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2016/4/8

【書評】奈良岡聰智『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか―― 第一次世界大戦と日中対立の原点』(名古屋大学出版会、2015年)

評者:川島 真(東京大学大学院総合文化研究科教授)
 

■二十一ヵ条要求の重要性と先行研究

 本書は、日本近代史、東アジア近代史にとってきわめて重要な1915年の二十一ヵ条要求について、加藤高明研究の視点と、世論研究の視点を分析軸にしながら、豊富な史料を用いて再検討しようとした著作である。既に、受賞作に選ばれるなど、学界、社会から注目されている。

 第一次世界大戦下で日本が中国につきつけた二十一ヵ条要求は、日露戦争により日本が得た満洲権益の護持を契機としつつ、日本が中国問題における対列強協調外交から逸脱をはじめ、そして中国ナショナリズムにとって単独敵となっていく転換点のひとつであった。 それだけに、近代日中関係史の転換点だとも位置づけられてきた。しかし、それにも関わらず、この二十一ヵ条要求については必ずしも研究が十分でなかったと言えるだろう。

 確かに、日本外交史の分野では古くからこの二十一ヵ条要求の形成過程、とりわけ第五号への関心が高かったし、またアメリカの関与とそのタイミング、そして1910年代の日本の外交の性格規定が議論されてきた。北岡伸一は、かつて「二十一カ条は対列国関係の失敗ぶりにおいて抜きんでていた」といい、また「日米関係を手掛かりとする二十一カ条研究であると同時に、二十一カ条をめぐる日米関係の研究でもある」(北岡伸一1985)としたが、奈良岡も「二十一カ条要求は、第五号さえなければ「洗練された帝国主義外交」であり、イギリスをはじめとする欧米列強から異議なく承認されたものと思われる。繰返しになるが、第五号こそが二十一カ条要求をめぐる交渉を困難にした根本問題だったのである」(奈良岡2010)としていた。五号をめぐっては、それが取引材料であった否かといった点で論争もなされている。しかし、その日中交渉それじたいの研究や、1915年5月の諸条約、あるいはその後のパリ講和会議や1920年代に入ってからの山東半島をめぐる交渉などを体系的に論じたものは決して多くない。また、史料についても、多くが日本側とアメリカ側の史料、あるいは一部イギリス側の史料を使用しており、中国側の外交文書を使用したものは殆ど見られない。つまり、当時の中国をめぐる列強間の国際政治史の一コマとして二十一ヵ条要求を捉えて、そこでの中国を含めた外交史や国際関係史が十分に検討されてきたわけではない、ということである。

 また、中国外交史の分野では、既に(唐啓華2010)や川島真(2010)で論じられているように、二十一ヵ条要求はまさに不平等“条約”の象徴のように扱われ、未だに政治的な歴史言説にまとわりつかれている。無論、実証研究が全くないということはないが、史料の制約もあり、中国側の対応も十分に論じられているわけではない。日本外交史ではアメリカの中国外交に対する影響を論じるものがすくなくないが、中国外交文書からはそれを裏付けるものは必ずしも見られない。中国外交史ではようやく実証研究が新たに始められつつある、といったところだろう(川島真2014、川島真2015)。そして、より上述のように中国をめぐる国際政治史としての観点が弱いということだけでなく、日中双方の外交文書を用いて、日中交渉を跡づけるような基礎的な研究さえ、決して十分でないということをここで指摘しておきたい。

 総じて、二十一ヵ条要求をめぐる研究は、その事象の重要性に比して、決して十分とは言えない状況にあるのである。それに対して、近年意欲的にこの分野に取り組んできたのが著者であり、著者リードするかたちで少なからず研究者が触発され、昨今二十一ヵ条要求をめぐる議論が次第になされるようになってきている。そうした意味でも、本書は貴重な一書である。

 

■本書の課題設定

 本書の課題設定は以下のようになされている。「本書は、1915年に日本が中国に提出したいわゆる対華二十一ヵ条要求(以下、二十一ヵ条要求と略記)について、提出に至った背景や外交交渉の実態を検討し、その東アジア国際関係史上における意義を明らかにするものである。」(1頁)つまり、著者は上記のような先行研究の欠落や論争について一定の結論を見出しながら、(中国をめぐる)東アジア国際関係史の中に自らの研究を位置づけようとしているのである。そして、具体的におこなう具体的な分析のポイントとして、次の点を挙げる。「このように二十一ヵ条要求に関する先行研究は、かなり膨大な数にのぼるが、いまだ明らかにされていない点も少なくない。そこで本書は、これまで十分に検討されてこなかった3つの視点、すなわち、①加藤外相の外交指導、②イギリスが交渉に与えた影響、③日本の世論の動向を重視しながら、分析をおこなっていきたい」(11頁)。

