第5回国連研究会から-歴史としての日本の国連外交(2) | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

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第5回国連研究会から-歴史としての日本の国連外交(2)

November 20, 2007

2007年10月18日
於 東京財団

<フリーディスカッション>

【北岡】どうもありがとうございました。 私、去年いただいて、さっと読んだ後は、今回、読み返す時間がなかったんですけれども、だんだん思い出してきました。
一般に、日本外交史の研究で資料があいてくると、日本は常に受動的なアクターだというイメージが変わってきて、結構外務省頑張っているじゃないかという面が見えてきている。この場合、日本の資料があいたわけではないんですけれども、潘さんの研究でもそういうところがある。私なんか、現実には国連中心主義なんかやっていないじゃないかと批判しているのですが、国連の不作為というか、あいまいさ自体が日本外交の中で一定の意味を持っていたという面が見えてくる。逆に国連が活発化してきたら、かえって今、結構難しいことになっているのかもしれません。
それと70年前後の、表面は沖縄一色だったんですけれども、その背景で核の問題、常任理事国の問題等が水面下でいろいろ動いていたんだなというのは、大変興味深いご研究だと改めて感じたわけです。
あとは自由にご議論いただければ。
鶴岡公二いうのは出てこないんですか。(笑)

【潘】失礼しました。

【北岡】代表権問題のときですよね、お父さんがおられたのは。

【鶴岡】はい。

【北岡】何年やられたのかな、国連大使は。

【鶴岡】4年ぐらいしていたと思う。

【北岡】結構長かったですよね。

【潘】多分ちょうど、中国代表権問題が決着する直前にお帰りになったと思います。

【鶴岡】ああ、そうかもしれないですね。

【潘】その後は、中川融大使。

【中谷】1967年の決議242のときは鶴岡大使でしたね。

【潘】決議242の時は鶴岡大使でした。

【中谷】そうですよね、鶴岡千仞大使が議長でしたね。だから、その間でしょうから、4年ぐらいはなさっていた。

【鶴岡】ついでに、さっとこれ、拝見したんですけれども、242のときに、私は決議に当たって見たわけじゃないんで、聞いた話でありますから、実際はどうだか知らないんですが、どうやってイスラエルとアラブ側の仲介をするかというのが、安保理議長の重要な課題だったということで、他方、イスラエルに対する圧力をかけ過ぎると、アメリカとイギリスから非常に反発が出てきて決議が通らないという状況がある中で、決議案の交渉を、普通は全部英語でやるんですけれども、わざわざ英語とフランス語の2つで交渉した。
私の父はフランス語が専門なんです。フランス語の領土のかかり方を、明確にイスラエルの占領した領土であることが明らかになるフランス語にしておいて、英語については、アメリカとイギリスが満足できる英語にすればいいと。
だけど、フランス語も国連では正文であり、英語の場合はあいまいにできるけれども、フランス語はあいまいにならないので、決議としての解釈は明らかだと。しかし、それを説明したら決議が通らないから、だから何も言わないと。

【中谷】英語だとterritoriesでtheがついていないのですが、フランス語はdes territoiresとなっていて、des は de + les ということで、要するに定冠詞 the がつくんです。そこで一部撤退でいいのか、全面撤退が必要かという解釈が分かれますよね。

【潘】当時、確かに、これについて鶴岡大使が、国連加盟50周年の記念シンポジウムがありまして、その中で講演会の記録が本……。

【中谷】『日本と国連の30年』という本でしたね。

【潘】 その本の中でございまして、先ほどお話にあったフランス語を正確な用語にして、英語をあいまいにするというところまでは触れなかったんですが、英文のテキストについて、このtheが入っているかどうかの話で、後になって、たしかヨルダンの大使とかが文句を言いにきたんです。それはおかしいんじゃないかとか何かと言って、不満があって。それで、鶴岡大使が、theが入っていないものを繰り返してヨルダン大使の前で読み上げるんです。読んでいるうちにヨルダン大使もだんだんとニュアンスがわからなくなっていて、「はいはい」と言って帰ってしまったというエピソードが紹介されたんですけれども。

