タイプ
その他
プロジェクト
日付
2010/6/25

【書評】『近代日本の鉄道構想』老川慶喜著(日本経済評論社、2008年)

評者:稲吉晃(東京大学客員研究員)


鉄道は、近代を代表する交通インフラである。貨物を大量に輸送できるだけでなく、輸送の高速化・定時性・コスト低下などをもたらした点で、鉄道は経済に大きなインパクトを与え、市場規模の拡大をもたらした。鉄道がもたらすインパクトは、決して経済的なものにとどまるものではなく、人々の空間・時間認識にまで影響を与える。鉄道敷設は、国民国家の形成や対外進出、都市文化と郊外生活の生成、地域社会の振興など、さまざまな場面で近代世界を彩っており、経済史はもちろんのこと、政治史・外交史・社会史・思想史などさまざまな分野で研究対象とされている。

ところが、以上のような豊富な研究の蓄積がありながら、鉄道敷設を通じて全体としてどのようなネットワークを構築しようとしていたのか、あるいはネットワーク構築のためにはどのような方法がふさわしいのか、という鉄道敷設をめぐる構想を正面から取り上げた研究は、意外と少ない。本書は、実証的な鉄道史研究における大家である著者が、明治期の日本鉄道史のさまざまな局面で現れる鉄道構想を整理し、一冊にまとめたものである。

本書の構成は、以下の通りである。

 はじめに
 凡例
 第1章 明治初年の鉄道構想
  第一節 一八六九年の廟儀決定と井上勝
  第二節 福沢諭吉の鉄道認識と谷暘卿の建白書
  第三節 犬養毅と田口卯吉の鉄道政策論争
 第2章 企業勃興期の鉄道構想
  第一節 企業勃興と佐久間剛蔵
  第二節 鉄道雑誌の誕生
  第三節 松方正義の鉄道政策論
  第四節 井上勝の鉄道網構想
 第3章 鉄道敷設法の制定と鉄道構想
  第一節 井上勝「鉄道政略ニ関スル議」の鉄道構想
  第二節 佐分利一嗣の鉄道構想
  第三節 鉄道敷設法の鉄道構想
  第四節 私鉄の発展と小鉄道分立経営体制
  第五節 後進地域の鉄道構想
 第4章 地域経済界と鉄道敷設構想
  第一節 川越商業会議所の鉄道構想
  第二節 京都鉄道と京都財界
  第三節 横浜商人と横浜鉄道
 第5章 『東京経済雑誌』の鉄道構想
  第一節 経済学協会鉄道調査委員会の鉄道構想
  第二節 鉄道敷設法の制定と『東京経済雑誌』
  第三節 鉄道国有論の台頭と『東京経済雑誌』
 第6章 鉄道国有論に抗して
  第一節 鉄道国有化の歴史過程
  第二節 南清の鉄道構想と「自由競進論」
  第三節 『鉄道時報』と近畿地方鉄道大合同
 おわりに
 索引

交通インフラの整備には、多様な利害を反映してさまざまな構想が打ち出されるものであるけれども、そのような構想は、現実の政治過程や経済効果の前には見過ごされがちである。時として、単なる個別利益の要求として語られるか、あるいは他の政治課題解決のための手段として扱われる。もちろん、自らの要求や政治課題を実現するための手段として交通インフラがあるのであって、その逆ではない。したがって、以上のような見方は、基本的には正しい。けれども、本書の叙述から改めて認識されるのは、当時において積極的に語られた交通インフラ構想(あるいはそれをめぐる論争)を跡付けることによってこそ、交通インフラをめぐる同時代の問題意識とその解決策を模索する姿が浮き彫りになる、という点である。そしてそれは、長期にわたって検討されることにより、従来の鉄道史イメージとは異なる視点を提供しうる。

たとえば、鉄道史を研究する際に主要テーマとして取り上げられる課題のひとつに、「国有か、民営か」という鉄道の経営形態をめぐる政策対立がある。けれども、本書によれば、明治前半期の鉄道政策をリードした鉄道官僚である井上勝にとって、それはさほど重要なテーマではなかった。井上にとって最も重要であったのは、なるべく早く、長い距離を敷設することであって、その時々の経済や財政の状態に応じて、国有も民営もあり得たのである。井上にとっては全国的な鉄道ネットワークの構築こそが重要なのであり、そこで問題視されるのは、民営それ自体ではなく不安定で非効率な小鉄道の乱立状態であった。そしてそれは、必ずしも井上個人の問題関心ではなく、明治2(1869)年の鉄道敷設の廟儀決定から明治39(1906)年の鉄道国有法制定に至るまで、鉄道をめぐるさまざまな構想の通奏低音として流れていたのである。

一方で、鉄道敷設を希望する地域社会にとって重要であったのは、やはり経営形態ではなく、如何に早く鉄道を敷設するかという点であった。鉄道ネットワークの形成により創られた東京や大阪などの中央市場へと接続されることを、地域社会は求めていたのである。本書で検討された明治期の鉄道構想に共通して問われていたのは、「国有か、民営か」という狭義の経営形態ではなく、政府や地域社会が如何に交通インフラの整備に関わるべきか、という点であった。換言すれば、時々の経済状況に左右される不安定な民営論と、これまた決して安定的な財源をもっていたとはいえない政府や地域社会が、如何に着実にインフラ整備を進めていくべきか、という点であった。これまで挿話的にしか語られてこなかった鉄道をめぐるさまざまな構想を長期にわたって検討することにより、以上のようなイメージを呈示したことに、本書の意義があるといえよう。

しかし、明治期の交通構想を検討するにあたって、その対象を鉄道のみに限定したことは果たして適切であったであろうか。確かに、鉄道はその輸送の定時性や輸送量、スピードなどの点で、従来にはないインパクトを有していた。けれども、日本国内の全ての交通が、鉄道に一挙に切り替わったわけではない。従来からの陸運や河川舟運、沿岸海運なども、依然として地域社会における重要な輸送手段であった。本書の各所でいみじくも述べられているように、ほとんどの鉄道構想は他の陸運や海運との接続を意図しており、これらとの補完関係を構築することによって全体としての交通ネットワークの形成が構想されていたのである。

しかもそれは、東北や金沢などの事例にみられるように、時として東京や大阪を中心とする中央市場から独立した市場の創出を目論むものですらあった(130~136頁)。経済発展に取り残された東北や日本海側地域では、東京や大阪などの国内の中央市場への接続を求めると同時に、日本海を挟んだ中国市場、あるいはシベリア鉄道や太平洋航路を通じて直接欧米市場へと結びつこうとする構想が、積極的に語られていたのである。したがって、これらの地域において如何にして交通インフラ整備が構想されたのか、鉄道に限定しない交通構想という観点から検討することが今後に残された課題といえよう。それにより、本書の「はじめに」で言及されている、近代日本における経済発展の地域偏差という課題に取り組むことも可能になると思われる。

とはいえ、以上に述べた課題は、近代日本における交通構想をまとめた数少ない試みである本書の意義を損なうものではない。むしろ、交通構想というテーマの今後の発展可能性を示唆するものである。鉄道史の豊富な蓄積のうえに、近年研究が進んでいる海運史・港湾史の成果が組み合わされるとき、はじめて近代日本における交通構想の全体像が明らかにされるであろう。