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2016/2/4

【書評】 宮城大蔵編著 『戦後日本のアジア外交』(ミネルヴァ書房、2015年)

  評者:武田 知己(大東文化大学法学部政治学科教授)
 

はじめに

  本書は、戦後七〇年に当たる昨年六月に刊行された、戦後日本のアジア外交の歴史を一〇年刻みで描いた論集である。七人の新進気鋭の研究者たちが最新の研究成果に基づき一〇年ごとの歴史的事実を確定していく一方、七〇年の歴史の中でそれぞれの一〇年を位置づけることも目的の一つとしているように見受けられる。前者の目的から言えば、数多くの出来事をコンパクトに詰め込むことが必要であり、教科書風の記述も多くなる。そうした部分をそのまま紹介してももの足りないに違いないから、以下では、後者の目的に着目し、各執筆者が当該時期の日本をどのような視点から描き、どのようなイメージを持っているのかを整理し、そこから得られる日本とアジアを巡る「歴史的視座」(序章)とはどのようなものなのかを考えてみたい。
 
序章 戦後日本とアジア 宮城大蔵
第一章 近代日本とアジア大日本帝国の時代 加藤聖文
第二章 サンフランシスコ講和とアジア 1945ー1952年 楠綾子
第三章 「ナショナリズムの時代」のアジアと日本 一九五〇年代 宮城大蔵
第四章 アジア冷戦の分水嶺 一九六〇年代 井上正也
第五章 冷戦構造の流動化と日本の模索 一九七〇年代 若月秀和
第六章 「経済大国」日本とアジア 一九八〇年代 佐藤晋
第七章 「吉田ドクトリン」を超えて 一九九〇年代 大庭三枝
終章 二一世紀のアジアと日本 二〇〇〇年代 宮城大蔵
 

戦前から戦後へ

  第一章(加藤)は、幕末から大日本帝国崩壊までの歴史を概観した章である。著者(加藤)がいうように、近代日本とアジアとの関わりは国境確定という国家形成過程そのものと密接に関わっていた。いわば、自らを近代国家に作り替えていく中で、日本はアジアとの関係再編も必然化していく。そして、よく知られているように、日本はやがて中華世界を解体し、近代におけるアジアの大国、地域秩序の形成者として台頭していくことになる。
 こうした二〇世紀初頭までの日本をいわば次章以降の前提として描きつつ、著者(加藤)は、戦前期の日本人のアイデンティティとして昇華されていく「アジアの覇者」としての自画像を描いてゆく。また、誇り高き帝国となった日本が作り上げようとした新秩序は、やがて、旧世界に属するヨーロッパ列強の帝国主義、アメリカの台頭、中国革命とその混乱、そして、ロシア革命により、掣肘を受けるのだが、その様相を描きながら、アジア域内の基本的事実を確認する事も怠らない。そして、一九四五年の帝国の崩壊とともに、こうした近代の国境問題・植民地主義の問題が宙に浮いて未解決のまま残されたことが指摘される。
 第二章(楠)は、この帝国崩壊直後から筆を起こしている。著者(楠)が指摘するように、あのタイミングで、いわば急激な無惨な敗北を喫した日本の将来像は全く混沌としていた。何より、日本の戦後構想の中で重視されたのは、厳しい賠償を強制された第一次大戦時の「ドイツの轍」を踏まないことであった。周知のように、賠償問題はアメリカの冷戦戦略の中で緩和されていくのだが、他方で、平和主義を採用した新憲法により、日本が政治的な小国へ転落したといういわば「九条ショック」が日本を襲ったのであった。
 そこで敗戦国日本がひねり出したのは、日本の経済復興とアジアのそれは一体であるという路線であった。アジアは、彼らの意向は問われないまま、日本の復興との関係において注目されることとなったのである。
 しかし、米ソ関係を軸に促進してゆく冷戦の影響を受けた講和条約が多数講和となっただけでなく、いくつかの主要なアジア民族との関係断絶をもたらしたため、アジアとの関係構築は将来の課題とされた。その課題は、冷戦構造の中でアメリカとの関係を重視する一方で、戦争賠償を解決するという複雑な絡み合いの中で達成されるべきものとなった。さらに、前年の朝鮮戦争も日本が依存するアメリカの意向と共産中国との決定的な対立をもたらしていた。独立期の日本とアジアの関係は、こうして和解ではなく分断という性格を有したものとならざるを得なくなったのである。
 こうした経緯に示唆されるのは、戦前から戦後への日本外交の変化の最大の要因が米ソ対立を機軸とする冷戦の顕在化にほかならなかったということである。
 