【鶴岡】まあ、そういうこともあるでしょう。
今でもあると思いますけれども、全部言ってしまうと決議が通らないということがあるので、あえてだまっていると。だけど、知っている人が見れば、もう明らかだという、そういうものをどうつくるかという技術の問題ですね。

【潘】 私はちょっとわからないのですが、例えばこういうふうにフランス語と英語の文言が違うということになると、例えば国連の中で、法務局みたいなものがそれをチェックしないんですか。

【鶴岡】いや、しますよ。

【潘】それを指摘しないんですか。ここは翻訳が違うと。

【鶴岡】だけど、違うとは言い切れないんですよね。もうぎりぎりの。

【北岡】でもほら、昔からあるじゃないですか、私はよく、agreed ambiguityみたいな、両方が了解する──結局それは、もうあとは力関係で決まってくるというので、当面これでいこうというのはあるように思いますけどね。それはなかなかの芸当で、今の日本の外務省ではなかなか大変でしょうね、これ。本省からの指示もうるさいし。

【潘】鶴岡大使は昔、アフリカ系の大使のために、フランス語の新聞もおつくりなったそうです、国連の中で。
当時は国連の毎日のあれが、一応……。

【鶴岡】ジャーナルがなかったんですよ。

【潘】ジャーナルは英語のものしかなかったんで。
ですから、鶴岡大使がかわりにフランス語版をつくって、新興独立国家のフランス圏の人たちに配ったという。

【鶴岡】それは、今でもそういう代表部はたくさんありますけれども、大使と運転手しかいないとか、一番最初はもうほんとうに人がいないんですよ。そうすると、忙しいときは委員会が1日に5つ6つ、同時に開催されているので、その国の大使はどの委員会に出ればいいのかというのがわからないんです。
それを教えてあげると。「あなたは今日はこの委員会に出るといいですよ」とか。

【北岡】great contributionですよ。

【潘】それは非常に評判がよくてですね……。

【鶴岡】もちろんそれによって、彼の見解をつくっているわけです。(笑)
ただ、もう一つは、ほかの委員会で行われたことも、1日の最後に全部要約をつくって、それを彼らに配っていた。

【潘】ダイジェストみたいなもの、そうですね。

【鶴岡】そのときに部下だった人たちは、全部の委員会に1人1人出ていって、帰ってくるとフランス語の要約をつくらないといけなかった。多分これは、今はもうできないでしょうね。

【小澤】日本の国連代表部がAAグループの事務局を実質的にやっていたと思うんだけれども、いつごろまでやっていたのかな? 今まさに鶴岡さんが言ったように、みんなどの委員会に出ていいかわからないわけですから。ジャーナルもまだない時代ですので。今日はこういう会合が行われているので、あなたはここに行くといいですよというようなことをやっていたんですよね。国連に入る前から相当いろいろな準備をしていたからですけれども、入った直後から大変に存在感のある代表部だった……。

【潘】そうですよね。

【北岡】すごい外交大国だったんですよね。今よりすごいかもしれない。

【小澤】今より立派な外交をしていた。(笑)

【鶴岡】だから、みんな日本に聞きにきたんですよ。今日はどうだったとか、明日どこに行ったらいいのかとか。

【北岡】大体、メールが普及したのはそんな古い話じゃないし、今も基本的にはファクス文化なんですよ。ぱーっと送ってくるんですよね、ファクスを。だから、ファクスといったって、そんな何十年も前にはなかったですよね。

【鶴岡】いや、届けたんですよ。

【潘】しかもあのとき、たしか日本のつくったフランス語のあれが、配付の時間帯が、国連の正式な英語のものに比べると、さらにいいタイミングで配付されていて、だから、ちょうど必要なとき郵便ポストに入っていたという、かなり工夫されていた。

