タイプ
論考
プロジェクト
日付
2016/12/9

戦後歴史認識の変遷を読む(全4回):第3回「中曽根康弘の時代~歴史認識問題の外交問題化」

≪「戦後歴史認識の変遷を読む」シリーズはこちら≫

 

戦後70年という節目の昨年は、安倍首相の「70年談話」も話題となり、歴史認識について改めて考えさせられる年となりました。

そもそも「歴史認識問題」とは、これまでどのように捉えられ、語られてきたのか。また、それらに関わる国内外の状況の変化を、我々はどのように理解すればよいのか。

政治外交検証研究会は、戦後日本の歩みを振り返り、改めて歴史認識問題について考察していきます。

 

第3回「中曽根康弘の時代~歴史認識問題の外交問題化」

佐藤 晋(東京財団政治外交検証研究会メンバー/二松学舎大学教授)

  

1、はじめに

  中曽根康弘の個人的な「大東亜戦争」についての認識の特徴は、アジアに対しては侵略戦争であった一方で、米英仏に対しては国家の生存をかけての防衛戦争であったという「二分法」にある。とりわけ中国に対しての侵略は、対華21ヶ条要求の延長線上にあるとして批判的な理解を示し、満州事変など現地軍部が東京の不拡大方針に反して行動を拡大したことを、中曽根は侵略の証拠としている。東南アジアへの行動も「アジアの解放」が動機ではなく資源獲得のためで「まぎれもない侵略行為」であったという理解である。このような認識を中曽根個人が持っていた結果、首相在任時に靖国問題・教科書問題といった歴史認識問題が生じたときに、アジア諸国に対する譲歩による解決が可能となったことも事実であろう。

 ただし、個人的な歴史認識が歴史認識問題をめぐる外交政策に反映したことは事実だとしても、個々の事例を追っていくと、自身の認識を超えた次元で、その時々の国際環境を踏まえた外交的対応を採用したと言える。すなわち個人的な歴史認識と異なる「認識」に基づく外交が必要であると判断し、そうした外交政策が実行されたこともあったであろう。本稿では、こうした日本側政府指導者の「表向き」の歴史認識が、いかに当時の外交問題の沈静化に寄与したかという点について考察を行っていく。さらに、外交上の歴史認識問題は、当然のことながら日本側のなんらかの認識が国際的に問題とされて初めて問題となるわけであるが、本稿では問題化した後の対処法の巧拙がその後の歴史認識問題の長期化・深刻化に影響を与えていると考える。そこで、今日の歴史認識問題の長期化・深刻化の先駆けとなったと考えられる鈴木善幸内閣時の第1次歴史教科書問題以降の日本政府の対応を本稿では取り上げる。

 

2、歴史認識問題の「起点」 ――  第1次歴史教科書問題

 中国と第1次歴史教科書問題

  1980年代は、歴史認識問題が顕在化した時代であった。しかし、それと同時に日中・日韓の友好関係が維持された時代でもあった。ここでの問題は、この時期の歴史認識問題は2カ国間関係全体を阻害するほど深刻なものではなかったのか、または深刻な歴史認識問題を打ち消すほど日中・日韓間に友好関係を生み出すべしと両国の指導者が考えるような要因があったのかというものである。この問いについても本稿では後者の立場をとる。それは、日本側にも、中国・韓国側にも相手を必要とする差し迫った要因が存在したからである。それがどのような要因であったのか順次見ていこう。

 1982年6月26日、日本の朝刊各紙は高校日本史教科書の文部省による検定結果に関して、日本の中国に対する「侵略」が文部省の検定によって「進出」に書き換えられたと報じた。これは今日では「誤報」と認定されているが、中国国内では批判キャンペーンが展開され中国政府も日本政府に対して激しい抗議を行うなどして、当時の日中関係は大きく揺さぶられた。特に5月から6月までの間に趙紫陽総理が来日して、鈴木首相との間で「平和友好」、「平等互恵」、「長期安定」の日中友好三原則に合意した直後であったため、このような中国側の対応は日本側を驚かせた。

