タイプ
論考
プロジェクト
日付
2016/9/1

日本の経済対策に求められている視点―世帯の逆転現象をなくす政策を

東京財団上席研究員

森信茂樹

1 構造改革の足りないアベノミクス

 2012年12月から始まったアベノミクスだが、最初の1年は異次元の金融政策の効果により円安が生じ、輸出企業の企業収益が改善、株高・資産効果もあり、わが国経済・社会の景色を一変させた。このことは評価したいが、金融政策(第1の矢)や財政政策(第2の矢)で時間を稼いでいる間に、経済の実力を向上させる政策(第3の矢)がほとんど行われなかったこともあり、経済再生には至っていない。

 このような状況の中、健全な世論を形成する「中間層」の崩壊ともいうべき事象が生じている。これを放置すると、欧米で生じている格差社会、反グローバリズムなどがわが国にも押し寄せ、経済や社会の不安定性を高めることになる。これを防ぐための政策が必要だが、安倍政権の経済政策は、8月に公表された「未来への投資を実現する経済対策」に見られるように、メニューは豊富だが、新幹線や低所得者への給付金など既視感のあるものが多く、抜本的な構造改革に踏み込むものはなく、経済再生には程遠いというのが正直なところだ。

2 細る「中間層」

 わが国の所得・資産の状況を見ると、アベノミクス以降、いわゆる中間層が縮小しつつある。以下、一橋大学の小塩教授が2015年の家計調査に基づき作図された図に基づき、アベノミクス前後のわが国の所得・資産の分布を見ていきたい。

 図1は、所得階層ごとに世帯数の比率をアベノミクス前後にわたって比較したものである。

 

図1  所得分布の変化

出典:政策提言『税と社会保障のグランドデザインを』(東京財団、2016, p.22)

 

 アベノミクス以前(2002-12)は、年収500万円以上の世帯比率が軒並み減少し、デフレ経済の下で「皆が貧しくなった」状況が続いていた。ところがアベノミクス後(2013-15)では、年収400万円から700万円の層の厚みは薄くなり、その両脇(400万円以下と700万円以上)の層が厚みを増してきている。アベノミクスの下で、「中間層」が薄くなり、所得分布の二極分化が生じていることを物語っている。正規雇用と比べて3割ほど賃金の低い非正規雇用者の拡大などが原因と思われる。

 図2は、貯蓄残高を比較したものである。

 

図2  貯蓄残高分布の変化

出典:政策提言『税と社会保障のグランドデザインを』(東京財団、2016, p.22)

 

 アベノミクス前後を比較すると、貯蓄の二極化が大きく進んできたことが見て取れる。低貯蓄世帯の比率には大きな変化がなく、中程度の貯蓄残高の層の比率が低下し、貯蓄残高3,000万円以上の層の比率が上昇している。高齢化要因もあると考えられるが、アベノミクス下での株価上昇の恩恵が一部に偏ったことがより大きな原因であろう。

 このように最新の統計によれば、アベノミクスが所得や資産の格差を拡大してきた。成長と分配の好循環、トリクルダウンは生じていないのである。中間層のさらなる崩壊を防ぐためには、富裕高齢者への負担増、中低所得者の負担減という方針の下での負担構造の見直しが必要となる。とりわけ、20%の分離課税となっている金融所得(利子・配当・株式譲渡益)への税負担増(5%程度)を検討することが必要となろう。この詳細については、東京財団政策提言「税と社会保障のグランドデザインを」(2016年6月)で筆者が指摘しているので、参照いただきたい。

3 女性労働力活用をはばむ壁―打開に向けた社会保険料改革とは

 前述の「未来への投資を実現する経済対策」の中で目新しい項目は「働き方改革」である。しかしその中身を見ると、同一労働同一賃金の実現、長時間時間労働の是正など実行の多くが民間にゆだねられている。アベノミクスの問題点は、日銀に金融緩和を、民間に賃金や設備投資の増加を要請するが、自らは安易な財政拡大策だけで、構造的な問題には手を付けないという点である。

 では、経済再生に必要な構造改革とは何か。基本的には、負担に余裕のある者に負担を求め安心・安全のための制度を構築し、現下の消費低迷の背景にある人々の将来不安を軽減させることであろう。また、わが国経済の実力(潜在成長率)を高めるという観点からの女性労働力の活用や労働生産性の向上も重要な政策だ。以下、税・社会保障改革という視点から、女性労働力の活用について取り上げてみたい。