 ①の論点は著者が長らく進めてきているものであり、②はもともと日英関係を中心に見てきた著者にとっては基本視座であろう。③が著者の新たな視点だと言えるのかもしれない。日本やイギリスの世論動向を探ることは1910年代の外交の世界を考える上でも、確かに重要なことだと言える。

   ①の論点について著者は、「本論に入る前に確認しておきたい重要な論点が3つある」(11頁)とし、(a)日露戦後の加藤の外交構想の延長線上で二十一ヵ条要求を理解すべき、 (b)第一次世界大戦への参戦から二十一ヵ条という大きな流れで見るべき、(c)第五号の形成過程(対内譲歩説、主導権把握説、取引材料説、拙劣説)については、 「もっとも筆者は、そもそも加藤外相が中国との外交交渉を開始するにあたって、取引材料の切り札として考えていたのは『膠州湾の還付』であると考えている」(14頁)と自らの観点を提示した。実のところ、加藤外相が“もともと”“膠州湾の還付”を取引材料と見なしていたという点については、決して異論が多く出るものではないだろう。なぜなら、 そうした意味で、かつての論争に対して、ひとつの最大公約数をまず提示したことも意義があろう。

 ②のイギリスの視点について著者は、ピーター・ロウが一定程度おこなってはいたが(Peter Lowe1969)、それでは不十分とし、本書では特にイギリス外務省、グレイ外相がいかに本件に関わったのかを検討するとする。また、③のメディアの点はこのイギリスにも及んでおり、(a)イギリスメディアの対日態度の変遷や(b)外交交渉に於けるジャーナリストの役割も検討しようとする。また、このイギリスを論じる部分で、(c)袁世凱政権の能動的な役割や中国側の情報提供にも言及しようとする。本書は必ずしも中国側の史料を検討しているわけではないが、先行研究の多くがアメリカの観点から中国を見たのに対し、本書がイギリスの観点から中国を見ようとしたことは意義があろう。

 ③の日本の世論の動向については、二十一ヵ条をめぐる日本外交は国内の世論が沸騰したことにより政策の選択肢を限定された面があるとし、(a)総理大隈自身の主宰していた『新日本』、(b)経済雑誌(『東京経済雑誌』『実業之日本』など)、そして幅広い人脈をもっていた(c)茶人高橋義雄に焦点をあてる。

 史料については、「二十一ヵ条要求関係の史料の残存状況は、良いとは言えない」(22頁)とし、「それゆえ本研究は、日本政府内部の動きについては、外交文書など既に知られている基礎的史料を読み込むと共に、できるだけ多くの周辺史料に当たり、それらを突き合わせるという作業を中心に据えた」(23頁)という。確かに、二十一ヵ要求をめぐっては 、日本や中国の事例だけを見ても、決して良いとは言えない。また著者は、「各国の外交文書や政治家の個人文書の他、イギリスの各種史料、日本の新聞・雑誌を体系的に活用している点が特徴的である」(同上)としている。二十一ヵ条要求をめぐる研究の大きな制約条件であった史料の問題についても、大いに格闘しようとしたのが本書だということだろう。

 