【北岡】すごいですね。2005、6年には、フランス語の人、3人ぐらいしかいなかったですね、全部で。大使入れて3人ぐらい。

【鶴岡】当時はその日々の努力で、まだ援助をそれほど出していなくても、選挙に出れば必ず勝ったんです。もう一つは、当時の、今でもそういう国は幾つかあると思いますけれども、選挙の投票態度を、ニューヨークの大使が本国と相談しないで決められたんです。だから、いつもお世話になっているあなたには必ず支持しますという。だんだんそれもできなくなってきたから、いくらそうやってサービスしても、本国が決めてしまえば、その部分の効果が薄れてくるという、そういう効果があります。
逆に援助で本国がお世話になっているところに、じゃあ入れましょうと。国連の世界だけで国連の投票態度が決まらなくなってきているんです。

【北岡】結局2国間での……。

【鶴岡】全体の、国と国との関係を考えて。そうすると、僕は個人の重要性というのはいまだにもちろんあるとは思いますけれども、個人の持っている決定的な影響力というのは、この10年ぐらいではかなり変わったと思います。

【北岡】相当低下したんですね。

【鶴岡】個人でいえば、首脳同士の個人的な関係というのはあると思いますけどね。大使同士の個人的な関係で、選挙のときに票をもらうというのはなかなか難しいですね。

【小澤】今でも動くことはある。

【鶴岡】あるけれども、なかなか難しい。

【北岡】選挙の大きさにもよりますよね。

【鶴岡】重要度とか。あとは、ただ、決議案の文言は、そこまでなかなか一々本国に聞けないことが多いので、これは日ごろのおつき合いと個人的な関係が、いまだに半分以上、影響力があると思うんです。もちろん、中身が整理されて、ちゃんとした主張でなければ相手にもされないけれども。

【北岡】さっきから印象的なのは、連盟時代の遺産ですよね。日本が最初に非西欧国として国際社会の場、大国の一角に加わったので。私の祖父の弟というのもILOの政府代表で講師をしていたんですけれども、ジュネーブの会議が1回おきに英語とフランス語。だから、両方同じようにできないと務まらないというので、それは今の外交官にはとても高いハードルですよ。(笑)

【潘】そういう時代ですね。しかも、日本が選挙にめっぽう強いというのが、アメリカの文書なんかを読んでもわかるんです。選挙情報とか、アメリカの代表部が日本代表部から仕入れていたんです。日本の票読みが非常に正確で、大体1票か2票ぐらいの差で、多くの場合はもうぴったりと、最後の投票結果とほぼ同じような日本の票読みがすごく重宝されていた。

【小澤】それは今でも残っている。(笑)
私は去年の春、先生の本を2回読んで、大変にうれしく思いました。先行研究が少ないと言われましたけれども、ほんとうにそうで、むしろ先生の本を読んで、なるほど、50年代、60年代、こういうことをやっていたのかという、教えられることが大変多かったです。お礼を申し上げたい。この本は国連中心主義と安全保障政策を冷戦期の国連という中で論じていますが、国連中心主義という標語の下で、日本が一番影響を受けて変っていったのが、実は社会の部分のところなんです。なかんずく人権の関係だと思います。そこは国連中心主義を通じて、日本はほんとうに変わったと思います。先生の本は安全保障という切り口だけに、当然、こういうふうになるんだろうと思うんですけれども、そういうことですよね。
たまたま今、私がやっている仕事は、国連の平和の努力に日本が要員を派遣するという関係なので一言コメントすると、先生の本の中で88年の竹下構想を非常にハイライトされていますが、その点は全くそのとおりで、まさに88年から、初めて政府として、みずからの要員を国連の活動に送り込むということをやり始めました。しかし、今や日本の中で竹下構想というのを覚えている人は非常に少なくて……。

【潘】実はこの本を書いたとき、要するに80年代以降は、まだ外交資料の公開の範囲外で、ほとんど公開されていないんですが、情報公開制度がちょうど2001年から始まって、ためしにこの竹下構想前後の外交についてのファイルを請求したんですけれども、ことごとく却下されまして、公開できないと。国の安全保障と関係のあることと、そして、今現在進行中の事案と関係のある資料という理由で。

