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戦後70年を考える:日米安保体制はどのように形成されたか~三つの重大局面とその争点~

November 2, 2015

◆2015年4月21日 政治外交検証公開研究会

  • 発表者: 中島 琢磨 (政治外交検証研究会メンバー/龍谷大学法学部准教授)
  • モデレーター兼コメンテーター: 細谷 雄一 (東京財団上席研究員・政治外交検証研究会サブリーダー/慶應義塾大学法学部教授)

冷戦期の日米安保体制を捉え直す意義

1950年代につくられた日米安保体制は、冷戦期を通じて日本外交の基本路線となり、現在の日米同盟へとつながっている。この日米安保体制は、そもそもどのようにして形成され、今日に至っているのだろうか。

現在の日米同盟に至るプロセスを説明する際に、よく言及されるのは、湾岸戦争での日本の厳しい経験や1990年代以降の東アジア情勢の変化といった、冷戦終結後の重要場面である。それはその通りだが、私は先に、冷戦期の争点に気を払うことが大事だと考えている。というのも、アメリカとの安全保障協力のあり方や、日本の自主性をいかに維持するかといった、今日の日米同盟の論点は、すでに冷戦期に発生していたからである。

しかしながら、ポスト冷戦期の国際環境の大きな変化の中で、冷戦期の重要場面が日米関係の歴史の中で埋もれがちになっている。本稿では上記の問題認識を踏まえながら、日米安保体制を形づくった三つの重大局面である、講和交渉、安保改定、沖縄返還をふり返り、現在の日米同盟の起源を辿ることにしたい。

「55年体制」論は万能か

冷戦期の日米安保体制をふり返る際に、一つ重要な点がある。それは、冷戦期に生み出された政治的見方や政治的諸価値を、ある程度相対化することの必要性だ。冷戦期の日本の政治状況について考える際、多くの人は、「55年体制」という言葉に象徴される保守勢力と革新勢力の対立構図を思い浮かべる。このことについて私は、別稿で現代史における「55年体制」論の問題点について論じたことがある(『毎日新聞』2014年9月8日夕刊)。すなわち、「55年体制」は高校の日本史の教科書にも登場する重要語句だが、半面、保守勢力内部と革新勢力内部のそれぞれにおける政策論の多様さを見えにくくした。

とくに冷戦後に生まれた若い世代の間では、自民党が日米安保条約を支持し、対する社会党や共産党などの野党が日米安保条約の内容を否定したという、二項対立のイメージが固定化され、本来の戦後政治の多様な世界を知る機会が減っている。

その問題だけではない。ここで強調したいのは、「55年体制」下、政府・与党自民党が日米安保条約を支持し続けたことは事実だが、それが日米両国間で日米安保体制をめぐる政策対立がなかったことを意味するわけではない、という点だ。すなわち、保革対立のイメージから戦後日本政治が語られる一方で、日米安保条約の是非をめぐる保革の政策対立軸の向こう側に存在した、日本政府とアメリカ政府との間の政策対立と調整の場面が、歴史の中で埋没しがちになっている。

しかしながら私は、冷戦期の日米安保体制をめぐる日米間の政策対立とその調整の場面にこそ、今後の日米関係のあり方を考える示唆があると考えている。「何があるべきか」を考えるために、「何があったのか」という点にもっと関心を向ける姿勢が必要だ。

これらを踏まえたうえで以下では、講和交渉・安保改定・沖縄返還の各局面を見ていきたい。

講和交渉――役割分担論の萌芽

日米安保体制の原型は、1951年の講和交渉の中でつくられた。前年の1950年6月に朝鮮戦争が勃発しており、必然的に講和交渉では、日本の独立のあり方を検討する中で、日本とアメリカの安保関係のあり方が争点となった。

講和交渉をめぐっては、時代によって研究者の注目する争点が変化した。高度成長期の1960年代には、日本の再軍備問題が注目された。そこでは、朝鮮戦争を背景に日本の軍備増強を求めたジョン・F・ダレス特使と、大規模な再軍備に反対して経済復興を優先した吉田茂首相という対立構図が提示された。こうした見方は、吉田の選択を、経済復興と高度成長の起源として捉え直したものだった(代表作として、高坂正堯『宰相吉田茂』中公クラシックス、がある)。

