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その他
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日付
2017/6/21

【書評】野添文彬著『沖縄返還後の日米安保 ― 米軍基地をめぐる相克』(吉川弘文館、2016年)

評者:宮城 大蔵(上智大学総合グローバル学部教授)

 

沖縄基地問題という難問

 今日の日本の政治外交において、沖縄の基地問題は最大の難問の一つと化しているといってよかろう。1995年秋の少女暴行事件を機に噴出した長年にわたる基地の過重な負担に対する沖縄からの異議申し立ては、大田昌秀沖縄県知事がそれ以前から水面下で政府側に伝えていた代理署名拒否も相まって、日米安保体制を文字通り足元から揺さぶることになった(代理署名とは、米軍基地への土地貸与を拒む地主に対して、米軍用地特措法に基づいて強制使用を可能にするために知事の代理署名が必要とされたことを指す。その後の特措法改正によって、この知事の権限は失われることになった)。

 そのような状況を沈静化させる切り札として1996年4月、橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使によって電撃的に発表されたのが米海兵隊・普天間基地の返還であった。この時点では既存の沖縄の米軍基地内での「ヘリポート」とされた「代替施設」はその後、海に浮かぶメガフロート案など紆余曲折を経て、辺野古沖を埋め立てて二本の滑走路や港湾設備を設ける現行案に膨張した。その建設をめぐり、安倍晋三政権と翁長雄志知事との対立が深刻化しているのは周知のことであろう。このような中で現行案を強行することが中長期的に見て日米安保体制の安定に寄与するのか、事態の行方は見通せないものとなっている。

 さて、この難問の起点がいかに形成されたのかを探るのが、ここで取り上げる『沖縄返還後の日米安保』の主題である。難問の起点とは何か。それはそもそも日本における米軍専用施設の7割以上が沖縄に集中していることである。普天間基地返還の代償とはいえ、21世紀の今日、ただでさえ米軍基地が集中する沖縄に、さらに海を埋め立て、大規模な米軍基地を建設することの是非が、問題を難しいものにしているのである。

 

かつては本土も沖縄同様だった

   しかし振り返ってみるならば、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年の時点では米軍基地の9割近くは日本本土に存在していた。1960年の時点では本土の基地の割合は50%であり、在日米軍専用施設のおよそ7割が沖縄に集中するという状況は、沖縄が本土に復帰した1970年代初めになってからのことである。

沖縄に米軍基地が集中するようになった経緯や背景については、すでにさまざまな書籍や研究で言及されている。簡単に触れるならば、一つには日本本土から米軍が沖縄に移駐したことであり、二つ目には本土ではその後も米軍基地の大幅縮小が進んだことであった。

   沖縄に移駐した在日米軍の代表格が、岐阜や山梨などに駐屯していた海兵隊であった。アメリカの海兵隊史専門家は、本土復帰前の沖縄に海兵隊が移駐した理由について、土地の賃借料など基地を維持する「コスト」が沖縄では低く抑えられていたことに加え、米軍、特にその地上兵力が日本国民から「占領軍」と見られないように「日本の一般市民から部隊を“隔離”すること。そのためには日本本土より沖縄の方がやりやすいのは明らかでした」と語る(NHK取材班『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』)。

   昨今の沖縄で反発を引き起こす米軍による事件事故は、戦後のある時期まで本土でも日常茶飯事であり、東京・立川飛行場の拡張計画をめぐる砂川闘争のような激しい反対も生じた。このような状態を放置することは、日米安保を危機に陥れかねないと懸念されたのであり、1970年代には「関東計画」と呼ばれた首都圏における大規模な米軍基地縮小が実現した。返還された飛行場や米軍住宅地の跡地には大学や公園などが建設された。

 

