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【書評】『政党内閣の崩壊と満洲事変―1918~1932―』小林道彦著(ミネルヴァ書房、2010年)

June 23, 2010

評者:小宮一夫(駒澤大学法学部非常勤講師)

1.はじめに

1931年9月、関東軍が柳条湖事件を引き起こした。これに端を発する満州事変を第二次若槻内閣(立憲民政党)は解決できないまま、総辞職に至った。替って登場した犬養内閣(立憲政友会)も満州事変の解決に取り組むさなかの1932年5月、犬養毅首相が官邸で海軍の青年将校らによって暗殺される五・一五事件によって、総辞職となった。周知のとおり、このあと政党内閣は第二次世界大戦後まで復活することはなかった。1924年から続いた政党内閣は、8年でその歴史の幕を閉じたのである。

「なぜ政党内閣が終焉したのか」、「政党内閣が満州事変を解決する可能性はなかったのか」という問いは、これまで多くの日本政治史、日本外交史、日本近代史の研究者を魅了してきた。また「政党内閣が『軍部』を統制し、満州事変を解決できなかった」という歴史的事実は、政軍関係や文官統制の問題、民主体制の崩壊といった問題を考察するうえでの貴重な「歴史の教訓」を与えるであろう。

上記の問いや諸問題を考えるうえで、さまざまな示唆を与えてくれるのが第一次世界大戦後から1930年代初頭までの政軍関係を分析した本書である。

2.本書の構成と概要

本書の構成は、以下の通りである。

はじめに―研究史の整理と課題の設定
 序章 政党による陸軍統治
第一部 二大政党制と陸軍統治の動揺
 第一章 田中政友会と山東出兵
 第二章 相対的安定と破局への予兆―浜口雄幸と宇垣一成
第二部 政党政治と陸軍統治―その同時崩壊
 第三章 政党内閣と満洲事変
 第四章 政党内閣の崩壊
おわりに―一九三五~三六年・陸軍統治システムの解体

「はじめに」によれば、本書の課題は、政党内閣制・「ワシントン体制」・金本位制という大正デモクラシー期を支えた三つの政治経済システムが1931年から32年にかけて同時崩壊したメカニズムを、「実証的政治過程分析」によって解明することである。

序章は、本文だけで57頁に及ぶ。ここでは、立憲政友会総裁原敬を首班とする原内閣の成立(1918年)と、陸軍を長年支配してきた山県有朋の死(1922年)によって、政党と陸軍の政軍関係が大きく変容していく過程が分析されている。原首相は、田中義一陸相と連携し、統帥を担う参謀本部よりも軍政を担う陸軍省が優位の陸軍統治体制の構築を図った。本格的な政党内閣を組織した原は、統帥権をも含む「政治の全責任」を政府が負う政治体制の創出をもくろんでいたのである。

こうした動きに対し、参謀本部を拠点とする薩摩出身の上原勇作は、陸軍の主流である長州系の田中が政党政治に呑み込まれているとして、猛反発した。そして、「陸軍の最終意思決定者」であった山県が死去すると、田中と上原の対立は深刻さを増した。ただし両者とその周辺の対立は、軍縮問題や中国問題といった政策よりも陸相人事をめぐって表面化した。

第二次山本内閣で陸相に返り咲いた田中は、次の清浦内閣において、上原系の推す福田雅太郎ではなく、自らが後継者と見なす宇垣一成の陸相就任に成功した。そして田中及び宇垣陸相は軍政優位の陸軍統治をさらに推し進めるべく、上原系を参謀本部から排除し、参謀本部を田中―宇垣の統制下に置くようになったのである。なお本章では、上原系の陸軍内における影響力は限定的で脆弱なものであったことが強調されている。

また、本章では、陸軍がアメリカによる中国の国際管理を警戒し、それを阻止するためにも中国の門戸開放・機会均等というワシントン会議の精神は尊重すべだと考えていたことも明らかにされている。

いよいよ第?部から本論に入る。第?部では、「ワシントン体制」が中国革命の進展によって動揺を始め、政党勢力による陸軍統治が徐々に機能不全に陥っていく政治過程が描かれている。

第一章は、政友会総裁となった田中義一を首班とする田中内閣のもとで三次にわたって行われた山東出兵を事例に、田中内閣期の政軍関係が明らかにされる。

本章では、田中が山東出兵を行った理由として、田中が首相に就任した当時においても陸軍全体を支配下に置いていたことに着目する。田中にとって、山東出兵は単に日本の権益を死守するというだけでなく、政党政治と陸軍をただ一人の手でコントロールできるのは自分だけであることを証明する絶好の機会でもあった。田中は「積極外交」という名の政略出兵として山東出兵を行ったのである。