その後、冷戦終結後の1990年代には、講和交渉に関する新しい研究動向が生まれた。それは、日本の再軍備問題だけでなく、米軍の基地の自由使用問題を講和交渉の争点として示したものであった。そこでは、日米安保条約における「極東条項」(極東の平和と安全を理由に、米軍が基地を事実上自由に使用できる条項が日米安保条約に盛り込まれたこと。講和交渉でアメリカ側が提案した)の問題など、吉田が米軍基地の自由使用を認めた事実を強調しながら、講和交渉が描かれている(代表作に豊下楢彦『安保条約の成立』岩波新書、がある)。上記の見方は、冷戦終結後も残った米軍基地の問題点を、講和交渉にさかのぼって描き出したものだった。

それぞれの見解からは、高度成長期と、基地問題が再燃した90年代という、各時代の特徴を読み取ることができる。

他方で、現在の日米同盟をめぐっては、日本の自主性のあり方や、日本とアメリカとの間の役割分担のあり方が、国内世論の関心事項となっている。この観点から過去を振り返った時、私がむしろ着目したいのは、講和交渉が、日本側による日米の対等性を求める主張と、アメリカ側による日本の役割分担を求める主張とが交差した、最初の場面であったという点だ。

当時の西村熊雄外務省条約局長が、後年残した講和交渉の記録の中に、有名な1951年1月29日の吉田首相とダレス特使の会談記録が残っている。読み返すと、以下のやりとりが行われている。

吉田茂「日本は アムール・プロプル―自尊心― をきずつけられずして承諾できるような条約をつくってもらいたい。平和条約によつて独立を回復したい。日本の民主化を確立したい」「かような国になつたうえで、日本は自由世界の強化に協力したい」

ダレス特使「独立を回復して自由世界の一員となろうとする以上、日本は自由世界の強化にどういう貢献をしようとするのか」「アメリカは世界の自由のために戦つている。 自由世界の一員たる日本は、この戦にいかなる貢献をしようとするのか

吉田「いかなる貢献をなすかといわれるが、日本に再軍備の意思ありやを知られたいのだろう」「再軍備は、日本の自主経済を不能にする」「軍閥再現の可能性が残っている」

(1951年1月29日の吉田・ダレス会談「平和条約の締結に関する調書」、下線は筆者による)

上記は、吉田が日本の大規模な再軍備を断った場面としても読めるし、あるいは吉田が早期講和のために、講和後の米軍基地のあり方を問題として取り上げなかった場面としても読める。

他方で私は、吉田首相が、日本の独立を「アムール・プロプル(amour-propre; 国家的自尊心)」の尊重、すなわち日米の対等性の実現という点から求めたのに対し、一方のダレス特使が、日本の再軍備を自由世界の強化のための「貢献」だと主張した点に、関心を持っている。

つまり、日本の独立という共通の目的があったとはいえ、その独立の中身をめぐっては、日米がそれぞれの主張を行っていたのだ。

その後、日米安保条約の中身が明らかになると、保守勢力と革新勢力の両方から吉田の選択に対する批判があがった。社会党や共産党の政治家だけでなく、保守政治家の中からも、日米安保条約はアメリカ一辺倒で不平等だという問題提起がなされた。その根底には、日本が講和条約によって独立しても、実質的な政治的独立が果たせないのではないかという認識があった。

こうして吉田首相が講和交渉の中で論じた日本のアムール・プロプルは、日本の独立後も、日本側当局者の問題意識として引き継がれることになった。そして、このアムール・プロプル、言い換えればナショナル・プライドの問題を背景に争点化したのが、岸信介政権期の安保改定の問題だったのである。

安保改定の争点――アメリカとの対等性をめぐって

1960年の安保改定を、「55年体制」論の視点から振り返ると、激しい保革対立や、国会を取り巻いたデモに象徴される大衆の安保闘争といった場面が思い浮かぶ。代表的な高校の日本史の教科書である『詳説日本史B』(山川出版社)の安保改定のページを開くと、国会周辺のデモの写真が掲載されており、当時の激しい対立の様子を実感することができる。

しかしながら、当時の外交文書を読むと、上記の国内対立の一方で、日本とアメリカとの間にも大きな対立の争点があったことに気づかされる。2010年より、安保改定と沖縄返還という大型案件の外交文書の全面公開が始まった。そこから確定できたのは、革新勢力だけでなく、他ならぬ外務省当局者が、1950年代を通じて、日米安保体制があまりに不平等になっている点を問題視し、日米の対等性の実現に向けて検討を重ねていた様子であった。