なぜ沖縄では基地が削減されなかったのか

 沖縄でも本土同様に米軍基地の大幅な削減・縮小が進められていれば、今日のような事態は避けられた可能性が高いであろう。なぜ沖縄では本土のようには基地縮小が進まなかったのか。実のところ、沖縄への米軍基地の集中が固定化したかに見える1970年代以降も大幅な縮小がたびたび検討されていた。しかしながら結果としては、実現には至らなかった。その実相と背景を解き明かすのが本書の目的なのである。以下が本書の構成である。

 

序章 本書の課題と分析の視角

第1章 米国のアジア戦略再編と沖縄返還交渉 1964~69年

第2章 沖縄返還実現と米軍基地縮小問題 1970~72年

第3章 沖縄米軍基地縮小への模索 1972年~74年

第4章 サイゴン陥落と沖縄米軍基地の再編 1974~76年

第5章 日米安全保障関係の進展と沖縄米軍基地 1977~85年 

終章 施政権返還後の沖縄米軍基地と日米沖関係

 

以下、本書の構成に沿って内容の概略を紹介する。

 

潰えた大幅縮小の可能性とその帰結

 序章においては1970年代を中心に、沖縄の本土復帰(施政権返還)後、沖縄米軍基地がどのように維持されたのかを、米国・日本・沖縄の相互関係から明らかにすることが本書の目的だとされる。

著者(野添)によれば、これまで沖縄米軍基地をめぐる歴史研究は、沖縄戦から1972年の施政権返還実現までの時期に集中してきた。また1990年代以降については、普天間返還合意後の動きなどを中心に、ジャーナリズムや現状分析的な著作が多く刊行されている。

   これに対して施政権返還後から1990年代までの時期が、研究上の空白期になっている。しかしこの間に動きがなかったわけではなく、むしろ米軍基地の沖縄への集中が固定化されたという点で、今日の沖縄基地問題を考察する上でもきわめて重要な時期であることを著者は強調する。そして結論を先取りして次のように言う。「沖縄返還とその直後、日米それぞれの政府内では沖縄米軍基地の見直しが検討され、その大規模縮小の可能性もあった。しかし、米国政府・日本政府・沖縄の相互関係の中で、その可能性は潰え、沖縄米軍基地の大部分が維持されていく。しかしこのことは、日米安保体制の構造的不安定要因となっていくのである」(本書9頁)。

 

沖縄返還交渉の始まりと米国のアジア戦略再編 

 第1章では、1960年代半ばから佐藤栄作政権下で開始された沖縄返還交渉と米国のアジア戦略再編の動きが、どのように連関したのかが分析される。1968年に行われた初の琉球政府行政主席公選では、即時無条件返還を掲げた革新系の屋良朝苗が当選し、米政府内でも施政権返還は不可避だという認識が強まっていく。

1969年にはニクソン政権が発足し、沖縄返還を決定するが、沖縄の基地については朝鮮半島、台湾などを睨んで米軍による最大限の自由使用を確保することが必要だと考えられた。しかし一方で日本国内では、「核抜き・本土並み」の返還を求める声が強まっていた。

   この中にあって佐藤首相が下した判断は、米軍による日本本土の基地使用を明確に保障することによって沖縄の基地の役割を相対的に薄め、沖縄の「核抜き・本土並み」を実現するというものであった。佐藤自身の言葉でいえば、「沖縄は核抜き、本土並み・・・但し、朝鮮半島で事が起こったら本土基地を使わせる。その際、日本が戦争へ巻き込まれてもやむを得ない」(米誌の取材に対する答え)という判断である。一方で佐藤は、ベトナム和平や中国における文化大革命終結など、アジアの国際情勢は緊張緩和に向かうと見ていた。

   こうして1969年11月に訪米した佐藤とニクソンが沖縄返還を発表した際、日本の安全保障にとって韓国は「緊要」であり、台湾は「重要」であるとする「韓国条項」「台湾条項」を示した。米側と極東戦略についての認識が一致することを示し、沖縄返還後の基地使用に関わる米側の不安を払拭することを意図したものであった。