 実は中国では、益尾知佐子によると、この時「独立自主」の対外政策への転換が進められていた。鄧小平は、それまでのソ連の脅威に対抗することを優先課題として、多少の問題に目をつぶってもアメリカとの関係改善を追求する政策から離脱しようと考えていたのである。鄧小平が問題としたのが、レーガン新政権の台湾政策、とりわけ武器売却問題であった。中国は、アメリカの方針に反発したものの、同年8月17日に発表されることになる米中コミュニケ交渉では大幅な譲歩を余儀なくされていく。そこで鄧小平はこの交渉が繰り広げられていた7月にアメリカとの提携の解消を決断した。その姿勢の転換、すなわちアメリカへの強硬姿勢を、交渉以外の何らかの方法で鮮明にすることが必要とされた。そこで、アメリカに従属する日本へ向けて厳しい姿勢を打ち出すことで、内外に向けて中国の国益を擁護する強い姿勢をアピールすることが選択された。鄧小平は7月29日の日本の歴史認識問題に関する会議で、日本側で生じた教科書問題を利用して、日本側が「過去の行動を侵略ではないとしてしまいたい」という目的を持っているとの「観点について反駁を行え」と、自ら指示を出した。一方、江藤名保子は、日本が教科書問題は内政問題だとして「他国には干渉されないとの点に焦点を合わせ、この一点をめぐって反駁を進める」との指示が鄧小平からあったとしている。台湾へのアメリカの武器売却を中国の内政問題として批判していた中国としては、日本の中に歴史教科書に示された歴史認識を内政問題として中国の抗議を退けようとする動きがあることに危険を感じて、より強硬な措置を取ったとも考えられる。以上のように7月24日に突然開始されて9月に収束した対日批判キャンペーンにはこうした背景があった。

 

日本政府の対応とその後

  このような事情をつかんでいなっかたものの、日本政府内では9月の訪中を控えていた鈴木首相のイニシアティブで早期解決が図られた。教科書再改訂に批判的な文部省の反対もあったものの、8月26日に宮沢喜一官房長官が、アジア近隣諸国との友好のために批判を考慮して政府の責任で教科書の記述を是正するとの談話を発表した。これは、即時には修正に応じないが、早い時期に検定基準を見直し予定より繰り上げて教科書の検定を行うことを意味していた。この「宮沢談話」を受けて、中国側の批判も収束していった。その後、検定基準に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という、いわゆる近隣諸国条項が追加された。これまでにこの条項によって不合格となった教科書はないとされるが、この条項にそった記述となるように執筆者が配慮している可能性はある。以上のように日本政府内では、文部省を中心に検定制度の堅持を主張し、外国の介入によって教科書の内容を訂正すべきではないという勢力もあったが、鈴木首相、宮沢喜一官房長官らは外務省を中心に近隣諸国との関係を考慮して是正を主張する勢力が優越し、宮沢談話に至ったのである。こうした外務省が主張する対外配慮が優先されたことで、一時的に問題は沈静化する。

 一方、中越戦争を経験した中国は同年9月の党大会で「独立自主の対外政策」を打ち出す。江藤が言うように歴史教科書問題は、国内を愛国主義でまとめ共産党支配の正当性を高めるための手段、対日歴史認識問題という良い手段を鄧小平に「発見」させたのかもしれない。少なくとも対外的に言うと、「いつでも日本を牽制する状況」を作り出すことに成功したことは間違いないと思われる。その後、日本の「軍国主義的」な動きが生じたと見えた場合に、歴史認識問題を発動して日本に継続的に「警告」を与えるという構図が固定化していく。しかし、これは単に中国側が日本を追い込むためのツールというよりは、中国としても日中関係を維持したいために発動するものであった。この点を次節の靖国問題を通じて確認していく。また、日本側も中国側の友好・親善意図を疑っておらず、日中関係の再調整にとって止むを得ない必要なプロセスと受け取っていたと言える。

 

韓国と第1次歴史教科書問題

  1980年の光州事件を口実に民主運動家の金大中に死刑判決を下した韓国政府に対して、鈴木政権は金大中の死刑に反対し、処刑された場合には、経済援助の凍結などを含む対韓関係を見直すと警告した。一方、全斗煥は、日本の内政干渉を非難した。木村幹によると、全は政権発足当時から「事実上の植民地支配に対する第2賠償」として60億ドル借款を求めていたという。表向きには、この時期の北朝鮮の脅威に対抗するための援助として韓国側が求めてきたこの援助に対し、日本は安全保障問題と経済援助を切り離そうとした。さらに、園田外相が、借金をする方が威張るのはおかしいと発言して、韓国側の感情的な反発も生じた。

 そのようなときに発生したのが先述の第1次歴史教科書問題であった。韓国では当初ほとんど反応が見られなかったが、中国が7月下旬に激しく抗議し始めたことが国内に知られるに及んで、韓国内でも激しい反応が引き起こされた。日本の経済大国化と軍国主義台頭の兆しを恐れていたこともあり、韓国でも教科書問題が高い注目を浴びたのである。この抗議も「宮沢談話」を機に収まることになった。

 1982年11月、中曽根康弘は首相に就任するやいなや元陸軍参謀で伊藤忠商事相談役であった瀬島龍三を特使として韓国に派遣した。瀬島が細部を詰めたのち、翌年早々、日本の首相として初めて訪韓し、全大統領との間で経済協力の規模において合意に達した。中曽根は、大統領主催の晩さん会でのあいさつの一部を韓国語で行うなど、個人外交を演出して反日感情の緩和に努めた。また、1984年9月、全斗煥大統領が来日した際、昭和天皇から「不幸な過去」が存在したことについて「誠に遺憾」との表明がなされた。この「遺憾」の言葉を入れることについては、中曽根個人が宮内庁長官に指示したとされる。