■本書の構成と内容

 本書の構成は次のようになっている。

 序章 満州問題—二十一ヵ条要求の期限

 第Ⅰ部 二十一ヵ条要求はなぜ提出されたのか。

  第一章 二十一ヵ条要求提出の背景

  第二章 参戦外交再考

  第三章 参戦をめぐる世論と国内政治

  第四章 二十一ヵ条要求の策定過程

 第Ⅱ部 二十一ヵ条要求の提出とその波紋

  第五章 二十一ヵ条要求をめぐる外交交渉

  第六章 二十一ヵ条要求と国内政治

  第七章 二十一ヵ条要求と世論

 終章 二十一ヵ条要求とは何だったのか

各章の内容を一瞥しておこう。「第一章 二十一ヵ条要求提出の背景」では、まずこの問題を第一次世界大戦下の勃発から短期的に見るのでは無く、比較的長いスパンで見ることが必要だと主張される。つまり、「二十一ヵ条要求は突如作られたのではなく、日露戦後の満州問題をめぐる交渉の積み重ねの延長線上にあったこと、またそれらの交渉と二十一ヵ条要求をめぐる交渉には、交渉方法や世論の影響などの点において類似する点も少なくなかった」(24頁)とするのである。そして、加藤が二十一ヵ条要求の際にも見せた外交のスタイルについて、「日露戦後の日本が一貫して清国(中国)に対して強硬な外交姿勢を取り、権益拡張要求を認めさせてきたことを明らかにした。日本は、1905年の北京条約(満州に関する日清条約、満州善後条約)によってロシアが持っていた満州権益を継承し、満州進出の足がかりを築いた。この外交交渉は、秘密交渉、早期決着、列強の承認という日本側にとって理想的な形で交渉をまとめられ、日本にとっては、以後の日中交渉のモデルとなるものであった」(305頁)というように、日露戦後の外交がある種のアナロジーになっている、と著者は主張する。

 そして、二十一ヵ条要求をおこなった時の加藤の外交スタイルは、加藤のそれまでの姿から考えると例外的だった面があるという。「加藤は、日清戦後から一貫してイギリスとの提携を重視し、日英同盟の締結を提唱していた。その一方で彼は、陸軍などが構想した日英同盟を背景とする積極的対外拡張路線とは明確に一線を画し、中国大陸への進出には消極的であった…このように日露戦後の加藤の対中外交構想を見ると、二十一ヵ条要求の中で最も強圧的で、中国の主権やイギリスの既得権に抵触していた第五号は、彼の本来の外交構想の延長上にはなかったことが分かる」という指摘にそれが現れる(306-307頁)。だが、それと同時に日露戦後の加藤の特徴で、第一次世界大戦時にも継続しているものもあると指摘されている。「このように加藤は第一次世界大戦以前から、自らの外交構想を貫くよりも政治的立場を優先する、あるいはそうせざるを得ないことがあった。筆者は、加藤が二十一ヵ条要求を提出した際、あまり乗り気でない第五号を要求中に含めたのは、強硬な国内世論に配慮したためであると考えているが、日露戦後の加藤の行動はそのことを予示しているように思われる」(307頁)という部分にそれが現れている。外交官としての加藤と、政治家としての加藤の相違点がここで指摘されているが、世論の加藤への影響を重視するのが本書の特徴だろう。「このように、第一次世界大戦勃発前夜の同志会、対外硬派、陸軍、メディアにおいては、中国における機会便乗的な権益拡大の行動を支持する素地が既に出来上がっていたと言える」(76頁)という部分にもそれが現れている。

 加藤外交をめぐる分析は「第二章 参戦外交再考」でも続く。著者は、「加藤が早期参戦をした最大の目的は満州問題の解決にあり、参戦はすなわち二十一ヵ条要求提出への道を開くものであった」(24頁)とした上で、第一章でも指摘された社会からの圧力、それが加藤にのしかかったことを指摘する。「こうして、加藤の予想をはるかに上回る『対外進出圧力』が、各方面から政府にプレッシャーをかける事態が現出した。世論をリードする形で早期参戦を実現した加藤は、参戦後は逆に、暴走し始めた世論に突き上げられることになったのである。以後、加藤の参戦外交におけるつかの間の『成功』は、たちまち二十一ヵ条要求問題における無惨な失敗へと転回していくことになる」(102頁)。つまり、日露戦争後の加藤とは異なるスタイルを加藤がとったことの原因として、著者は世論を想定しているのである。

 「第三章 参戦をめぐる世論と国内政治」では、加藤を突き上げた世論について分析がなされる。「大戦に対する日本国内の反応は、積極論、慎重論、反対論に大別されるが、『天佑』という評価がよく知られている通り、積極論が圧倒的多数を占めていたことが明らかにされる。また、日本が膠州湾や南洋諸島を占領すると、参戦積極論は権益拡張論へと発展し、やがて世論が大隈内閣に権益拡張を強く要求するようになったことも指摘する。このような世論の沸騰状況が、二十一ヵ条要求の策定やその後の交渉にも大きな影響を与えることになった」(25頁)というのがその核心だろう。

 「第四章 二十一ヵ条要求の策定過程」以下は、二十一ヵ条要求をめぐる政策形成過程が描かれる。著者は、これまでの論争を踏まえて次のように言う。「二十一ヵ条要求は、加藤外相が満州問題の解決を目指して、山東問題をその取引材料に使おうとしたことが交渉の出発点だったということである。しかし、その後国内各方面からの権益獲得要求が噴出し、それを抑制し切 れなかった結果、加藤・外務省は二十一ヵ条という多岐にわたる要求を策定するに至った」(25頁)。

