タイプ
論考
プロジェクト
日付
2013/5/2

日本外交の実力が試されるとき

薬師寺 克行
東京財団上席アソシエイト/東洋大学社会学部教授


日本が7月にも環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉に参加する見通しとなった。参加のための最終関門だった日米間の事前協議が4月中旬に決着し、それを受けて米国以外の10の参加国も日本の受け入れを認めた。残るのは米国議会の手続きだけとなった。いよいよ、日本の含めた12カ国の多国間協議の場で、自国の利益を最大限に実現するためのせめぎ合いが本格化する。

二国間協議でも多国間協議でも、貿易の自由化がテーマになると、これまで日本国内の関心はコメをはじめとする農産物の関税など一部の分野だけに集中してきた。今回も例外ではなく、有識者の間からも、農産物の関税が本当に残せるのか、海外の安い農作物が自由に輸入できるようになり国内農業が崩壊するのではないかという懸念が出ている。そして、農協など一部の団体は、TPPの協議に参加すること自体に反対している。

しかし、TPPは単にモノの貿易自由化だけでなく、投資、知的財産、政府調達、競争政策、外国人労働者受け入れなどヒト、カネ、サービスを含む幅広い経済活動をカバーしており、アジア太平洋地域の経済秩序の一大改革になりうる交渉となっている。従ってそれに参加しない選択は、次の時代の地域経済の秩序形成に参加することを放棄することを意味するだけでなく、自ら国を閉ざし衰退していく運命を背負うことになる。それが分かっているから、安倍首相はもちろん内閣全体も、自民党や民主党など主要政党幹部も、そして国内の主要メディアも、ほとんどがTPP参加を支持している。にもかかわらず農業団体などが声高に反対を唱えているのは、もはや参加の見返りに補助金などを獲得しようという条件闘争とみなされている。

また日本にとってTPPには経済新秩序形成以外の意味がある。それはアジア太平洋地域の安定的な安全保障環境の形成だ。米国と中国という二つの大きな国が、同じルールに基づき政治、経済、軍事などの分野で活動するのであれば問題はない。ところが両国は政治体制も思想も価値観も全く異なり、それぞれが自分に都合のいいルールでこの地域に影響力を発揮しようとしている。であるから米国と同盟関係にある日本にとってTPPは、台頭する中国に向き合うための、あるいは中国をこちらのルールに誘い込むための米国やアジア太平洋諸国との「同盟化戦略」でもあるのだ。

こうした戦略は安倍政権になって考え出されたのではなく、民主党政権時代にも当然、考えられていた。特に野田内閣は地域安保政策とTPPを連携させて米国とともに積極的に動こうとした時期があったが、残念ながら目に見える成果を出せないで終わった。

これらの問題を考えるときに忘れてならないのは、日本の経済力の大きさである。既に述べたようにTPP交渉参加が話題になると、国内では農産物の関税は守ることができるのかなどという受動的な議論が先行する。ところが外交交渉の現場では、日本は堂々たる経済大国であり、他の交渉参加国は日本の対応を注視せざるを得ない。日本には全体の合意形成に積極的に動き回る能動的な役割が求められているのだ。

実際、2011年11月に野田首相が「TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入る」と表明したとたん、カナダとメキシコは慌てて参加を表明し、結果的に日本より一足先に参加してしまった。また、今年2月の日米首脳会談で安倍首相が参加の意思を表明すると、今度は日中韓のFTA交渉や、日中韓と東南アジア諸国などが参加する東アジア地域包括的経済連携(RCEP)、さらには日本とEUのEPA交渉など日本が絡む多国間の経済交渉が一気に動き出した。

いずれも日米両国が加わるTPPの交渉が先行することを懸念し、日本を巻き込んだ別の枠組み作りを急ごうとしているのだ。特に中国との間は、尖閣問題や靖国問題で完全に膠着状態にあるにもかかわらず、経済分野では日本との新たな関係構築に積極的なようで、「政経分離」の対応をしているようにも見える。

ここ十数年の日本外交を振り返った時、国際社会で日本がこれほどモテたことはない。あちこちの国やグループが日本を取り込んだ経済秩序を作りたいと秋波を送ってきている。「外交交渉」の観点から見ると、これほど有利な立場はない。各国の動きを巧みに利用しながら国益を最大限に実現することができる恵まれた状況にある。

ただし残念なことに近年、日本を取り巻く外交・安全保障環境は不安定化している。北朝鮮は核実験やミサイル発射という暴走を繰り返している。若い金正恩総書記の体制がどこまで安定的基盤を構築しているのか不明である。また、尖閣問題を抱える中国は公船などによる領海侵犯、領空侵犯を繰り返しており、硬直的対応を変える気配はない。韓国との関係も竹島問題を抱えたまま改善したとは言えない。そこに麻生太郎副首相ら一部閣僚の靖国神社参拝が影を落としている。安倍首相自信が麻生氏らの行動を擁護する強硬な対応を見せたため、5月末に予定されていた日中韓3ヵ国首脳会談など外交日程があいついでキャンセルされた。近隣外交は今、ストップしてしまった。さらに、肝心の日米間も普天間飛行場の移転問題が進展せず、相互の信頼関係が揺らいでいる。

ここは外交交渉を通じて安定的な環境を作っていくことが重要になってくる。そういう意味でもTPP交渉参加をきっかけに日本が多くの「外交カード」を手にしたことは戦略的外交を展開する好機である。安倍内閣はTPPについては外務省のベテラン外交官である鶴岡公二氏(外務審議官)を首席交渉官とする首相官邸直属の70人規模の交渉チームを核とする本格的な体制を作った。鶴岡氏は国際法や経済外交に精通しており、主要国の外交官の間では日本人には珍しいタフな外交官として知られている。TPP交渉にはうってつけの人材である。そして、外交交渉が苦手とされる日本政府が省庁の枠を超えた交渉チームを作って臨むことは極めて珍しいことで、安倍首相の意気込みが出た対応だ。

TPP交渉は年内合意を目標としている。最終的局面では各国の利害、主張が対立し、閣僚ら各国首脳間で厳しい交渉を展開することになるだろう。モテモテの日本がうまく立ち回って国益を実現できるか、日本外交が正念場を迎えていることは間違いない。