ところで、「養子総裁」であった田中は、鈴木喜三郎ら新興の官僚派と提携し、高橋是清ら原敬以来の「旧政友派」との関係は微妙なものであった。要するに、田中は党首として政友会を十分に掌握していなかったのである。そして著者は、田中の党内権力基盤の脆弱さとそれに起因する政軍関係の動揺が田中内閣による第一次山東出兵の混乱をもたらしたとする。

そして、第二次山東出兵が行われ、済南事件が勃発すると、田中の「非制度的な政治力」で参謀本部を抑えることが困難となっていく。さらに、張作霖爆殺事件の処理をめぐって、陸軍との軋轢が生じ、田中の陸軍支配は終焉を迎えるのである。

続く第二章では、立憲民政党の浜口内閣の成立からその後継である第二次若槻内閣が誕生し、満州事変が勃発するまでの政軍関係が検討される。

ロンドン海軍軍縮会議の成功を至上命題とする浜口内閣は、宇垣陸相率いる陸軍との関係を良好にするため、陸軍の軍縮には手をつけなかった。また、田中内閣と異なり、浜口内閣は蒋介石が率いる国民党を中国の「赤化」の尖兵と見なさず、中国の近代化への積極的関与を行った。それを象徴するのが国民政府及び満州を支配する張学良政権に対する兵器輸出であった。

また著者は、井上準之助蔵相の経済秩序構想についても、興味深い論点を提起する。著者が明らかにしたところによれば、井上が満州と朝鮮を切り離し、朝鮮は日本本土と経済的に一体化すべきだという構想を抱いていた。これは、日本帝国の範囲を身の丈にあった規模まで縮小させようという画期的な構想であった。なお、経済市場としての朝鮮半島を重要視する井上は、朝鮮半島の政治的安定の維持という観点から、朝鮮への師団移駐に対して賛成の意を示した。

そして、第二次若槻内閣成立後、民政党内から急進的な軍縮論が噴出すると、幣原外交と井上財政への違和感を強めていた宇垣陸相は、これに失望し、閣外へ去る。これは、山県の没後、強力な首相と強力な陸相とのコンビネーションによって機能していた山県没後の陸軍統治体制が解体へと向かう序奏であった。

いよいよ満州事変が勃発し、政党内閣は終焉へと向かう。第?部では、満州事変の勃発以降、政党内閣及びそれと共存関係にあった陸軍統治システムが同時崩壊していく政治過程が描かれる。

第三章では、第二次若槻内閣や陸軍省が満州事変勃発後、事変の処理に取り組み、それが不首尾に終わる過程が描かれる。本章で著者が強調するのは、石原莞爾ら関東軍の政戦略が巧みだったからではなく、むしろ陸軍内の対立や内閣の不手際である。

クーデタ未遂に終わった十月事件後、陸軍内では、白川義則軍事参議官―南次郎陸相・金谷範三参謀総長―永田鉄山陸軍省軍事課長・今村均参謀本部作戦課長という穏健派が主導権を掌握するかに見えた。しかし、白川ら軍事参議官が人事の大幅刷新による陸軍の軍記粛正を唱えると、南陸相と白川は反目・対立し、連携の機会を逸した。

しかし、金谷と幣原が統帥権の発動(臨参委命)によって統帥権の暴走を抑えようとし、今村は参謀本部から金谷を支えた。こうして、「独走の連鎖」は一旦断たれ、事態は沈静化したかに見えた。追い込まれた石原は、外交官の吉田茂や政友会の森恪が唱える満洲委任統治論に傾きかけたのである。

だが、スティムソン談話をめぐる幣原外相の不手際(「統帥権干犯・軍機漏洩」)と安達謙蔵内相らによる協力内閣運動によって、関東軍は政治的窮地から脱することができた。そして若槻内閣は閣内不統一で総辞職に至る。

第四章では、政友会の犬養内閣の事変処理が分析の俎上に上る。通説と異なり、著者は、犬養内閣が関東軍による錦州攻略を承認したのは、「支那駐屯軍」の暴走により、華北全土に戦火が拡大することを防ぐためであったとする。老獪な犬養首相は、張学良を排除した「南満独立政権」の樹立で事態を収集し、日中和平工作の実現を密かに図ろうとした。こうした犬養の対中国政策は、上原や参謀本部内の穏健派の支持するところでもあった。

しかし、海軍が引き起こした第一次上海事変により、犬養の構想は打ち砕かれる。そしてこれ以降、海軍内では対中強硬論の艦隊派が台頭する。それでも犬養は諦めることなく、国民政府との直接交渉の可能性を粘り強く探り続け、五・一五事件を迎えるのである。

「おわりに」では、五・一五事件後、軍部の政治的台頭と陸軍内部で権力の中心の拡散が同時進行していったこと、陸軍省に権力を集中して軍部内の統制を回復・強化することをめざした永田とその路線の継承者渡辺錠太郎の暗殺によって、陸軍統治システムを支えた精神が断絶に至るという展望が述べられている。