【北岡】結局、世界の外交史の知識は、日本はいつも受け身で何もしていなかったということになるんですよ。損なんですよ。

【潘】日本の資料だけを読むと、どうしてもこういうふうに書かざるを得なくなってしまって。

【鶴岡】そりゃそうだ。だけど、文書公開という制度を持っているのは、日本政府広しといえども外務省だけなんですね。

【潘】そうですね。

【鶴岡】それを30年近く前に開始したときに……。

【潘】76年から。

【鶴岡】日本政府の中では、なぜそんな余計なことをするのかといって、外務省は非常に批判されたんです。そのために必要な費用と人員は、追加的には認めないという条件のもとでも、やっぱり歴史にちゃんと将来外交を残すためには、文書公開を外務省独自の制度として確立するということを決めたんですよ。
いまだにほかの役所からは同じような制度は出てきていないですね。

【北岡】日本は主要国に比べてほんとうに遅くて、新しい文書はそうなんですけれども、古いのはブックにして出しているんです。戦前のがまだ刊行中なんですよ、昭和8年とか。1年分出るのに数年かかりますから、どんどんギャップが広がっているんです。8年だったのが9年に入っているかな。時々飛んで、昭和16年とか、節目の年は空くんですけれども、持続的に出ているのは、たしか私の記憶では昭和8年だと思います。
原文書は見れますよね、戦前は。

【潘】 ええ。確かに、ほかの省庁に比べると、先ほど小澤大使からも指摘されたとおり、開発とか経済面での日本の活躍というのが、実際もし、ああいう非政治的な面に書いてしまうと、非常に明るい本になると思います。この本とは関係ないんですけれども、私はかつてユネスコへの日本の協力について論文を書いたことがあるんですが、おそらくどの国に比べても日本の貢献が一番大きいと。しかも、冷戦があるかどうかとは関係なく、戦後一貫としてこういう姿勢が維持されていたと。
ただ、そういう社会・経済関係のものについて、かつてある資料を請求したんですけれども、返ってきた回答は、もう焼いてしまった、この資料は不存在という。

【北岡】それが非常に多いんですよね。前の課長のときのはあるけれども、前の前の課長のときのはもうないですというのが。
実際私も、戦後の初期をやっていると、岸内閣のときとか、今から考えれば大胆なことをやっていますよね。

【潘】その通りです。

【北岡】レバノンでちょっとこけちゃいましたが、あのときのいろいろな日本のアプローチもそうだし、核に対する反対とかも、自分は冗談で言うんだけれども、たしかイギリスに松下正寿立教大学総長を特使で派遣して、やめなさいという申し入れをしていますよね。今は総理が小宮山さんを派遣するなんてことは考えられない話で。(笑)時代は違いますけどね。

【潘】確かに当時、イギリスとアメリカの資料を読むと、すごく両方ともびっくりして、日本から突然やってきて、やめなさいと言われて、しかもかなり怒っていたんですよ。

【北岡】だから、56年12月に入って、それで次の年の選挙には当選していますしね、非常任。
結構、戦前の大国の記憶のある人は、当然の権利としてこれを主張しているんです。また、それから、対米一辺倒になることのバッファとして、国連を常に使っていこうというのがあったような気がしますね。それ以外に、この戦後初期というのは、いろいろな各国の外交文書でも、国連に対する期待は非常に高いんですね。例えばさっきの集団的自衛権云々と関係するバンデンバーグ決議なんかも、コアの部分は後ろのほうにあるんですけれども、前文では国連のことをいっぱい書いているんですよね。

【潘】バンデンバーグ自身が、アメリカ国連協会の会長だったんです。

【北岡】日本の、我々みんな知っているけれども、安保条約なんか、国防の基本方針だと延々と書いて、having said that という感じで違うところに来て、後半は実際は生きているんだけれども、非常に期待は高かったんでしょうね。
だから、安全保障は潘さんが言われるとおり、どこかに攻撃されるときに守るというんじゃなくて、未然に防ぐとか、そういう紛争の平和的解決とかに期待した人は、相当いたのでしょうね。