日本の独立から3年しかたっていない1955年7月21日付の外務省の文書には、「いまや日本が対等の立場から双務的な防衛協定に参加することを許すものと認められる」と書かれている。翌月の1955年8月には、当時の重光葵外務大臣が渡米して、アメリカ側に安保改定案(日米の相互防衛条約の締結と米軍撤退を骨子としたものだった)を提示した。

この点について中曽根康弘元首相は、私たちのインタビューに対し、事前に重光への個人的進言を行っていたと証言した(『中曽根康弘が語る戦後日本外交』新潮社、2012年)。実際のアメリカでの重光の主張も、中曽根のこの頃の主張と共通している。つまり有名な1955年の重光の安保改定案は、外務省のみならず、保守政治家の間である程度共有された問題認識を具体化したものとして位置づけることができる。

また岸信介首相は、後年オーラル・ヒストリーの中で、安保改定前の問題認識について次のように回顧している。

旧安保なるものは、あまりにもアメリカに一方的に有利なものでした。というのは、日本が防衛に関して何ら努力をしないために、 形式として連合軍の占領は終わったけれども、これに代わって米軍が日本の全土を占領しているような状態である 。そういう状態を続けていくのでは、日米関係が本当に合理的な基礎に立っているとはいえない。したがって、これをどうしても改めていく必要があったんです。

(原彬久編『岸信介証言録』中公文庫、2014年、144頁、下線は筆者による)

しかしながら、アジア太平洋戦争が終わってまだ十数年の頃のことである。国民の間には平和主義的価値がすそ野を広げて定着していた。外務省は当初、NATO型の日米相互防衛条約による日米対等のかたちを検討したが、野党と国民世論の反発拡大を防ぐため、現行憲法下で実現可能な(日本の施政権下を対象とした)相互安全保障方式による日米の不平等の是正を目標としたのだった。

ちなみにこの頃の外交文書を読むと、日米の安全保障協力を「日米安全保障体制」「日米安全保障協力体制」といった言葉で説明した箇所が散見される。そこからは、日米の協力関係を「体制」としてとらえ、その中でいかに日米の対等な関係をつくっていくべきかという外務省の問題関心を読み取ることができる。

日米交渉の結果、1960年に日米安全保障条約が改めて締結され、日米の不平等さの問題は是正された。条文における、アメリカによる日本防衛の義務化、いわゆる内乱条項の削除、条約期限の明記といった点がそうである。

しかし、実らなかったこともあった。岸首相や外務省の東郷文彦安全保障課長は、同時に沖縄返還に向けた進展をめざしていた。しかし、アメリカは沖縄問題については頑として譲らなかった。さらに日本は、安保改定の代償として、在日米軍基地から朝鮮半島への米軍の直接出撃を密約で認めたのだった。

こうして、日本のアムール・プロプルの問題は安保改定後も残り、続く沖縄返還交渉へと引き継がれてゆくこととなる。

沖縄返還交渉――残ったアムール・プロプルの問題

沖縄返還をめぐる争点を「55年体制」論に従って整理すると、まず思いつくのは、沖縄の米軍基地と日米安保条約を認めた上で沖縄返還をめざした自民党と、沖縄の基地の撤去と安保条約の廃止による沖縄返還を求めた社会党などの野党という対立構図である。

他方で、日米両国間の争点に着目すると、異なる風景が見えてくる。当時の外交文書を読みながら私が実感したのは、日本側が、現行の日米安保条約を変更せずに沖縄に適用し、朝鮮半島への米軍の出撃を認めた過去の密約を廃止することを強く求めたのに対し、アメリカ側が、露骨に安保条約の範囲を超えた沖縄の基地の使用の保証を求めていた点である。

具体的に言うとアメリカは、沖縄に配備した核兵器の維持や、韓国・台湾・ベトナムの三地域に対する在沖米軍の出撃の自由を沖縄返還の条件とした。しかし、日本からの米軍の出撃は、日米安保条約に従えば日本政府との事前協議の対象とされていた。また沖縄の核兵器の維持に至っては、佐藤首相が国会で表明した「非核三原則」という政府の政策と、まさに対立する話であった。