   返還交渉の過程で沖縄米軍基地の規模は日米間の議題とはならなかったが、米側ではベトナム戦争後を睨んでアジア太平洋における米軍再編の検討に取りかかっており、一方で佐藤は返還後の米軍基地は整理縮小されるべきものだと考えていた。この時点で沖縄米軍基地の大半が維持されることは、決して自明ではなかったのである。

 

実現しなかった大幅縮小 

 第2章では返還合意後から、返還実現までの時期が対象となる。ニクソン政権は1970年代に入ると米国の負担軽減と同盟国に負担の分担を求める方針を「ニクソン・ドクトリン」として公式化する。

   これに基づいて南ベトナム、韓国、フィリピンから米軍の大規模な撤収が行われ、日本でも当時の在日米軍兵力の3分の1にあたる兵力撤退が合意された。ところが沖縄では上記の削減のしわ寄せを受ける形で、逆に米軍基地が強化されることになった。ベトナムから沖縄に移駐した海兵隊は、その典型例である。

 日本国内では政府内においても、沖縄返還実現までに沖縄米軍基地の整理縮小を求める動きが強まるが、米側は否定的であった。沖縄の施政権返還にそもそも米軍は消極的であり、米政府も沖縄米軍基地の機能は維持されると米議会に説明しており、基地の縮小は沖縄返還協定批准に悪影響が出かねないと捉えた。

   米側の厳しい姿勢に直面した日本政府は、1971年以降、沖縄米軍基地の整理縮小をより限定的なものとしていく。これに対して屋良主席は71年6月の沖縄返還協定調印に際して、「基地の形式的な本土並みには不満を表明せざるを得ません」と談話で述べ、翌月の地元紙での世論調査でも復帰後の基地のあり方について「今のままでよい5.6%」、「本土並みに縮小26.6%」、「基地は撤去27.2%」と、基地の縮小を求める意見は根強かった。

 1971年7月にはニクソン訪中が電撃的に発表された。米中接近の動きは日本国内や沖縄で緊張緩和への期待から、沖縄米軍基地縮小への期待を高めることになった。特に外相に就任した福田赳夫は繰り返し米側に要請を行ったが、その背景には佐藤後継の首相の座をねらって、自らの政治的立場を強化したいという思惑もあった。

 しかしその福田も米側が、那覇空港返還に伴って米軍機を玉突きの形で岩国(山口)、三沢(青森)など本土の米軍基地に移駐させる計画を提示すると、地元の強い反対を理由に「沖縄の中での移転は可能だろうか」と問う。特に佐藤首相の選挙区である岩国への移転は回避する必要があった。

 悲願であった沖縄返還を実現した佐藤首相は直後に引退するが、琉球政府主席から初代の沖縄県知事となった屋良に対して、「特に基地問題についてはその整理縮小は姿勢と方向性は示されたが具体的に実現せしめる事ができなかった事は残念である」と述べ、屋良は次期政権への引き継ぎを要請したのであった。

 

沖縄県発足後の基地縮小の模索 

 第3章以下では、1972年5月の沖縄の本土復帰後の状況が扱われる。ニクソン政権下の米中接近は、それまでのアジア冷戦の構図を溶解させるものであり、日本国内では、依然としてつづくベトナム戦争に在日米軍基地が使用されていることに対する反発も高まっていた。72年9月には沖縄の米軍基地内で米海兵隊員が日本人基地従業員を射殺する事件もおき、沖縄での基地縮小を求める声は強まった。

 1973年1月にベトナム和平合意が調印されると、基地縮小を求める声はますます強まった。日本政府でもとりわけ防衛施設庁は沖縄米軍基地の大幅縮小に熱心で、基地の実態調査を踏まえた具体的な計画を作成し、米側に提示している。5月には総務庁長官として沖縄返還に携わるなど、沖縄と深い関係を持つ山中貞則が防衛庁長官に就任し、これを後押しした。米政府内では国務省や駐日大使館が海兵隊の沖縄からの撤退を検討し、国防省でも効率性の観点からこれを支持する意見もあった。

