タイプ
論考
プロジェクト
日付
2018/7/13

明治150年を展望する:論考「ポスト明治100年の答え合わせ」

論考:「ポスト明治100年の答え合わせ」

村井 良太(東京財団政策研究所 政治外交検証研究会メンバー/駒澤大学法学部教授)

「さかのぼり歴史認識」の限界

 1968年に時の佐藤栄作政権は明治100年記念事業を大々的に行った。明治改元150年に注目が集まる今年、研究会に参加し、議論を楽しみながら、明治100年と対比して3つのことを考えた。

 第1に、明治150年を展望するにあたって、出発点にさかのぼって原因を理解しようとする歴史認識、いわば「さかのぼり歴史認識」には無理があるのではないか、そろそろこのような歴史の見方を相対化する必要があるのではないか、ということである。

 研究会で五百旗頭先生は150年のなかにあって30年単位で考える視点を提起された。これは大変重要な指摘だと思う。佐藤政権が明治100年を祝った時、社会のすべてがお祝いムードであったわけではない。1930年代以降の侵略戦争を準備したのはそもそも明治維新や大日本帝国憲法が悪かったからだという理解があり、これに対して明治の近代化こそが戦後日本の豊かさの原点なのだという逆の評価が対峙した。それは明治を理解する上での対立にとどまらず、冷戦とベトナム戦争という1960年代後半の時代状況のなか、歴史理解は保守と革新のイデオロギー対立の一つの焦点でもあった。

   明治維新への肯定と否定、これら2つの立場は、一見、正反対の議論のようでありながら、明治維新でその後の時代が決まった、明治維新にその後の道行きが埋め込まれていたという決定論である点で共通している。

 このような決定論は戦後日本を理解する上でもしばしば顔を出す。日米安全保障関係に疑問を感じる人は占領下に問題を見出す。他方で占領下に作られた憲法があればこそ日本は平和であったという議論も根強い。明治100年を政府が祝うに際して、日本国憲法20年こそ祝われるべきだという反対もあった。

 政治や社会が大きく変化し、その後の枠組みが作られる時期はあり、「さかのぼり歴史認識」にも理由がないわけではない。しかし、こうした原点至上主義は没歴史的で、その後の世代の営みに鈍感であるように思われる。明治憲法は運用によって大きく変化したし、対外政策も変転した。戦後日本も憲法が明文改正されない限り同じ時代が続いているというわけではない。

 

明治100年記念事業に示された価値と社会基盤

 このような決定論に寄りかかることのできない私たちは、未来への寄る辺として過去をどのような意味でふり返るのだろうか。第2に考えたのは、価値に注目することの重要性である。これは小宮先生の指摘で、第一次世界大戦後の日本では男子普通選挙制と二大政党による政党内閣制に時代の基調があった。明治100年記念事業には1960年代後半のどのような価値意識が込められていたのだろうか。これは細谷先生が話された周年事業の意味に通じる。

   明治100年記念事業では、政府はもとより地方自治体や各種団体、企業が様々な催しを行ったが、中心的行事に政府主催の記念式典があった。その閣議決定で佐藤内閣は、「この百年の経験と教訓を生かし、さらに、世界的視野に立って次の百年に臨む決意を確固としたものにするため」と理由を説明した。佐藤首相は1966年9月の講演で青年たちを前に自らの歩みをふり返り、明治100年の歴史を踏まえながら、「私は過去との対話によって未来への道を見定めるのが、人生にとっても政治にとっても正しい考え方だと思っています」と語りかけ、「私の家は戦争で焼け、妻がリヤカー一つで逃げ回ったのであります。戦争を肌で知らない若い人たちは幸福であります」と述べている(和田純編『オンライン版楠田實資料(佐藤栄作官邸文書)』丸善雄松堂、2016年、E-1-129)。

 明治100年を記念すると聞けば復古的に響く。しかし、そこで掲げられた継承すべき良き伝統とは、反省を踏まえた国際化と近代化にあったと言えよう。準備会議での議論や様々な行事は1968年に内閣が出した『明治百年記念関係行事等概況』に詳しい。それは痛切な悔悟と反省に立った敗戦後の生き直しであり、国際化には1930年代の孤立化への反省が、近代化にはやはり同時期の国体明徴運動・声明に見られる精神主義化への反省がある。1920年代の日本はもとより植民地帝国であり、近隣諸国との摩擦をすでに抱えていたが、未だ一方的な軍事解決を企図していたわけではなく、男子普通選挙に立脚した政党内閣制のもとで内外両面の共存を図り、第一次世界大戦後の平和への取り組みである国際連盟でも常任理事国を務めてヨーロッパの問題にも仲介の労を執っていた。

 小宮先生の指摘でもう一つ注目したいのは価値が形成される場への考察である。メディアであり、政党政治であり、社会への価値の喚起と検討という点ではシンクタンクが果たす役割は大きい。メディアは明治100年記念事業では新聞社やテレビ局も特集など関連行事の担い手となるとともに紙面や番組では民衆史の観点を紹介するなど一面的でない幅のある歴史像を伝えている。

