タイプ
論考
プロジェクト
日付
2017/7/5

財政と経済成長と新しい社会契約

 小林慶一郎

上席研究員

働き方改革の意義

 6月9日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針 2017」、いわゆる骨太方針2017では、働き方改革が大きな柱として強調されている。日本経済の成長率が高まるためには生産性の向上が不可欠だが、そのためには企業が変化する経営環境に合わせて的確に資源配分を変更することが求められる。一昨年来の企業統治改革(スチュワードシップコード、コーポレートガバナンスコードの策定等)は、株主や経営者の関係性を変えることで企業の資源再配分を促そうとした成長戦略であったが、企業において資源配分の変更を困難にするもっとも大きな要因は労働市場の硬直性と非効率性である。
 働き方改革によって、労働者が自分に適した企業を自由に探せる外部労働市場ができれば、雇用の大幅な再編まで含めた企業の経営改革がこれまで以上に進むことになり、日本企業の生産性は高まるだろう。そのような意味で、働き方改革と企業統治改革は、日本の経済成長を高める車の両輪の役割を果たす。骨太方針2017の打ち出す方向は、企業や労働者というミクロな視点からの成長戦略としては大きな意義がある。

財政がもたらす将来不安

 働き方改革と企業統治改革はあくまで個々の企業レベルの生産性向上を積み上げて、日本全体の生産性と成長を高めようというミクロアプローチであり、それ自体はやらないよりはやったほうが良いが、その効果を大きく減殺するマクロの障害物がある。それが財政のもたらす将来不安である。今回の骨太方針には、以前からの財政健全化目標(プライマリーバランスの2020年度での黒字化)に加えて、「同時に債務残高対GDP比の安定的な引下げを目指す」との文言が入った。このことが、財政健全化目標を緩和する布石ではないかとの憶測を呼び、政府の財政運営に対する不透明感を増幅している。
 財政の現状をみると、日本の国家予算(一般会計)は100兆円で、そのうち30兆円を国債の新規発行によって賄っている。つまり、国家予算の30%は新規の借入で賄っている。また、国の借金の残高は1,000兆円以上もあるので、金利が1%上がるだけで(長期的には)10兆円も利払いが増えることになる。いくら経済成長が上がっても、財政問題が解消することはない。成長率が上がれば金利も上がるので、借金は増えるからである。日本の経済成長率が2%に回復したとしても、数十年単位で長期的に債務比率(政府の債務のGDPに対する比率)が発散せずに一定になるためには、消費税率を30%も上昇させなければならない、という研究結果もある。
 経済成長率がいまの1%弱から少し回復して2%、3%、あるいは4%になったとしても、政府債務の膨張は止められない。これが、財政や社会保障の持続性についての将来不安の大きな要因になっている。将来不安の正体をはっきり自覚している人は少ないが、そこには僅かな可能性であるとはいえ、ギリシャのような「財政破綻」が起きる可能性も含まれている。財政破綻はきわめて可能性の小さい「テールリスク」(100年に一度起きるかどうかわからない危機)であるが、テールリスクが存在するだけで、現在の経済成長が低迷することが最近の研究でわかってきている。筆者の最近の研究でも、財政のテールリスクが日本経済の長期低迷の原因となっている理論的可能性が示されている。
 財政のテールリスクが現在の低成長の原因だとすれば、働き方改革と企業統治改革によってミクロの努力を積み上げるだけでは、日本経済の成長回復はできない。財政再建を果たすことによって将来の財政破綻の可能性を消し去ることが、現在の経済成長を高めるための「成長戦略」にもなっている、という皮肉な現実が、我々の前に突き付けられているのである。

ライフボート・ジレンマとしての財政問題

 財政や経済について、ある程度の知識のある人にとって、「日本の財政の持続性を回復しなければ、長期的な日本経済の不確実性や国民が感じる将来不安は取り除けない」ということは当然の事実だが、なぜ、それが政治を動かす大きな力にならないのだろうか。東京財団のプロジェクトから生まれた近著『財政と民主主義』では、政府債務の膨張を現在世代から将来世代へのコストの先送りととらえ、究極的には政治システムの改革によってこの世代間の協調問題を解決する必要があると論じた。
 財政をめぐる世代間の協調問題の本質は、次のような構造にある。現在世代が、見返りを期待せずに自己犠牲的な財政再建(それは大きな痛みを伴う)を行えば、将来の多くの世代が安定した経済環境という利益を得る。これは数人の人を乗せて漂流する救命ボート(ライフボート)が沈没しかかっていて、乗員の1人が犠牲になって海に飛び込めば、ライフボートは沈没を免れ、残りの乗員は助かる、という問題構造(これを「ライフボート・ジレンマ」と呼ぼう)と同じである。世代間のライフボート・ジレンマが、財政問題の本質といえる。世代間のライフボート・ジレンマを解決することが困難である理由は、私の見解では、現在世代が将来世代を思いやるという世代間の利他性がかなり「弱い」ということである。世代間の利他性が強ければ、将来に負担を残すまいとして、我々は痛みの伴う財政再建を実行するかもしれないが、利他性が弱ければ、コストを将来世代に先送りする。
 この問題を経済メカニズムで解決する方法はない(正確に言うと、世代間で繰り返される「囚人のジレンマ」問題については、繰り返しゲームの構造を使って解決することができるが、ここで考えている問題は繰り返し問題ではないので、解決不能である)。

社会契約の結びなおし

 合理的で利己的な個人からなる社会では、世代間の協調問題を解決できない。世代間の利他性を「強める」工夫が必要となる。近年、政治から中立性をもった長期的財政予測機関の設置によって国民に長期的な財政の見通しを提供し、財政運営が持続的なものになるようにしようとする試みが各国で行われている。東京財団でも同趣旨の政策提言を出している(政策提言『独立推計機関を国会に』2013年11月)。こうした機関の設置は、一般国民に長期的な財政情報を提供することで、将来世代への利他性を喚起しようとする試みであると言える。一般化して言えば、将来世代の利益を擁護することを任務とする機関(西條辰義・高知工科大学教授らは「仮想将来世代」と呼ぶ)を、現在の政策決定プロセスの中に創設する試みである。
 こうした仮想将来世代の創設によって、政策決定プロセスに(仮想的な)将来世代の声が届くようにしなければ、政府債務の膨張のような問題は、根本的には解決できないだろう。同様の構想として、財政推計機関のほかにも、政府の政策全般を将来世代の視点からチェックする「将来省」の設置という提案もある(西條辰義『フューチャー・デザイン』)。こうした「仮想将来世代の創設」は、新しい社会契約として定式化できるかもしれない。
 かつてロックやルソーの社会契約論は、自然状態にある合理的な個々人の自由意志による選択として、中央集権的な政府や議会政治を正当化する理論だった。21世紀の今、かつては存在しなかった世代間のライフボート・ジレンマが重要な政策課題となってきた。この新しい課題に対応した新しい社会契約を考えると、「仮想将来世代の創設」が原初状態に置かれた合理的個人の自由意志によって選択される。ロールズの「無知のヴェール」に覆われ、自分がどの世代に生まれ出るかわからないという原初状態に置かれた人間は、もっとも不利な世代に生まれた場合の利益を最大にするために、「仮想将来世代の創設」(財政の問題については、長期的財政予測機関の創設)に自発的に賛成するからである。
 財政の問題は、将来不安を高めることによって現在の経済低迷をもたらしている。これは経済政策の課題であるが、一方、その本質は、「世代間のライフボート・ジレンマ」という21世紀型の政策課題であり、新しい政治哲学の構築すなわち「社会契約の結び直し」を私たちに促しているのである。