 「第五章 二十一ヵ条要求をめぐる外交交渉」は日中交渉を描こうとする。ここでは、具体的な交渉というよりも、交渉に際して展開した情報戦が重視される。「この外交交渉の特徴は、それが『外交戦』であると同時に『情報戦』でもあった点にある。日本側が交渉のモデルとして意識していたと思われる1905年の北京条約締結の際、清国全権は日本からの要請に沿い、交渉内容を外部に漏洩することはなく、交渉は短期間で終了した。しかし、この時の中国側の態度は全く異なっていた」(313-314頁)。この指摘は正鵠を射ている。日露戦争直後の清末の中国外交と、袁世凱政権下の中国外交とでは、外交理念も外交技術も異なっていた。中国による第五号の漏洩が日本の対中交渉を難化させたことは言うまでも無い。それはアメリカに対してだけで無く、イギリスに対してもおこなわれていた。「2月4日、蔡廷幹はモリソンを訪問し、『極内密に』日本の要求内容を知らせた。モリソンは、全文を入手することはできなかったが、ここで日本の要求が二十一ヵ条から成ることを初めて知った。モリソンの日記には、要求の概要とともに「二十一ヵ条(21 Demands)」と記され、その下に傍線が引かれており、衝撃のほどが窺える…この後、モリソンの動きが、『タイムズ』やイギリス政府にも大きな影響を与えることになる」(213頁)。このような事態に至り、加藤の外交は困難に直面する。著者の評価は次のようなものである。「加藤の外交指導は、いかにも拙劣であったと言わざるを得ない。とりわけ、過大な要求を第五号として盛り込んだこと、第五号の取り扱い方針に一貫性を欠いたこと、第五号を秘匿し、欧米からの強い不信感を招いたことが大きな問題であった。」(249頁)

 「第六章 二十一ヵ条要求と国内政治」では、二十一ヵ条要求をめぐる交渉が進行していた時期の国内政治が検討される。「大隈首相の世論に対する働きかけに注目し、彼が外交交渉中であるという事実を積極的に利用したことが、第十二回総選挙における同志会の大勝につながったことを指摘する。…原は穏健な立場から二十一ヵ条要求を批判したが、小川平吉をはじめとする政友会内の対外硬派は大隈以上に強硬な外交論を主張していたことを明らかにする」(25-26頁)とあるように、第十二回選挙と国内に於ける強硬な世論が対外交渉に影響した可能性を指摘していると思われる。

 「第七章 二十一ヵ条要求と世論」では、二十一ヵ条要求提出以後の日本の外交世論が分析され、「二十一ヵ条要求批判には強硬論が多かったこと」を指摘し、他方で「元老山県らの現実主義的な観点からの二十一ヵ条要求批判や、高橋義雄のように外交交渉の成果に一定の理解を示す立場も存在していた」(26頁)として、その多様性を指摘する。

 

■本書の意義と課題

 以上のように、本書は二十一ヵ条要求をめぐる国内外状況、交渉について、加藤高明、世論や情報戦、そしてイギリス要素という三本柱で考察を試み、随所随所でこれまでの研究の空白を補い、論争について見解を示したものだと言える。そうした意味で、本書は二十一ヵ条要求をめぐる諸論点、今後の課題などを全体図として描き出した大著だということになるだろう。以下、著者が重視した課題について見てみよう。

 第一に、日本外交史としての意義、とりわけ加藤高明の外交について見よう。本書を日本政治外交史の著作として見た場合、本書はやはり、日露戦争後以来の加藤高明外交をトレースしたものであり、また特に参戦から二十一ヵ条要求へと至る時期の加藤外交の特徴を浮き彫りにしたものだと評価できる。そこでは、外交のプロとしての矜持や構想とともに、内政への関心や台頭する世論とのやりとりの中で“ぶれ”ていく様でもあった。日本政治外交史の著作として見た場合、それは日本政治外交のアクターを精緻に分析しようとする点だけで無く、「世論」に注目するという特徴を有する。また、特に本書に特徴的なのは、グローバルな空間での世論形成の問題を扱っている点だ。そのため、世論は単なる国内政治の要素としてでは無く、「情報戦」のひとつの結果として位置づけられている。旧外交、新外交という言葉があるが、1910年代の外交空間をグローバルな情報戦の観点から描き出そうとしている点できわめて重要な研究だということになろう。だが、これは何も政府が世論を操作しているとか、情報漏洩を作為的におこなって交渉を有利に導いたということだけを意味しているのではない。各政府の思惑とは別に、個々のメディアのもつ立ち位置、スタンスがあり、多様な言論がなされていたことも十分に描き出されている。