この問題についてアメリカは、沖縄を日米安保条約における事前協議制度の適用範囲から外し、沖縄を本土と法的に異なる状態におくよう求めた。実際に1969年には、日本の外務省は、これらの争点をめぐってアメリカ側と激しい交渉を展開している。

上記の日米間の争点のインパクトを理解するためには、当時の保守勢力側の政治家の立場と、革新勢力側の政治家の立場のどちらにも立って考えてみる必要がある。というのは、革新勢力側の立場だけから見ると、日本政府とアメリカ政府のいずれも日米安保体制を肯定して沖縄返還を交渉していることには変わりがないため、日米間に存在した争点に実質的な重要性を見出しにくいからである。

また保守勢力側の立場だけから見ると、なぜ日本政府が、アメリカの求めた沖縄の基地の使用の保証にあれだけ強く抵抗し、沖縄の核兵器の撤去にこだわったのかが実感をもって理解できない。日本政府の主張は、政府・与党が国内世論や野党の間に広がる平和主義的主張をそれなりにくみ取ろうとした結果であり、それだけ当時は野党の与党に対する影響力が大きかったことを意味する。この点、野党の政策(米軍基地の撤去と安保条約の廃止)を理想主義的に過ぎるとして過小評価すると、政府・与党の行動の背景が逆に見えにくくなるのだ。

さて沖縄返還交渉の結果、在沖米軍の他国への出撃をどこまで認めるのかという問題については、アメリカ側が譲歩した。日本の外務省は、米軍基地の自由使用の法的保証は行わなかった。日米安保条約の原則に従って、在沖米軍の他国への出撃にあたっては必ず事前協議を通すこととした。この点、外務省(とくに条約局)の法的理論に基づく主張が、アメリカに対する交渉力を高めていたと言える。日米安保条約の沖縄への全面適用という点では、アメリカ側が日本側の主張を受け入れたのだった。

その代わり日本は、在沖米軍を含めた在日米軍の韓国と台湾への出撃については、沖縄返還にともない日本が引き受ける責任分担としてとらえ、むしろこれらを政策として認める姿勢を、1969年11月の日米共同声明で発表したのだった。

もう一つの核兵器の撤去の問題については、日米が相互に譲歩して妥結した。すなわち、アメリカは交渉の最終段階となる1969年11月に核兵器の撤去を受け入れたが、それは緊急時の沖縄への核兵器の配備を認める密約を引き換えとしたものだった。この点について、従来ニクソン政権は、すでに同年5月に決定された国家安全保障決定覚書13号(NSDM13)の中で、核兵器の撤去を最終段階で認めるつもりだったとされてきた。しかし、その後、アメリカ側(国務省)が在沖米軍の他国への出撃の問題で日本側に譲歩した結果、9月下旬から11月にかけて、焦った米軍部が核兵器の撤去問題で相当抵抗しており、核撤去をめぐる交渉は行き詰まっていた。その結果、佐藤首相とリチャード・M・ニクソン大統領との間で、緊急時の核持ち込みを認める「合意議事録」が内々に作成されたのである。

繰り返すが、上記の日米間の争点は、日米安保条約と基地の存続を前提としたものだったため、安保条約や基地に反対する立場から見ると、分かりにくくなる。国内政治対立の争点と、日米間の争点とを共に見据えることが、沖縄返還交渉の成果と課題を見定めるためには必要である。

かつて吉田茂が講和交渉で論じたアムール・プロプルの問題は、沖縄返還交渉においては、アメリカが要求する日米安保条約の範囲を超えた基地使用をいかに防ぎ、日本とアメリカとの法的な対等性を維持するかという、政策対立の問題としてあらわれていたと言えよう。

基地の整理統合交渉

さて当時、沖縄の「本土並み」返還には二つの意味があった。一つは、日米安保条約など日本の法体系を「本土並み」に沖縄に適用するという意味である。上記ではこの争点について見てきた。もう一つは、沖縄の基地の規模や負担を「本土並み」に軽減した上での返還という意味である。こちらは、当時の沖縄住民や野党が強く求めていた。

1969年11月の沖縄返還合意後、政府・与党自民党は、野党や世論の主張に応じて、沖縄の基地の縮小を対米協議で争点化しようとした。外務省は、沖縄の基地の整理統合という言い方で交渉の開始をめざした。