 しかし、1974年1月に日米両政府が合意した沖縄米軍基地の整理縮小は限定的なものにとどまった。米軍部は沖縄での基地縮小が沖縄からの全面的な撤退に繋がることを警戒し、日本政府もアメリカのアジア全域にわたる関与が低減傾向にある中、海兵隊をアメリカの関与の象徴として、その沖縄からの撤退を引き留める傾向も見られた。

 米側ではそのような日本側の不安を見てとり、それを在日米軍駐留経費の日本側負担の増額要求のテコに用いる場面もあった。この状況にあって積極的な予算増で応じた防衛庁長官の金丸信は、「もしアメリカがいなくなったときの日本の防衛努力なんていうものはこんなものではとてもいかない」。従って「アメリカの兵隊を傭兵として使う」ためには「金も要るのだ」と述べている。こうした力学の下で在日米軍駐留経費の日本側負担額は増加し、1978年の国会における金丸の答弁を機に、「思いやり予算」と呼ばれることになる。

 一方で沖縄では復帰後、日本政府が支払う軍用地料の大幅な引き上げが行われた。沖縄の軍用地料は復帰前の1971年度に約28億円だったものが、復帰後の72年には約215億円、73年度には221億円、74年度には313億円へと上昇し続けていた。その結果、基地の集中する読谷村や嘉手納村では軍用地料の額が村の歳入額を上回るという現象が起きる。

   その結果、軍用地主の中には基地の返還にむしろ反対する者も表れるようになった。軍用地料の急速な引き上げは、それによって基地返還要求を沈静化させようとする日本政府の施策でもあった。

 

沖縄社会の保守化から95年以降の激動へ

 1978年12月の沖縄県知事選挙では、自民党の代議士であった西銘順治が革新系候補を破って当選し、以後、3期にわたって県知事を務める。こうして沖縄社会の保守化が進んだと見える一方で、基地縮小を望む県民世論は依然として根強く、西銘も訪米して普天間基地の返還を直接米政府に訴えるなど、基地縮小には注力した。しかし、日米両政府がその時点で、本腰を入れることはなかった。

 西銘は1990年の知事選挙で革新側が擁立した大田昌秀に敗れる。1995年には米軍人三人による少女暴行事件が発生し、大田は代理署名に応じないことを決める。これは暴行事件発生以前から、冷戦終結後も沖縄の基地が恒久化しかねないと危機感を募らせた大田が選んだ異議申し立てであった。

   この状況について大田は次のように述べる。「あの不幸な少女事件があったから、県民の怒りが爆発し、基地の整理・縮小を要求したのではない。県民は復帰以降、粘り強く基地の返還を求め続け、日米両政府の沖縄に対する差別的対応にも耐えてきた。こうした長い交渉の過程で蓄積した不満や怒りが、あの不幸な事件の前には、爆発寸前にまで鬱積していた」。

   この事態に対応すべく、橋本龍太郎首相はモンデール米大使とともに1996年4月、普天間基地の返還合意を発表する。今となっては、その後につづく迷走の始まりであるが、それは同時に、復帰実現以降、国政の重要課題として扱われてこなかった沖縄基地問題が、再び国政の重要問題に浮上したことを意味するものでもあった。

   本書は次のように述べて、その終章を締めくくる。「1990年代以降、沖縄米軍基地は日米関係や日本政治の大きな争点となり続けているが、その土壌は、すでに沖縄返還以後から徐々に形成されてきたものだったのである」(本書224頁)。

 

本書の評価

 本稿冒頭で述べた難問と化した沖縄基地問題の起点、すなわち沖縄に集中する米軍基地の固定化がいかにして形成されたのかを、解禁された外交文書などを用いて実証的に解き明かしたのが本書の大きな功績である。とりわけ、沖縄の施政権返還という一大事業が成し遂げられたあと、研究上の空白となっていた1970年代について、どのような政策構想が存在したのかを詳らかにした意義は大きい。