 第1に必要なことは、女性の就労を事実上妨げている税制や社会保障制度の抜本的な見直しである。多くのパート労働者が就労調整する所得水準は100万円から130万円の間である。これは、103万円のところで配偶者控除が廃止されたり、自らが納税者となることや、130万円を超えると社会保険料負担が本人と雇用者の双方に生じることが原因となっており、103万円の壁、130万円の壁といわれているものである。労働者不足がわが国の経済の足を引っ張る一因となっている中で、女性労働者に就業調整を行わせるような制度は直ちに排除すべきであろう。103万円の壁は、税制では解決されており(103万円を超えても配偶者特別控除が適用される)、民間側も103万円に連動した扶養手当を改めるなどの動きがみられ、解決の兆しが見えてきている。しかし全くメドがついていないのは、130万円の壁である。

 図3は、配偶者の給与収入の増加に伴う世帯の手取り額の変化をイメージ図にしたものである(政府税制調査会資料)。これを見ると配偶者の給与収入が130万円を超えるところで手取り額に逆転現象が生じていることが明らかだ。少なくともこの部分を手直しすることによって、世帯所得の逆転現象は解消される。そのために手っ取り早いのは、図の網掛け部分の社会保険料を軽減する(あるいはその分給付する)ことである。つまり、社会保険料負担の改革が必要ということである。

 

図3   配偶者の給与収入の増加に伴う世帯の手取り額の変化のイメージ図

出典:政府税制調査会 参考資料「『働き方の選択に対して中立的な税制』を中心とした所得税のあり方」を一部筆者修正

4 働き方改革に必要な視点―オランダの勤労税額控除

 勤労者の税と社会保険料負担を、一定の条件の下で軽減するという制度の原型はオランダに見て取れる。

 オランダは伝統的に「女性は家庭にいて家事や育児をするもの」という慣習に縛られた国であったが、1980年代はじめに「オランダ病」と称される経済危機に見舞われた。これを乗り越えるため1983年、政府と経営者、労働組合の3者が、「ワッセナー合意」を形成し、労働側は自主的な賃金抑制を受け入れた。そこで家庭にいた女性は、パートタイムとして労働市場に参入し生活費を補てんすることを余儀なくされたのである。その際、勤労により追加所得を得たけれど、社会保険料や税の負担が新たに生じるのでは勤労意欲が落ちる(これを貧困の罠、ポバティ・トラップという)ので、これを防止するため、勤労直後の所得の低い間は負担軽減(税額控除)を行うという政策が採用された。これが勤労税額控除と呼ばれるもので、税だけでなく社会保険料も併せて負担軽減の対象になっている(給付はなし)。その後90年代に労働時間規制、同一労働・同一賃金などの政策が導入され、今日のワーク・シェアリング、ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)が形成されていったのである。1996-2000年の失業率はEUの中で一番低く、「オランダの奇跡」と呼ばれた。

 さらに03年には、所得再分配を強化する観点から、所得控除を税額控除に代えるという大胆な税制改革が行われる中で、一方の配偶者の所得が少なく控除を使いきれない場合、未使用分を他方の配偶者に移転させることが可能な「移転的基礎控除」が導入された。この制度により、家族間の所得額にかかわらず公平な恩恵(税額控除)を受けることが可能になり、これもワーク・ライフ・バランスなどに良い影響を及ぼしている。

 このようにオランダは、人々の勤労意欲を引き出し、ワーク・ライフ・バランスを支援する税・社会保険料改革を行い、 子育て期、老親の介護等に追われる中高年期といった人生の各段階で、その時々のニーズに対応して働き方を選べ、「1.5型の経済」(1世帯あたり1.5人の稼ぎ手)といわれるオランダモデルを作り上げたのである。

 同様に勤労インセンティブを高めるための税負担軽減措置は、英国や米国、さらにはフランス、ドイツ、スウェーデンなどにも導入されており、いわば標準的な政策といえる。わが国でも働き方改革を本格的に議論するなら、税と社会保険料を一体的にとらえて、その負担軽減を行うことにより勤労インセンティブを高めるという勤労税額控除の導入を検討すべきだ。

 わが国の経済停滞の原因をたどると、高齢者の医療・介護などへの不安、若年層の年金や雇用への不安からくる消費控えにたどり着く。とりわけ高齢者より若年層の方が、子ども・子育て、雇用への不安など将来不安が高い(平成26年度内閣府世論調査)ことは注目すべき点である。政府が働き方改革として手を付けるべきは、これらへの対応策だ。