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【書評】Daisuke Ikemoto, European Monetary Integration 1970-79: British and French Experiences (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2011).

November 9, 2012

評者:小川浩之(東京大学大学院総合文化研究科准教授)


本書は、1970年代の欧州通貨協力に対して、イギリスが参加の権利を留保しつつ、最終的にその中核をなす為替相場メカニズム(ERM)への参加を見送った理由をフランスとの比較を念頭に解明したものである。目次は以下の通りである。

第1章 イントロダクション
第2章 欧州統合研究における各国の政党と政党システム
第3章 EEC加盟交渉中のイギリスのEMUへの政策、1970~71年
第4章 イギリスとEMUに向けたEECの最初のステップ、1971~74年
第5章 欧州通貨統合に関する英仏の政策比較(1):1976年の通貨危機
第6章 欧州通貨統合に関する英仏の政策比較(2):EMSの設立、1978~79年
第7章 結論

まず、第1章で、本書の主な目的として、1970~79年の欧州通貨協力の発展過程と、イギリスの段階的なオプトアウトの理由を解明することがあげられる。そして、欧州通貨協力に対するイギリスの政策についての詳細な事例研究とフランスの事例との比較を通して、英仏両国が対照的な結論に至ったことを示すとされる。特に、欧州通貨協力をめぐる英仏の対応は、1970年代後半になり西ドイツの欧州通貨制度(EMS)提案への対応をめぐり分岐し始めるが、欧州通貨協力の萌芽期に現れた英仏の相違は、今日まで十分に説明されてこなかったことが指摘される。著者によれば、英仏の異なる対応の説明要因として、(1)主要な戦略的目標(英米特殊関係と仏独和解)、(2)帝国の遺産、(3)欧州通貨協力への参加と相容れない経済政策、(4)国家主権の重要性がありうるが、(1)(2)はイギリスにとって欧州通貨協力を望ましいものとし、(3)(4)は英仏に共通していた。そこで著者が新たな仮説として提示するのは、1970年代後半以降の欧州通貨協力をめぐる英仏の政策の相違は、左右両派の欧州統合をめぐる連合形成の成否によって最もよく説明されるというものである。より具体的には、(1)英仏ともに欧州統合をめぐり左右両派がそれぞれ分裂していた。(2)その結果、左右いずれの政府も、与党の平議員や連立パートナーの支持のみに頼ることができない(特に政府の議会での過半数が与党内の欧州懐疑派よりも小さい場合)、(3)それゆえに、政府と野党が協力しえた場合にのみ、政府は欧州通貨協力に参加するための国内的支持を確保できる、というものである。

第2章では、 欧州統合に関する既存の理論およびそれらの妥当性についての検討が行われる。具体的には、新機能主義、政府間主義、マルチレベルガバナンス論について検討がなされるが、いずれも不十分であるとされる。そして、著者が強調するのは、これまでのEU研究において、各国の政党の役割に着目したものはほとんどなく、各国の政党システムについてはなおさらであるということである。

第3章は、1970年6月に発足したヒース保守党政権の下で欧州経済共同体(EEC)への加盟交渉が始められたことから説き起こされる。イギリスのEEC加盟交渉の転機となった71年5月の英仏首脳会談では、イギリスのEEC加盟とスターリング問題について大筋合意に至った。イギリス政府は、EEC加盟後にスターリング残高を安定化させ、漸進的かつ秩序立った方法で削減することに合意したのである。フランス大統領ポンピドゥーは、スターリング残高自体の削減やアメリカへの金融上の依存の終結までは求めなかったが、イギリスがスターリング保有国へのドル保証を減らす代わりに、EEC諸国がスターリングに新たな保証を与えることで、イギリスのEEC加盟後の経済通貨同盟(EMU)参加を促すことを狙った。それは、イギリス側でも自国の利益になると期待しうるものであった。

1971年7月、EEC加盟に関するイギリス政府白書が出された時点では、下院の討議で賛否は分かれなかった。同年10月、イギリスのEEC加盟に関する6日間の「大討論」が行われる。ここで労働党は、政府が交渉した加盟条件に反対することを決定し、二大政党間の合意は終結する。「大討論」の最終日に投票が行われ、加盟は原則承認された。しかし、70年6月の総選挙以降、保守党の欧州懐疑派議員の数は政府の下院での過半数よりも大きかったため、労働党からの69名の造反と20名の棄権によってEEC加盟の原則承認は確保されたのであった。著者によれば、労働党の態度変化は、党指導部による党内結束維持の努力によって最もよく説明される。つまり、労働党指導部は、EEC加盟の原則支持により党内の加盟賛成派をなだめ、ヒース政権が交渉した加盟条件の批判により加盟反対派の要求をかわそうとしたのである。イギリス政党システムの高度に競争的な性質が党内対立回避の優先につながり、EECに関する二大政党間の合意の崩壊に大きく影響した。政府を敗北させうる問題に関して、野党の親欧州派議員が政府側に同調することは裏切りとみなされるため、保守党、労働党双方の親欧州派議員は多くの共通点を持っていたにもかかわらず、政党の境界を越えた協力は長期的には維持されえなかった。

