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その他
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日付
2015/5/1

【書評】月脚達彦『福沢諭吉と朝鮮問題「朝鮮改造論」の展開と蹉跌』(東京大学出版会、2014年)

評者:森田吉彦(大阪観光大学国際交流学部教授)
 
 明治以来の日本の国策は「脱亜入欧」であった、というのは浅薄な理解である。少し考えてみればよい。大日本帝国の精神的支柱であった国家神道を、「脱亜入欧」で説明できるのか。一八九〇年の教育勅語は、一体どういう意味で「脱亜」であり、「入欧」であるのか。大東亜共栄圏のどこが「脱亜入欧」だというのか。
 ましてや、「脱亜入欧」の唱道者として、福沢諭吉の名を挙げるのは俗説でしかない。彼のおびただしい著述の中で、「脱亜」の語が出てくるのは一八八五年の無署名社説「脱亜論」の一回だけでしかなく、「自由」「人権」「文明」「国権」「独立の気象」といった、福沢思想の本来の主要概念とは比べるべくもない。しかも、「入欧」に至っては――したがって「脱亜入欧」という成句も――彼は一度も用いていないのである。「脱亜論」にしても、福沢の支持する朝鮮開化派が前年末の甲申政変で敗れたことへの挫折感と憤激の表明でしかないし、その批判の矛先は東アジア三国の政府に向けられていた。「脱亜入欧」が福沢の全思想のキーワードであるかのごとき間違いが流布されるようになったのは、一九五〇年代以降のことでしかない。それは、一九四五年に戦争に敗れた後に起きた現象なのである。
 ――というのは、私の新説ではない。また、本書の著者・月脚達彦の創見でもない。丸山眞男――いうまでもなく、二十世紀後半の日本で最も著名な政治学者――が、二十年以上前に指摘したことである[1]。ちなみに「脱亜入欧」の初出について、彼は、『山陽新報』主筆の鈴木券太郎が用いた一八八七年までしか遡れなかった[2]。もちろん、丸山が築いた偉大な業績は後の研究者がまず依拠し、批判し、乗り越えるべきものであるが、こと「脱亜論」をめぐっては、私は有効な反論を知らない。むしろ、丸山眞男ほどの学者が指摘した実証性も妥当性も高い説が、いまだに少なからぬ人々に受け容れられていないこと、そのことの意味の方に関心を持つ。
 本書『福沢諭吉と朝鮮問題 「朝鮮改造論」の展開と蹉跌』は、朝鮮近代史の専門家が、上記の丸山およびそれを継承し展開させた松沢弘陽や、政治外交史では坂野潤治による福沢論など、先行研究の当否のほどを丹念に検証しつつ、福沢と朝鮮開化派との相互関係を描くと共に、今日に連なるアジア主義の考察にまで踏み込んだ、思想史の書物である。完成度の高さと問題提起の大きさを併せ持ち、類書の中で群を抜く、優れた作品であるといってよい。叙述ぶりも巧みであり、例えば冒頭、一八九九年の『福翁自伝』から福沢の朝鮮観をあぶり出し、金銭感覚の異同という意外な論点から、福沢も抱いた「日本の立場からの単系発展論」――松沢が析出した、朝鮮も日本と同じ発展の道を日本に遅れて歩むべきだという考え方――の問題を、さらに今日の韓国論にまで展開していく筆捌きは鮮やかである(しかも、「いささか突拍子もない譬え話になったが」(八ページ)と、自在にすぎる語りを自ら抑制して見せさえする)。この「日本の立場からの単系発展論」こそ、福沢と朝鮮開化派が共有した観念なのである。
 本書のキーワードとなるのは、副題の通り「朝鮮改造論」である。著者はそれを、日本は武力を用いてでも朝鮮を「文明」化させ「独立」させるべきである、という主張のことと定義する(その一方、朝鮮政府は必ずしも「独立」を望んでいなかったし、西洋的な「文明」化を図る意図もなかった、との断りもあらかじめなされている。開化派はあくまで例外である)。そのうえで、全巻でその「朝鮮改造論」の「展開」「再展開」「放棄」「復活」「展開」「再放棄」を中心とした緊密な行論がなされていくのである。状況に右往左往し、ときに機会主義的にさえ映る福沢の朝鮮政略論を、「朝鮮改造論」を軸に据えてうまく整理しえている。