3.論点

第一次世界大戦後から1930年代初頭までの政軍関係を検討した本書は、従来の通説に修正を迫り、新たな政軍関係像を打ち出している。

では、本書で如何なる通説が修正を迫られたのであろうか。第一に指摘すべきは、上原派に対するものである。『上原勇作関係文書』が1976年に公刊されて以降、参謀本部を拠点に上原派が日露戦後から一定の確固たる影響力を陸軍内で持っていたという歴史像が一般的であった。しかし、本書の分析で明らかなとおり、軍政を担う陸軍省は統帥を担う参謀本部に対し優勢であり、上原派の陸軍内における影響力はかなり限定的なものであった。本書から窺える上原派は、反長州閥を最大公約数とする雑多な同床異夢の集団に過ぎなかった。

次に、田中内閣期において、田中首相が外相を兼摂したことにより、外務次官の森恪がいわゆる田中外交を牽引したという通説は、日中戦争のさなかの1940年に公刊された森の伝記(『森恪』)が創り出した「神話」に過ぎなかったことが明らかになった。

また、犬養内閣においても、犬養首相は親軍的な内閣書記官長の森に対中外交で主導権を握られ、それに引き摺り廻されていたという歴史像に対しても、本書は修正を迫る。本書で打ち出された新たな像は、犬養が自らの構想に基づき、満州事変によって大きく関係が悪化した対中関係の改善に主体的に取り組もうとしていたというものである。

これらの像は、通説に安易に依拠することなく、広範な公刊・未公刊の史料を徹底的に読み込み、自らの確固たる歴史像を打ち出そうとする強靭な精神から生み出されたものである。こうした姿勢は、本書の眼目である政軍関係や陸軍の統治システムの分析においても貫かれ、以下の論点が打ち出されている。

まず陸軍の統治システムに関しては、宇垣陸相の時代(1920年代)までは、軍政(陸軍省)優位のシステムが機能し、陸相は参謀本部の人事権も掌握していたことが明らかにされた。陸軍省や参謀本部も官僚機構の一つである以上、人事問題は省庁内政治の最重要課題であったのである。

そして、政党内閣期の政軍関係において、もっとも重要なことは、「強力な首相」と「強力な陸相」という組み合わせが実現するか否か、であった。首相の他の閣僚に対する優越権が保証されていない分権的な明治憲法体制下においては、田中義一や宇垣一成といった「強力な陸相」を使いこなすには、首相の強いリーダーシップや「カリスマ性」が必要であった。こうした資質に恵まれていた政党政治家が政友会の原敬や憲政会の加藤高明、その後身の民政党の浜口雄幸であり、彼らは「強い首相」たりえたのである。

ところで、陸相時代は陸軍を掌握していた田中は、首相時代、陸軍をコントロールできなかった。これは、政友会における田中の党内基盤が強いものでなく、田中が「強力な首相」ではなかったことも大きく関係しているのである。これに対し、党内を確固と掌握していた浜口は「強力な首相」であり、これが「強力な陸相」である宇垣を内閣につなぎとめるうえで重要な役割を果たしたのである。

このように、本書からは、制度運用を実際の政治過程のなかで見ていくことの重要性が陸軍の人事問題や政軍関係の事例分析から浮き彫りにされる。

「政党内閣はなぜ満州事変の処理に失敗したのか」という問題に関して、著者は幣原外相のスティムソン談話をめぐる不手際や、若槻・犬養首相の政治力(指導力)の弱さといった人的要因を重視する。これは、著書が満州事変勃発から五・一五事件にかけての国内外の状況は、まだ決して後戻りできない時期ではなく、「政治の力」によって事態を何とか沈静化できる可能性があったと考えるからであろう。

以下、本書に対する課題を述べたい。まず序論及び第?部と比べて、第?部の記述はやや平板で、時に冗長を感じる。

また、本書では、政党内閣の対外政策を、党内状況を視野に入れ、それを踏まえて論じていこうとしているが、これがもっとも成功しているのは田中内閣のところである。しかし、それ以外の内閣においては、田中内閣でなされたような党内の状況に対する分析が十分とは言い難い。これらは、政党政治を研究する者に残された課題といえよう。

そして、「政党内閣がなぜ崩壊したか」という問題に対し、詳しい著者の見解が欲しかった。著者が政党内閣の崩壊そのものについて論を展開しなかったのは、著者が政党内閣(制)や政党政治そのものに対して、軍部と比べて関心が薄く、評価が高くないからであろうか。

著者の問題関心から鑑みて、著者は今後、日中開戦に至る過程や日中戦争の拡大過程へと研究の歩を進めていくのであろう。著者が戦前期の政軍関係に関して、今後どのような興味深い論点を提起していくか、楽しみである。

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