2015年1月に公開された日本の外交文書の中に、沖縄返還交渉中の1970年6月、外務省が沖縄の米軍基地を70%前後まで整理統合する必要性を駐日アメリカ大使館に説明した文書があり、各紙が報じた。当時は、この7割という目標を批判的に評価した報道もあった。しかし私は、当時の風景に照らして考えると、米軍基地を返還時に7割までスケール・ダウンすることは、かなり強気の目標設定であったと感じる。

というのは、資料から判断すると、当時ワシントンには、沖縄の基地の縮小交渉に入る雰囲気は全くと言ってよいほどなかったからだ。まず日本側は、アメリカ側の堅い壁に風穴を開けるところから着手しなければならなかった。当時のアメリカ局北米第一課を主導したのは千葉一夫課長であった。千葉たちによる基地のスケール・ダウンの争点化は、返還合意が実現した後でようやく可能となったものであった。優先目標とされたのは、那覇飛行場(今の那覇空港)や牧港住宅地区(現在の那覇新都心)といった、近く県庁所在地となる那覇市内の施設・区域の返還だった。

外務省は、中心街または民間地域に入り込んだこれらの地域を重点的に取り上げ、軍事的に不要という理由というよりは、公共性の問題を理由として返還を求めた。また外務省は、日米安保条約の範囲外の任務を持つ部隊だとして、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)中継施設、陸軍情報学校、第七心理作戦部隊などの撤退を要求した。

上記の外務省のロジックは、政治的、法的理由から日本側の立場を説明して、米軍施設・区域の返還を求めたものだった。交渉には長い期間を要し、実際に那覇飛行場や牧港住宅地区が返還されたのは、佐藤政権期以降のことになる。

おわりに――外交史の関心のすそ野

講和交渉、安保改定、沖縄返還という三大局面を通じて、アメリカとの対等性を求める日本側の主張は、かたちを変えながら日本側関係者の中で引き継がれていた。そのことは、国権回復をめざした戦後外交の大きな一断面を示してもいる。さらに言えば、日本の自主性や役割分担のあり方といった争点は、沖縄返還によって終わったのではなく、その後の日本外交にも通底する論点として存在し続けたと考えられる。

一般的に戦後史は、敗戦、復興、高度成長という大きな歴史軸に沿って説明されてきた。この内政面での歴史軸は、国民の記憶として浸透していると言ってよい。しかし、私は、国権回復と戦後処理による国際社会での地位の向上という、もう一つの外交上の大きな歴史軸の存在に着目する必要があると考えている。

それは、政府・与党の外交を正当化するためのものではない。この歴史軸に着目しながら、歴代政権の外交上の成果と、残された課題の双方を描くことで、今日の日本外交のあり方を考える際の比較軸を示すことが重要なのである。

現在、若い世代が戦後の日本政治外交史について触れる機会は、決して多くないのが現状である。私が担当している日本政治史の授業で学生たちに尋ねてみると、なおも各地の高校の授業では、戦後史にまで十分な時間が割かれることは多くはないようである。多くの若者は、戦後史とりわけ外交史に関する印象が薄いまま、学生時代を終えるのが実情のようである。

過去を正確に知る機会の少なさは、極端な、あるいは急進的な外交論が登場する一因となりかねない。また近年、日本の対米従属を強調した論調が目立っているが、この言葉のみに頼って戦後史を説明することもまた正確でない。歴史をふり返ると、アメリカには、覇権が揺らぐ中ですがるように同盟国に責任分担を求めてきた時もあり、また経済・貿易関係の分野に目を転じると、そこでの日米関係の歴史には安保関係とはまた別の風景がある。日米間の政策対立と調整の場面も踏まえた上で、日米関係の歴史を理解する必要がある。

冷戦期に生まれた政治的諸価値をある程度相対化し、国内争点と、対外的な争点を共に踏まえながら、日本の現代史を見直す必要がある。そのことが、現代外交の問題を考える上での座標軸を示すことにつながり、引いては外交史に関心をもつ人々の層のすそ野を広げることにもなるのではなかろうか。

◆続きはこちら→第2回:「「沖縄の姿」が問いかけるもの~米軍基地から考える戦後日本の政治と安全保障」平良好利

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