 中曽根の考えは、ソ連からの日本の安全を守るためには韓国と中国の経済的強化に貢献し、北朝鮮・ソ連に対する抑えにしようというものであった。いわば北東アジアに反共の「アジアの壁」を築こうというものであった。そのための日本からの援助が、どれだけ両国の発展に貢献したかといえば微量であったろうが、中曽根のこうした意図が、当時の歴史認識問題の極小化に貢献したことは間違いない。

 

3、中曽根内閣期の歴史認識問題

 中曽根首相の靖国神社公式参拝

    鈴木内閣を継いだ中曽根首相が1985年終戦記念日におこなった靖国神社公式参拝はアジア諸国との間に大きな外交問題となった。それまでも靖国神社には、大平正芳・鈴木両首相も参拝しており、これらは1978年10月に密かに行われたA級戦犯の合祀が79年4月に明らかとなったのちも同様であった。また終戦記念日の靖国参拝も三木武夫が首相時代の1975年に行っていたし、鈴木善幸は2年続けて終戦記念日に参拝していた。したがって、中曽根の参拝が問題となったのは、論理的には、これが公式参拝であったことである。もともと靖国神社は、国家のために命を落とした兵士らを、その死後「英霊」として祀るための施設であり、戦地に赴く人々を「死後は神として祀られる」ということで「説得」する国家の装置だったのである。したがって、中曽根は、戦後といえども公式参拝をしないことは「国家が英霊に対して契約違反をしている」と考え、一度は断行する決意をしていた。しかし、A級戦犯合祀という現実が困難な外交状況を引き起こしていく。

 江藤によれば、中曽根の終戦記念日の靖国神社公式参拝に対して、中国は当初はそれほど重視しない方針であったとされる。日本政府も事前に中国ほかアジア諸国に、この公式参拝は軍国主義を鼓吹するものではないことを説明しており、中江要介駐中大使も「公式参拝が日中間の大問題になるとは誰も思わなかった」と回想している。しかし、この問題に火をつけたのは9月18日に生じた天安門広場における学生デモであった。この自然発生的な反日デモが国内の権力闘争や歴史問題に結びつくことを恐れて、中国政府としても日本政府に強硬な批判を伝えざるを得なかったと思われる。事実、胡耀邦は中江大使との12月8日の会談で「再度参拝があると大変、指導者の立場が極めて難しくなる。(靖国に戦犯が合祀された)そのままでは中国人を納得させられぬ」と訴えたのである。

   一方、中曽根首相は、中国における「開明的で親日的」な指導者である胡耀邦が失脚することが、世界と日本の利益に甚大な影響を与えることを危惧した。そこで中曽根周辺は、参拝前も試みていたA級戦犯の分祀を靖国神社に対して働きかけたが不首尾に終わった。その結果、中曽根首相は、秋の例大祭には参拝せず、1986年以降は終戦記念日も含めて首相在任時の参拝を自制した。ここには折から生じていた第2次教科書問題も影響していた。中国側は、1986年6月7日に日本政府に対して、日本側の一部勢力が作成し検定を通過した教科書の記述についての是正要請を行った。この時は、外務省が中心となって中韓両国を満足させるような修正案を考案し、修正のうえ検定を通過させた。中国側もこれ以上の修正を要求しなかったが、日本への不満を募らせていたのである。

 

胡耀邦の失脚

    その後、1987年1月に総書記を解任されることになる胡耀邦は、靖国問題での両国の紛糾の背後に「日中両国を離反させようとする第三国がいるのが問題」と、ソ連の日中離間工作を疑っていた。つまり、ソ連の脅威に対して日本を味方につけることを緊要な外交目標と考えていたのである。このような「親日」すぎる姿勢が失脚の一員との見方も根強いが、趙によると、胡耀邦の解任は、改革開放以来の行き過ぎた思想的な自由主義を取り締まるよう、鄧小平が「反自由化運動」をしばしば示唆したにもかかわらず、胡耀邦がこれを放置し続けたことで両者の関係が悪化した末のものだったという。その結果、鄧小平が胡耀邦の解任を決めた86年夏からは胡耀邦の提案はことごとく長老に反対されて「何一つまともにできない状態」になっていた。したがって、胡耀邦が親日的すぎると批判されている最中に、反日勢力の批判を勢いづけるような靖国参拝は避けなければいけないと考えた中曽根の判断は正確ではなかったといえる。中曽根がどう行動しようとも、胡耀邦の失脚は決まっていたからである。しかし、むしろこの誤った認識は正しい行動を招いたように見える。