   政党政治では、社会党と共産党の議員が式典に欠席して、歴史をめぐる対立の根深さをうかがわせた。当時は今はなき1955年体制の時代であった。1955年に左右社会党が統一し、保守合同で自由民主党が誕生すると、それぞれ異なる支持層を代表する両党の対立と妥協を通して国民合意が図られた。そのなかで、記念すべきは明治100年か、日本国憲法20年かで議論があったと先に述べた。しかし、当時すでに指摘もあったように、明治を反省を踏まえた国際化と近代化の伝統と理解するのであれば、それは一つの連なりのなかにある。佐藤首相もまた、先の青年向けの演説で終戦時の大きな政治的変化に言及し、「憲法が世界の平和を祈念し戦争を放棄する理念を確立した」と述べて、自由とともに平和の価値を強調した。ベトナム戦争や沖縄返還交渉、大学紛争の渦中にあって保革対立は激しくとも、そこで打ち出された国際化と近代化という反省に基づく伝統の把握は、単に時の自民党政権の歴史観というにとどまらず、大きな意味での国民合意の枠内にあったのではないだろうか。

 

ポスト明治100年の答え合わせ

 そこで問われなければならないのが、明治100年に掲げられたトーチ(たいまつ)のその後であろう。これが第3に考えたことであった。

   明治100年で掲げられた反省を踏まえた国際化と近代化という伝統は、戦争との距離感という戦後性だけではなく、戦後の歩みが生み出した新たな日本の立ち位置が問い掛けたものでもあった。

   1969年に出版された文藝春秋大世界史シリーズの最終巻、高坂正堯『一億の日本人』は、焼け跡から始まるその叙述を夏目漱石の『それから』の一節で終えている。欧州から押し寄せる生活欲の津波のなかで道徳欲の崩壊が進み、貧弱な日本が欧州の最強国と財力で肩を並べるまでは2つの欲の間に平衡を図ることはできないが、肩を並べる日も到底訪れないという焦慮とも諦観ともつかない感情。高坂はその予測に反して日本が西欧先進諸国と肩を並べる日はやがて訪れ、目標を自分で設定しなければならなくなったその時にこそ、「一億の日本人の真価が問われる」と述べている。

   それは文明史的な意義を持つ転換期であり、明治100年記念事業後の50年とはまさにこの点が問われた50年ではないだろうか。この点で宮城先生による平成年間の検証、さらには「唯一」の後に注意が求められていることは大変重要である。答え合わせにはいくつもの手がかりがあり、読者に委ねたいが、基本的な国柄を維持し、政府開発援助や国連平和維持活動などでも役割を果たしてきた姿は、環境の変化にもかかわらず、その時々の工夫のなかでトーチは大切に引き継がれてきたと評価して良いように思われる。

  また、歴史の受け止めという点でも、1995年の村山首相談話、2005年の小泉首相談話、そして2015年の安倍首相談話に受け継がれている(五百旗頭薫・小宮一夫・細谷雄一・宮城大蔵・東京財団政治外交検証研究会編『戦後日本の歴史認識』東京大学出版会、2017年を参照)。

   さらに、答え合わせのもう1つの側面として、この50年間での変化を考え、新たに付け加えられた価値を検討することも有意義である。明治100年時では植民地化されなかったことに焦点が当たっていたが、その後、植民地化したことなど加害への意識が高まった。また、付け加えるべき価値もいろいろあろうが、1つには日本社会と世界についての持続可能性をより一層意識しなければならなくなったことだろうか。

   私は周年事業があまり大仰とならず事実に基づく多様な歴史観が協演する場となるのであれば良いものであると考えている。日々忙しい私たちにとって、明治150年という周年を意識することはこのような長期的な振り返りに寄与する。忙しい毎日のなかで時に自らの大義を顧みる時間があっても良いと思うからである。また、明治100年記念事業の2年後に開かれた大阪での万国博覧会が同様の機会となったように、内外に日本の今と出自を説明する機会ともなるだろう。

 佐藤首相はまた「調和」という言葉をよく用いた。異なるものが共存するなかで、調和は強制されうるものではなく、そのための前提と努力が必要である。佐藤内閣も「社会開発」などの施策によって国内の調和を図り、それが日本の新たな国際的役割に結びつくことに努めていた。それは「内平らかに外成る」という平成の思想とも重なる。この点、明治150年で気になるのは明治100年時には米国施政下にあった沖縄県の問題である。私たちは東日本大震災であらためて災後のデモクラシー共同体を意識させられたが、ナショナル・セレモニーが国民内の対立を高め、異論を押し切るとすれば本末転倒である。他にも明治100年でも特に注目され、1946年の20歳以上男女普通選挙制導入に続いて2015年に選挙権年齢がさらに引き下げられた青年世代の問題、そして貧困の問題もある。逆にこれを機会とした政党政治の取り組みに期待したい。

   私たちはこの50年間、同じようにあるために知恵を絞り、工夫を重ねてきた。次の50年もその努力を怠ることはできない。

★続きはこちらから⇒  論考:「明治150年と国家という生き物―多様なストーリーラインを求めて―」

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