 その上で言うならば、海兵隊の撤退を筆頭に、沖縄米軍基地の大幅な整理縮小を目指すさまざまな構想が存在したのは本書でよく分かった。一方で、それらがそれぞれの時点の政治力学等の中にあって、どの程度現実味のあるものだったのか。その辺りについての整理がもう少し踏みこんでなされていれば、本書の意義はますます高まったに違いない。

   しかし沖縄返還交渉のように、「実現したこと」について政策決定過程を跡づけるのと比べると、本書のような「実現しなかったこと」について、同様に政策決定過程を緻密に辿ることは容易ではない。そのことを踏まえれば、まずは種々の構想の存在を明らかにしただけでも、本書の意義は評価されるべきであろう。

 またアメリカ側のみならず、日本側においても当該時期にさまざまな政策構想が存在していたことは興味深い。日本政府内ではアジアにおける米国の軍事的プレゼンスは重要だとする一方で、日本国内の都市化等によって米軍基地との摩擦が増加していることから、米軍基地の整理縮小は必要だと認識していた。

   論客として知られた防衛庁の久保卓也防衛局長は、冷戦下の緊張緩和の中にあっても日米安保の重要性は変わらないとする一方、「基地の存在からくる具体的な、多くの問題が国民感情を刺激し、それがまた高揚するナショナリズムとも結んで、反安保、さらには反米の感情も高まっている」とし、それゆえ「日米安保条約を存続させながらもその存在をなるべく目に見えないようにする、すなわち基地の縮小、米軍の削減、有事駐留方式への移行」といった努力が必要だと論じた。

   その際には日米安保の抑止力を維持するため、「米軍が有事に来援しやすい基盤をつくっておくこと(基地等有事駐留の準備)」「米国の平時抑止力保持への寄与(第七艦隊への便宜供与)」などが必要だと久保は指摘した。

   その立場上からいっても、基地と日米安保体制の撤廃を求めるような議論に与することはないが、かといって基地の現状固定化は国民感情、住民感情から安保体制を不安定化させかねない。従って有事駐留への移行も含め、在日米軍基地の存在感を希薄化させる不断の努力が必要だという久保の議論は示唆に富む。

   米軍のプレゼンスをスリム化のするための「不断の努力」。その昨今における沖縄版が、普天間基地返還の代償としての辺野古新基地の建設なのか。それは逆に、県内に大規模な米軍基地を新たに建設することで、沖縄における米軍基地の恒久化を意味することでしかないのか。問題は現在進行形である。

   本書が浮かび上がらせるもう一つの観点は、政治の役割ということであろう。外務省で北米局長などを歴任し、沖縄問題に深く関わった佐藤行雄は、沖縄返還の実現は「政治のエネルギー」によって可能になったと振り返る。一方で返還後の沖縄の基地問題について佐藤は、「沖縄に負担がいっぱいかかっているということと、アメリカのアジア太平洋における存在が安定材料になっているというのは、全く次元の違う話」だと語る。しかしそれは、外務官僚の観点からすればということであろう。現実には「地域安定装置」としての米軍プレゼンスは、その負担の多くを沖縄が背負うことでかえって脆弱性を抱えることになった」と著者は言う(本書222頁)。

   著者は沖縄返還が国民的な関心を背景に、佐藤栄作など政治家主導で取り組まれた問題であったのに対し、返還後の基地問題に関しては国民的な関心や政治家の関与が希薄であったと指摘する。

   1995年を機に、沖縄が基地問題を中心に再び国政の重要課題となってから10余年が経つ。上記のような「脆弱性」をいかにして解消し、日米安保体制をより安定的、持続可能なものとするのか。果たして、現状はそのような方向へ向かっているといえるのか。歴史研究でありながら、重い今日的問いかけを内包する本書である。