   中曽根・胡耀邦それぞれの情勢認識が誤っていたとはいえ、両者の認識はソ連の脅威に対抗するには日中提携が欠かせないという点で一致していた。中曽根・胡耀邦の友好は、いわば中ソ対立を背景とした「日中友好」であった。先に中曽根内閣は第2次円借款供与を決定したが、ここには従来同様、中国の改革開放を支援し、その西側への編入と穏健化を図る狙いとともに、戦争責任の清算という意味合いもあった。中曽根は1984年3月の訪中時に、日本の対中経済協力について謝意を表明した胡耀邦にむかって、「かえって恐縮しており、対中協力は戦争により大きなめいわくをかけた反省の表れであり、当然のことである」と述べていたのである。このように長期的な日中提携に向けて、過去の負の遺産を片付ける必要性を中曽根も抱いていた。

 

第2次歴史教科書問題(1986年)

    そういう背景の中、1986年5月に第2次教科書問題が発生する。まず「日本を守る国民会議」編の高校用日本史教科書が検定を通過したことに対し、韓国のマスコミ・世論が強く反発した。その直後に中国政府も異議の表明を行った。すでに文部省は検定通過までに多くの訂正を要請していたが、中韓の批判にさらされた中曽根の指示を受け、追加的な修正を要求した。その一方で、外務省からは出版社に出版を断念してはどうかとの申し入れがなされた。結局、検定期日を過ぎて以降の文部省による修正指示を執筆者側が受け入れて、7月7日に改めて検定通過が通知された。中曽根首相が、文部省に再検討を指示し、外務省も多くの修正を行ったとされる事態には、ナショナリズム色の強い意見を押さえ込んで中韓両国との関係を維持したいという政権の判断があった。

   こうした異例の措置により一時的に問題は沈静化したが、同年7月に藤尾正行文部大臣が東京裁判を批判するなどした、いわゆる「藤尾発言」問題を引き起こし、9月に発行された『文藝春秋』の中で、藤尾が東京裁判批判や日韓併合には韓国側にも責任があったという主張を行うという問題が生じた。これに韓国・中国は反発したが、中曽根首相が藤尾文相をすばやく罷免することで、問題は沈静化した。

   しかし日本側がこうして必死に日中関係悪化の芽をつむことに注力していた一方で、江藤によると、鄧小平は1986年11月頃には、それまでの友好を基調とする対日外交を「適度な」対日外交に転換することを決めていたとされる。これは翌年1月の胡耀邦失脚よりも先のことである。この理由として江藤は、経済協力面における対日不満と度重なる歴史認識問題を通じた不信感を挙げている。さらに、当時の日本の経済大国化が軍国主義復活の恐れと結びついていた可能性がある点も、今日の中国大国化を見る日本人の視点と比べると興味深い。一方、中曽根政権側では、胡耀邦の失脚にもかかわらず、歴史認識問題を沈静化させた一連の措置で日中間の友好の基調は維持されたと判断していた。

 

4、終わりに

  以上のように本稿では、歴史認識を語ることがもはや個人的な心情の吐露ではなくなり、必然的に外交的影響を考慮せざるをえなくなった時代を扱ってきた。鈴木内閣から中曽根内閣を中心とした80年代においては、短期的さらには中長期的な考慮から、日本政府が将来脅威となるであろう中国との間に紛争の種を残しておくことは好ましくないと考えて、歴史認識問題に自制的に対処していた。「中曽根康弘の時代」の政治家・外交官には、そのような自覚があり、そのための対策も政治的に可能であり、外交上の結果もある程度は見込まれていた。

 要するに「中曽根康弘の時代」の歴史認識問題は深刻ではあったものの、中国・韓国が未だ日本との友好関係を必要としていたために、適確な外交方針によって解決可能であったと言える。その後、次第に韓国が経済成長を果たし、冷戦の終焉とともにソ連が崩壊した。最大の敵であったソ連が消滅したと時を同じくして中国の脅威的な高度成長が始まった。その結果として両国が日本を必要とする度合いは著しく低下していった。この時代においても、宮沢首相の天皇訪中への対応や細川首相の謝罪声明のように、アジア諸国との歴史的懸案を払拭するための努力が続けられた。いや、むしろ中国の強大化とともに、その必要性は一層認識されていた。しかし、1990年代はもはや弥縫的な対応が効果を上げるような時代ではなくなっていく。韓国はもとより、中国においても反日世論の影響力は強まっており、政府首脳間の友好の確認程度では抑えきれなくなっていたのである。

 

参考文献

 ・江藤名保子『中国ナショナリズムの中の日本』勁草書房、2014年

 ・木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』ミネルヴァ書房、2014年

 ・益尾知佐子『中国政治外交の転換点』東京大学出版会、2010年