 周知のように、福沢の「朝鮮改造論」は、一八八二年に創刊した『時事新報』を主な舞台として展開された。一八七〇年代後半までの福沢は朝鮮に関して無関心で、日本が関わるメリットはないと認識していたが、朝鮮開化派との接触が始まった一八八〇年以降、個人的な結びつきを強めるのと並行して、自らも経験した幕末日本との類推で「朝鮮改造論」を唱えていく。当初それは、西洋列強の勢力の東漸から日本の「独立」を守るためであるとされ、一八八二年の壬午軍乱では「朝鮮改造」の断行を主張することになった。これに朝鮮開化派も歩調を合わせたものの、むしろ軍乱を実力で収拾した清朝の宗主権が強化されるに終わる。清朝と朝鮮の宗属関係という意想外の障害に直面した福沢は[3]、しかし、清朝の朝鮮「属邦」論は西洋列強の侵略を招くという批判から「朝鮮改造論」を再展開し、開化派の「独立」論へと繋がっていった。しかし、一八八四年の甲申政変でこれも挫折する。翌年に書かれた社説「脱亜論」は、「甲申政変後の状況的発言と、前年来の『東洋』政略論の残滓と、掲載直前の福沢の感情が混淆している文章」となった(八十ページ)。
 しかし、それは裏を返せば、「脱亜論」は福沢にとって画期をなす文章ではなく、「朝鮮改造」も諦めてはいなかったということである(その点で、福沢の「敗北宣言」と見なした坂野説は修正を要する)。彼は、「アジア主義」を追求して、「アジア盟主論」に基づく「朝鮮改造論」を提起することになった。結局、その福沢に「朝鮮改造論」を遂に放棄させたのは、イギリスとロシアが朝鮮を挟んで対峙した、一八八五年の巨文島事件であった。彼は、英露に対して日本が実力不足であるばかりか、清朝にさえ劣っているという現実を前に、朝鮮はイギリスの保護国として形式だけでも「独立」を維持するのが幸いであると日本の関与を諦め、以後しばらく、朝鮮問題については沈黙するようになる。
 その一方で、朝鮮開化派は福沢と「同系発展の観念」を共有していたが、政治の舞台からは一掃されてしまった。彼らにとって、朝鮮の「中立化」とはすなわち清朝との宗属関係の否定であり、「独立」を意味していたが、その実現は絶望的だったのである。ところが、一八九二年になると福沢の『時事新報』は、ロシアの侵出を防ぎ、日清共同の朝鮮内政改革を進めることを提唱する。その後、開化派の指導者・金玉均の暗殺、そして日清開戦へと事態が進むなかで、『時事新報』は、(「アジア主義」ではなく)「世界文明」の立場に立つ「朝鮮改造論」を展開していく。しかし、日清戦争には勝利したものの、朝鮮での改革が頓挫し、ロシア主導の三国干渉後に開化派の政治勢力が潰えてしまうと、「朝鮮改造論」は最終的に敗北。一八九八年には『時事新報』も、朝鮮に対する「義侠心」と(同系発展の観念に連なる)「文明主義」が「失策」であったと省みるに至った。
 これを受けて著者は、本来相反する「文明主義(脱亜主義)」と「アジア主義」を「義侠心」が媒介したため、福沢は「アジア盟主論」を展開する無理を犯した、と総括する(二百三十四~二百三十五ページ)。のみならず、著者の見るところ、当時の「アジア主義」の論者たちの議論も福沢のそれと大差ない。そこには、如何ともしがたい「状況構造」があったのである。「一九世紀においてあり得たとは思えない日本と朝鮮との対等な『連帯』という理想をもとに、福沢の朝鮮政略論を批判することに筆者は何らの意義も見出さない。[略]『朝鮮改造論』は、本来福沢が持ち得ないものであったにもかかわらず、朝鮮開化派との接触によって無理に持ってしまったものであり、しかも『状況構造』の中で挫折を繰り返したものであった」(二百四十四ページ)。
 「何らの意義も見出さない」とまで厳しく批判するのは、ありえない理想を投影して過去を見る目を誤ると、未来への展望もまた見失われてしまうからであろう。「脱亜論」に対する丸山眞男の指摘がなかなか受け容れられないのは、酒井哲哉の所説を手がかりに著者も指摘するように、脱亜とアジア主義の二項対立図式は戦後日本のアイデンティティに関わるものであるため、それら二つが共振することは認めがたいからである。こうして、福沢の朝鮮政略論を扱った本書は、単に過去を物語ったというだけでなく、いま現在の我々が自国および自国と隣国との関係をどのように描いていくかという課題へと深く結びつく。「戦後七十年」の今年、読まれるべき第一級の書物である。
[1] 最もよくまとまった言及として、丸山眞男「『福沢諭吉と日本の近代化』序」『丸山眞男集』第十五巻(岩波書店、一九九六年)。なお初出は一九九二年である。
[2] 丸山眞男「福沢諭吉の『脱亜論』とその周辺 日本学士院論文報告」丸山眞男手帖の会編『丸山眞男話文集』第四巻(みすず書房、二〇〇九年)、十~十二ページ。また、岡部泰子の補注、同三十六~三十八ページも見よ。
[3] 本書では省略されているが、これを受けて福沢が「兵論」を連載し、一書にまとめていることも、その衝撃の大きさを物語っている。