「アジア・ナショナリズム」の時代の地域主義構想:五〇年代

  他方で、一九四〇年代から一九六〇年代にいたるまでのアジアは、ナショナリズムの渦巻く時代のただ中にあった。第三章(宮城)が言うように、日本外交は、そのようなアジアにおいて、東南アジア開発構想、コロンボプラン、バンドン会議などいくつかの地域主義構想をあるいは作りだし、あるいは活用して、アジアとの関わりを模索していく。
 特に、バンドン会議は、一九五〇年代半ばの日本とアジアの関わりを考える上で重要な事例であった。バンドン会議は、招請されたという意味で、日本は受け身での参加を余儀なくされたが、それは当時のアジアに存在していた亀裂を前提とすれば、避けられない事態でもあった。
 しかし、当時の日本は、講和問題でも争点となった賠償問題の除去を試みる。その意味で、バンドン会議は画期的なのであった。というのは、日本は経済問題に関しては積極的にバンドン会議での発言を繰り返したからである。もっとも、当時の国民総生産の倍近くの総額を、一国ではなく複数国へ支払わねばならなくなる賠償交渉に、日本は必ずしも乗り気ではなかった。事実、その後の交渉は難航を極めた。そこで日本が取り入れた論理は、それが将来の「投資」であるという論理であり、それを通じたアジアへの「経済進出」という論理である。バンドン会議における日本外交には、そうした償いと復興とをセットで考える思考の方がみられた。
 他方で、五七年以降、日本は「東西の架け橋」という論理を外交に導入しようとした。それはアジアと西洋をつなぐ役割を日本が果たしたいという宣言でもあった。にもかかわらず、賠償問題のその後の展開は、戦争の精算ではなく、アジアを援助する側とされる側に分断していく結果をもたらした。しかも、一九五〇年代を通じて、中国・韓国との国交正常化も行われていなかった。分断国家を抱える北東アジアは、東南アジアよりも近いが、実に遠い国だった。これでは戦後日本の年来の地域主義構想が展開される余地はなかったといえよう。
 

「経済大国」の外交:六〇年代・七〇年代

  ところで、六〇年代は、経済大国となりつつある日本が、米国の冷戦戦略を補完しつつ、アジアに台頭していく時代でもあった。
 だが、一般に考えられている以上に当時の日本の経済協力には財政的制約が強く、実際には十分な展開がされなかった。また、そこには対米協力と自主外交の両方の顔、いいかえれば、冷戦の枠組みでの外交戦略とそれを超えた戦略とのジレンマが依然として存在していた。
 第四章(井上)がいうように、こうしたジレンマの最大の被害者の一つは、やはり日中関係であった。1962年にいわゆるLT貿易は政経分離という独特のジレンマ解消方式だった。第二に、日韓関係も同時期に進んだが、池田首相は日韓交渉妥結の必要を認めながらも、金額で折り合いをつけようとせず、金が動く日韓よりも日中を優先したのである。そして、その後、韓国の政治的混乱、漁業問題、戒厳令宣布などで日韓交渉は中断、基本条約が結ばれるのは65年を待たざるを得なかった。それですら、韓国国民の合意を得られなかったことは、昨年末の日韓交渉で多くの日本人が再確認したことにほかならない。
 こうした中、七〇年代・八〇年代に、米中和解、ベトナム戦争集結などによって、アジアにおける冷戦構造が変化してゆく時代を迎えた。第五章(若月)は、この時代の日本外交を「全方位外交の時代」と呼ぶ。だが、田中時代に急転直下実現した日中国交正常化は、ソ連や韓国に警戒心を呼び起こした。またそこには各国の利害も関係した。ソ連との領土問題は解決できなかったし、文世光事件をきっかけとした日韓関係の悪化は、その後も両国に影を落とし、北朝鮮との関係改善も行われなかった。さらに東南アジアは漸く経済進出の兆しを見せ始めた日本外交を「新植民地主義」の外交として批判し始めた。
 にもかかわらず、福田は、全方位外交を積極的に展開しようとした。その最大の成果が、中国との間の戦争状態の公式な解決を意味する日中平和友好条約の締結であった。福田を継いで首相となった大平は、さらにこの成果を背景に、「アジア太平洋」という地域概念を打ち出し、新たな外交戦略を展開しようとした。およそ二年ごとの頻繁な政権交代が生じた中、新時代の指導者たちは、最も必要とされている外交的対応を積み重ねていったのである。そのため、七〇年代には、全体として整合性のとれた成果が残された。
 しかし、その成果は中国に限られた。ソ連との平和条約は結ばれなかったし、韓国・北朝鮮との関係も改善しなかった。また「アジア太平洋」という新しい地域概念への外交展開は、基礎構想の段階にとどまった。しかも、七〇年代末期には、ソ連のアフガン侵攻、ベトナム軍のカンボジア侵攻が続き、アジアにおける紛争や対立は、克服されるどころか、深まる一方だったのである。
 