 本書のいまひとつの特徴は、二十一ヵ条要求をめぐるイギリスの位置づけを論じた点である。従来、日本外交史では米中関係に注目する論考が多く、ウィルソン大統領による対中支援政策の形成などが論じられてきた。当時の中国をめぐる外交では、日中外交だけで尽きるものではなく、中国という場をめぐる国際政治が存在していた。それが中国をめぐる日英米などの列強間関係である。イギリスは中国に於ける最大の利権保持者であるだけでなく、日本にとっても日英同盟の相手であった。確かに、当時次第にアメリカが袁世凱政権に対する影響力を増しつつあったが、ラインシュ公使の回想録にあるほどの影響力は中国側の史料からは十分に確認できない。そうした意味で、本書がイギリスのスタンスを解明した意義は大きい。

 二十一ヵ条要求とそれをめぐる交渉は、1910年代の日中関係史の重大案件であることは言うまでも無いが、それと同時に中国をめぐる国際関係史にとっての重大案件でもある。本書はそのことを改めて提示した著作であり、東アジア国際関係史の分野に対しても新たな視点を提示したものだと言える。

 このような意義を踏まえた上で、本書に触発される論点も多々ある。ひとつの大きな論点は、政策決定過程や、政策形成上の「世論」や「情報」の扱いである。情報戦における情報の外交当局への影響は、外交文書などから比較的論じやすいのかもしれないが、世論動向の政治への影響、とりわけ加藤の受けたストレスについては、議論の余地があるものと思われる。蓋然性が高いとは言っても、その世論の動向がいつどのように加藤の政策に影響したのかといった点などは、まだまだ議論が詰められるように思われる。このような世論ファクターの問題は、歴史学のみならず、政治学においても同じような課題を抱えている。世論の要因をいかに「実証」するのか、これは政治史、政治学、共通の課題だろう。

 次の論点は、本書が二十一ヵ条要求をめぐる諸問題の全体像を描き出し、東アジア国際関係史のコンテキストの中に、その像を位置づけようとしたとはいえ、それは大きな構造の主要なパーツのひとつが組み立てられた、ということでもあり、全体像が完全に描かれたということではない、ということである。時間軸から見ても、この二十一ヵ条要求という問題は1915年5月の中華民国の受諾で終わるものではない。1915年1月に要求が提出されて、5月初旬に受諾された後、それが5月末に協定などとして文書化される。その後、ドイツが敗戦する中で、これらの取り扱いはパリ講和条約に持ち越され、さらに山東権益をめぐる問題は1922年のワシントン会議の最中に締結された山東懸案をめぐる協定によって解決する。だが、これで終わったわけでもなく、本来は1923年に日本が中国に返還すべき旅順・大連租借地は中国に於ける反対運動にも拘わらず、結局返還されず、1945年に至ることになった。そうした意味では、少なくとも1922-23年まではこの問題が継続するということであり、「全体像」はまだまだ十分に解明されていない。その意味では、本書は新たな研究の地平を切り拓くと同時に、問題の大きさにも気づかせてくれた一書だということになるだろう。

 いずれにせよ、本書の刊行によって、研究に新たな地平が与えられただけでなく、評者の専門とする中国外交史の立ち後れも明確になり、日本外交史と中国外交史の成果の結合と調整という次なる大きな課題が浮き彫りになったものと思われる。

 

引用文献

川島真(2014)「二十一箇条要求と日中関係・再考──中国側の対応を中心に」(川島真編著『近代中国をめぐる国際政治』中央公論新社所収)

川島真(2010)「革命外交史観の打破─唐啓華『被“廃除不平等条約”遮蔽的北洋修約史(1912-1928)』(社会科学文献出版社、2010年)」(『アステイオン』79号、2013年11月)

川島真(2015)「対華二十一ヵ条要求と北京政府の対応──交渉開始前の動向」(『東アジア近代史』18号、2015年3月)

北岡伸一(1985)「二十一カ条再考−日米外交の相互作用−」(『年報・近代日本研究 七 日本外交の危機認識』山川出版社)

奈良岡聰智(2010)「加藤高明と二十一カ条要求—第五号をめぐって」(小林道彦・中西寛編著『歴史の桎梏を越えて–20世紀日中関係への新視点』千倉書房)

唐啓華(2010)『被“廃除不平等条約”遮蔽的北洋修約史(1912—1918)』社会科学文献出版社[特に第五章「廃除《中日民四条約》交渉」]

Peter Lowe(1969), Great Britain and Japan, Macmillan