タイプ
レポート
プロジェクト
日付
2007/7/23

東ティモール選挙監視団の派遣

小沢俊朗(国際平和協力本部事務局長)


この独立間もない小国は、日本の一部若者の間では親しみをこめて、『ヒガチモ』と呼ばれているそうだ。日本政府は、この『ヒガチモ』に今年になって選挙監視団を3回派遣し、学者、研究者、政府職員、NGO職員など累計で36名が日本の国際平和協力隊員として選挙監視活動を行った。そこで、これら監視団派遣の背景と意義について報告したい。

『ヒガチモ』と言ってもなじみがない方が多いかもしれない。インドネシアの東端の方にあるティモール島の東半分が「東ティモール(Timor Leste)」という国である。2002年にインドネシアから独立したばかりなので、当然ながらそれまでの世界地図には載っていない。岩手県ぐらいの面積に約100万人が住んでいるが、識字率は6割を下回り、一人当たり所得(06年IMF統計で$350)は、1日1ドル未満である。間違いなく最貧国であるのだが、最近、お金のある最貧国になった。というのも、豪州との間にある海底油田からの収益を石油基金に貯めているからである。(その金額は今年4月時点で既に12億ドルを超え、暫くは毎月1億ドルのペースで増大する見込みといわれている。)

歴史を見ると、ポルトガル植民地→旧日本軍統治→ポルトガル植民地→インドネシア併合→独立に関する住民投票→国連暫定統治→独立という過程を経ている。1999年8月に行われた住民投票では、独立派とインドネシア併合派の対立が先鋭化していき、独立派が圧勝すると、それまで統治していたインドネシア人達は、虐殺と破壊を繰り返し、併合派のリーダー達と共にインドネシアに逃げた。東ティモールに何となく血生臭いイメージが残っている人達は、このときの印象が強烈であるからであろう。

国連は、住民投票の前の段階から関与を始め、その後PKOに切り替えて暫定統治も行った。行政を担っていた人達がインドネシアに逃げてしまった中、国づくりは国連中心とならざるを得なかったのである。この過程で、日本政府もODAの供与に加え、文民警察官や自衛隊を派遣して協力した。独立して数年が経ち、東ティモールは、国連が関与して平和構築に成功したモデルケースとして扱われ、PKOを「卒業」するまでにいたった。しかし、2006年春にいたって社会不安が高じ、住民暴動・虐殺が再発した。驚いた国連は、再びPKOを展開することになった。

日本政府の東ティモール選挙監視団は、このようなポスト・コンフリクトの状況の中で、平和を定着させていくための日本の努力の一つとして企画され、実行された。東ティモール国民が初めて自らの手で実施する大統領選挙と議会選挙が自由かつ公正に実施され、その結果、新しい政治を求める民意が反映されることになれば、国づくりが進み、一定の石油収入のある東ティモールの未来は明るくなると考えられたからである。

選挙監視団は、あくまでも「善意の傍観者」に過ぎないのに、どうしてそのようなことができ得るのかと思われるかもしれない。これは、外国人の監視員が地方を含めて展開すると、選挙実務関係者は張り切って仕事をし、抑止力が働いて不正が行われにくくなり、そして、その投票の結果については、民意の反映として国民に受け入れられ易くなるからである。だからこそ、東ティモール政府と国連は、各国に選挙監視団の派遣を要請したのである。これに応え、例えば6月に行われた議会選挙には、日本を含む30カ国余りから合計500名の外国人選挙監視員が活動した。

日本は、インドネシア、豪州やポルトガルほどではないにせよ、東ティモールの国づくりに深くかかわってきた大国である。そこで、選挙監視団の団長には、日本政府のメッセージを東ティモールの政治リーダー達に伝えてもらうことにした。一言で言えば、「オーナーシップをもって平和裏に選挙を行ってその結果が受け入れられるのであれば、日本はパートナーシップで応える」というメッセージである。率直な意見交換を行うことに意義があるので、大統領選挙第1回投票と議会選挙の団長には、それぞれ旭英昭東大教授(前駐東ティモール大使)と鈴木勝也元駐ブラジル大使(2代目の国際平和協力本部事務局長)にお願いし、大統領決選投票には、自ら団長を務めた次第である。

結論を言えば、いずれの選挙も順調に執り行われた。心配された治安の問題も、国連警察他が展開していたこともあり、散発的な事件を除き問題は生じなかった。ごく一部で指摘された不正は、司法過程で円滑に処理され、投票結果は国民が受け入れるところとなった。

政治の観点から見ると、一連の選挙で「フレティリン(東ティモール独立解放戦線)」の退潮が明らかとなった。大統領選挙の決選投票では、ラモス・ホルタ前首相がフレティリンの候補に圧勝し、議会選挙では、シャナナ・グスマン前大統領の新党とその友党が過半数を優に制した。独立の推進力であったフレティリンは、6割の支持を得る政党から、3割政党に転落することになった。この結果、新たなホルタ・グスマン体制は、改革を進める基盤ができたことになるが、それを実行していく政治的器量が備わっているかについては実績を見ていく必要があろう。

思えば、東ティモールが独立した時点では、グスマン大統領、マリ・アルカティリ首相、ホルタ外相という組み合わせだった。この3人は、いずれもフレティリンのリーダー達であった。その後、実力者アルカティリがフレティリン支配を強め、国民の英雄グスマン氏とノーベル平和賞受賞者のホルタ氏の両名はフレティリンを去った。PKOを「卒業」した東ティモールが直面した混迷の背景には、これら3名の間の権力闘争があると分析されている。昨年春の社会不安・騒乱後、グスマン大統領とラモス・ホルタ外相は、政治生命をかけてアルカティリ首相を辞任に追い込んだ。しかし、辞任したとは言え、アルカティリ氏は、議会で6割の議席を押さえるフレティリンを支配していたので、政治が混迷していたのである。

課題の多い東ティモールであるが、日本としては今後とも積極的にかかわっていくことが適切であると考える。「平和構築」を外交課題として掲げ、「平和と繁栄の弧」を追及しているのである。人づくり支援、治安部門改革とインフラ整備を通じた雇用創出が優先課題だと思われる。


国連研究プロジェクトTOPページへ戻る