最大の転機? 八〇年代

  そうした中、総理となった中曽根には、大きな期待がかけられて当然であった。第六章(佐藤)で克明に論じられているように、中曽根時代というべき八〇年代は、実は国際的には紛争や対立が終息してゆく一〇年であり、日本のアジア外交の展開の大きなチャンスがおとずれた時期であった。
 まず、米ソ冷戦が西側の決定的有利の形で終息を迎えたのが八〇年代であった。また、東南アジアは、経済大国日本を目標に、繁栄への離陸を始めていた。産業の高度化が日本からアジアNIESへ、そしてASEANへと連鎖してゆくこのプロセスは、さらに中国の経済開放を産みだし、日本のアジア全域への投資や援助の倍増を産みだしていた。
 にもかかわらず、中曽根外交は、冷戦構造をことさらに強調し、西側との協調を重視したものであった。八〇年代の日本外交は、いわばアメリカ経済の失速を強力にサポートすることで、西側の国際経済を支えることに尽力した冷戦外交であったのである。
 さらに、プラザ合意で急激な円高が生まれ、輸出産業が伸び悩むと企業は一斉に海外に進出、産業の空洞化が生まれたが、逆に内需向けの産業は円高のメリットを享受し、国内はバブル経済に酔った。そうした日本が、こうした外交路線に潜む問題を熟考することはなかった。日本は有り余る経済力をアジアとの関係構築に向けず、アメリカを中心とした西側との協調、拡大するソ連への対抗に費やしたのである。

 
日本のアジア外交における「失われた三〇年」:九〇年代以降

  一九八九年一二月、ついに、戦後日本外交をある意味で助け、ある意味で拘束した冷戦がとりあえず終焉する。それからの日本は、周知のように、新しい外交戦略を模索しつづけている。
 第七章(大庭)は、九〇年代の外交戦略の模索を「『吉田ドクトリン』を超えて」と命名した。確かに、冷戦が終わったのだから、対米協調を機軸として世界との関わりを考えるという前提が取り払われてもよかった。しかし、実際はそうはならなかった。終章(宮城)が描くように、二一世紀にはいると、アジアと日本は戦争への償いや賠償を幸福裡に調和させられる時代ではなくなった。つまり、本書を通読してみると、日本が、実に長い時間をアジア外交に費やした割には、その果実を手にすることなく二一世紀を迎えている事が明らかとなる。その意味で、本書の読後感は、決して爽快とは言えない。それが本書が提供する歴史的視座の一つであろう。
 しかし、本書から得られるもう一つの視座は、日本外交の転機は、豊かな経済資源を蓄えた八〇年代にあったのではないかというものであろう。大庭が描くような90年代における過剰な構想の提示や宮城が描く2000年代のある種の行き詰まりは、八〇年代の転機を捉えそこなったけっかだったのかもしれない。
 日本経済あるいは政治を考える上で、九〇年代以降を「失われた一〇年」あるいは「失われた二〇年」と呼ぶことがある。しかし、日本とアジアとの関係にあてはめていえば、失われたのは八〇年代以降のいわば「三〇年」ではなかったかもしれないのである。

 
おわりに

  では、こうした歴史的視座を前に、我々は日本とアジアの将来に向けて、一体どうすればいいのだろうか。そもそも、昨年、安倍首相は、過去を謝罪しつつも、アジアへの謝罪を繰り返してきた戦後七〇年の歴史に一区切りをつけたいと語った。それとの比較で言えば、日本のアジア外交は、アジアとの良好な関係を欲しながらそれを達成できない七〇年であったといえる。それにも、ある種の区切りが必要ではないだろうか。
 そのためには、第一に、序章で編者(宮城)が言っているように、「日本とアジア」という対立の認識構造ではなく、「アジアの中の日本」という平面の認知構造を手に入れるべきなのだろう。戦後日本は、「アジア」という地域概念にインドを入れたり除いたり、「アジア」と「太平洋」を一緒にしたり、「東アジア」に東南アジアを含めたりと言った、自由気ままなアジアの概念操作を繰り返してきた歴史を有する。編者は触れていないが、「満蒙」「北満州」「南満州」など、相手の了解を必ずしも得られない地域概念は、近代以降の日本外交にも見つけることができる。そうした意識を清算する必要があるのである。それはすでに失われてしまった「アジアの覇者」としての自意識の裏返しにほかならないからである。
 実は、昨年の歴史学界では、近代日本の対外認識・国際認識に着目した良質な論文集・単著・翻訳などがいくつか出された。つまり、近現代日本の世界認識ーーそれは、日本の自画像の裏返しでもあるーーを問い直すという問題意識が、歴史学界の古くて新しい問題となっているのである。
 戦後を扱った本書もそうした問題意識を共有している。対立と友好の両面に目を配り、歴史をバランスよく理解することは重要である。しかし、それだけでなく、いわばパラダイムシフトを導くような刺激を識者に与えることも歴史研究の重要な役目だろう。そのような思考を導くには良い本である。一読を勧めたい。