの様子が浮かび上がってきます。五百旗頭さんから見て、野党の発展についても、戦前・戦後の比較ということは可能でしょうか。

五百旗頭 野党が発展するというのは簡単なことではありません。活動をアピールするチャンスは限られますし、選挙でも不利な面があります。日本の野党は選挙でしばしば苦戦しつつも、他の小会派を吸収することで規模を維持し、拡大させました。ただし、その拡大には一定の法則が課せられていたように思います。その法則は、<負け馬に乗る>ということ。勝ちすぎない、拡大しすぎない、ということです。

   戦前の野党の元祖の立憲改進党は、他の会派と合流しつつも野党色ないし大隈重信色を維持しようとします。1896年に進歩党に拡大しますが、第二次伊藤内閣(1892年8月~96年9月)への敵対姿勢を過激化させることで脱落者を出しつつ、限定的な拡大を遂げました。1910年に立憲国民党となりますが、犬養毅(1855~1932年)の唱える小規模合同論が勝利した結果でした。桂太郎が提唱した立憲同志会が1913年にできますが、国民党系がいち早くなだれ込んだため、他の勢力の吸収は不十分に終わりました。1916年に憲政会になりますが、政権を失い、次の選挙で議席が減ることを見込んだなかでした。1927年に立憲民政党になりますが、政権を失った後、次の選挙で苦戦することが見込まれるなかでした。

   冷戦下の保革対立の時代は政党間対立が明確でしたが、冷戦後はまた流動化して、戦前と似てきています。野党を自由につくれるけれども、存続させつづけるのは難しい、ということです。1990年代に行われた政治改革を主導した小沢一郎は、新党をつくる際、大きくつくってから自分の思いどおりになるよう壊しました。1997年の新進党の解体と自由党への純化がその典型です。戦前の、少しずつ大きくするというのとは順番が逆で、<負け馬に乗る>というよりは<負け馬をつくる>観がありました。しかし、大きくしすぎないことで手綱を握りつづける、という結果は共通しています。

   2017年の衆議院議員総選挙の民進党の希望の党への加入と、憲法・安全保障などを基準とした「排除」も、<負け馬に乗る>法則の再来のように見えます。これが不評であったことをどう説明するかによって、戦前と現在の文脈の違いが解釈されますし、異なる政治的インプリケーションが導き出されるであろうと思います。

   いずれにせよ、150年をまるごと視野に入れることで見えてくるものは多々あるのです。

細谷 ありがとうございました。

 

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