第4章では、1971年8月のニクソン・ショック後の動きが扱われる。ニクソン・ショックへの対応として、西ドイツが欧州共同変動相場制を提案したのに対して、イギリスは当初支持したが、フランスは、マルクに合わせたフランの上昇やドイツの地域内での影響力向上への懸念から反対であった。そして、独仏間の対立に加えて、イギリスの態度も徐々に不熱心になったため、欧州共同変動相場制は最終的に放棄され、アメリカを含むグローバルな解決を追求することで合意がなされる。71年12月、対ドル変動幅を±2.25%(欧州通貨間では±4.5%)とするスミソニアン協定が成立した。

1972年3月、EEC閣僚理事会で欧州通貨間の変動幅を±4.5%から±2.25%に縮小することが合意された(トンネルのなかのスネーク)。イギリスは当初スネークに参加した。しかし、72年初めからの経済成長と失業低下を目指す経済政策の影響から、72年6月、スターリングは外国為替市場で圧力にさらされ、スネーク参加からわずか7週間で離脱を余儀なくされる。72年11月以降、ヒース政権はインフレを抑制し、法定の価格・所得政策を導入するが、スネークには復帰できない。ヒース政権はEMUへのコミットメントの意味を十分理解せず、スネークへの参加と相容れない経済政策を追求していた。1973年3月、ブレトンウッズ体制は最終的に崩壊する。EEC諸国は、対ドル固定相場制のない欧州共同変動相場制(トンネルを出たスネーク)に移行するが、イギリスの参加はなかった。ただし、イギリス政府は一般に認識されるよりも共同体フロートへの参加に前向きであった。しかし、経済的困難(インフレ率と国際収支赤字)、政治的困難(国家主権の問題と野党からの反発の可能性)が障害となった。73年3月、経済金融問題理事会(ECOFIN)で妥協に達せず、英、伊、アイルランドを欠く形で欧州共同変動相場制が開始した。

第5章では、欧州通貨統合に関する英仏の政策比較の第一の事例として、1976年の通貨危機が扱われる。76年のIMF危機に際しても、キャラハン首相はスターリングのスネーク復帰と引きかえに、スターリング残高を清算するためにEECから融資を受けることを検討した。76年3月初め、スターリングが外国為替市場で圧力を受け、初めて2ドルを下回る。そうしたなか、3月16日に(スターリング危機は小康状態にあったが)ウィルソン首相が辞意を表明する。党首選の決選投票の結果、キャラハンが左派のフットに勝利し(176対137)、後継首相に就任した。しかし、党首選の結果は労働党内の左派の力を明確に示すもので(右派は弱く分裂)、キャラハンは党内の結束を維持できる指導者として選出された。

1976年6月、アメリカの同意を得て、ヒーリー蔵相が主要先進国からの53億ドルのスタンドバイ融資を公表する。しかし、スターリング危機は続き、9月にIMFへの融資申請が公表された。キャラハンは、スターリングへのセーフティネットを得るための外交努力として、西独首相シュミットとの間で、スターリング残高を清算するためのEECからの融資の交渉を行った(それと交換条件として、イギリスはスターリングの十分な安定性が達成されれば、スネークに復帰するとされた)。これは、ヒースがブラント西独首相との間で行おうとした取引と同様のもので、保守党、労働党双方の指導部が欧州通貨協力についておおむね同じ立場をとったことを意味した。しかし、アメリカ政府がスターリング残高に関する取引への参加に消極的で、「ヨーロッパの選択肢」にも強く反対したため、IMFからの融資獲得とスネーク復帰断念に至った。76年12月、イギリス内閣の議論を経て、イギリス政府とIMFは、IMFからの融資とイギリス政府の支出削減の規模で合意に達した。

76年の通貨危機(仏フランも76年3月にスネークから離脱)は英仏の経済政策に二つの重要な変化を起こした。完全雇用よりも低インフレを重視するようになったことと、外国為替市場での通貨価値安定の努力強化である。仏大統領ジスカール・デスタンはゴーリストで景気拡大論者のシラク首相と対立し、76年8月にシラクは辞任した。そして、後任首相にはバールが就任し、緊縮政策が導入された。それに対して、労働党政府は、キャラハンの首相就任後、下院での過半数を失った。党内左派の造反も続き、政府は経済政策の実施のため、自由党との協定(リブ=ラブ協定)に頼る。だが、リブ=ラブ協定も、政府と野党の協力を阻む政治的伝統からの革命的なシフトにはつながらず、労働党左派の影響も根強く残った。そのことが、EMSへの対応の際にも政府の手を縛ったのである。



    • 政治外交検証研究会メンバー/東京大学大学院総合文化研究科准教授
    • 小川 浩之
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