【潘】ええ、当時でも。

【北岡】だから、なかなかそれだけでは済まないのは知ってる……。
池内さん、中東問題ではいかがですかね、国連は。

【池内】ちょっと私、日本の中東問題に関する国連での動きをそんなに押さえていないので、逆にお聞きしたいことがあります。242決議についてもそんなに近くにいらっしゃる方がそんなに悪いことをしていたのかという、わかるとなかなかおもしろいんですけれども、国連での日本の動きを見る中で、特にパレスチナ問題一般について、一般には、日本は基本的にはアメリカ追随という批判があるわけです。ただ、おっしゃったように、アジア、アフリカというものとのつき合いも、今ではちょっと考えにくいんですけれども、重視していたということがあった。それは、56年からすぐにそういう動きがあったのかどうかということと、あるいはそれがいつごろに弱まったのかということですね。

【潘】私の本の中でも、若干、流れについて私なりに分析してみたんですが、56年に入った時点では、いわゆるAA諸国の一員としてのアイデンティティーというものは依然として大変強かったと思います。ご存知かもしれませんが、実際、日本は国連に加盟する前に、既に国連の中のAAグループの正式メンバーになったんです。これは非常に変則的なことなんですけれども、まだ加盟国ではないにもかかわらず、AAの正式会議にも出て、1票をちゃんと与えられていたわけなんです。

【北岡】ICJも国連加盟より前ですよね、たしか。

【鶴岡】あれは連盟時代からずっと続いているからかな。規定は……。

【北岡】一遍切れて戻った……。

【潘】いったん切れたと思います。

【鶴岡】今言われたのは、ソ連が日本の加盟に拒否権を3回続けて使っているから、53年から本来、国連加盟の資格が整っていたはずなんです。

【潘】結局、オブザーバーしか送れなかった。

【鶴岡】それを、ソ連が拒否権を使って、3回日本の国連入りをとめたんです。世界中でソ連だけなんです。だから、ほかの国はもう、もちろんどうぞ入ってくださいということだったから、正式にはソ連の拒否権の行使を乗り越えなければならないという課題はあったけれども、世界の国々からは、日本は当然、国連のフルメンバーだというふうに認められていたんだと思うんです。ほとんどみんな忘れていますけどね、それは。

【潘】確かにソ連は、カードとして使っていたんです。ちょうど同時進行で、日ソ国交正常化についての交渉もやっていたので、ソ連は、要は国連加盟も一つのカードですから、結局日ソ共同声明の中に国連加盟を支持するという……。

【北岡】1回はくだらないことで、中華民国とモンゴル関係でつぶれたことがありましたね。

【潘】ええ。あれはパッケージ案で台湾の反対でつぶれてしまったんですよね。ただ、そのとき、日本はアメリカに裏切られたんです。スペインか日本かということだったんですよ。パッケージの中でどっちを取り除くかということで、みんなスペインだったと思っていたんですけれども、最後の最後になって、日本がそこから省かれてしまったという。これは日本にとって大変ショックだったんですけれども。

【池内】それで、70年代には、今度は違う要素があって、オイルショックの後に、一応表面的にでも日本は独自の中東外交をやるといって、土下座外交をやった形跡というのは国連では見られるんですか。

【潘】私、70年代、特にオイルショックあたりから資料は少なくなってしまって、特に日本側の資料が非常に少なくて、アメリカ側の資料が、要は日本の悪口ばっかり言ってたんですね。日本の裏切り行為とか何とかということで、非常に感情的になっちゃったんです。日本側のあれを見ても、少なくとも表舞台で、要するに、PLO寄りの姿勢はとりましたと。これ以上の何かをやったかというと、私の見た感じでは、必ずしもそうではなかったのではないかと思います。むしろ、ある意味ではやむを得ず、そのとき石油は重大問題ですから、そうやらざるを得なかったという面が強かったのではないかと思います。

【池内】この間、私が振り返った話では、74年にアラファトが国連で演説というのがあって、そのときを、いろいろな決議は当然、AA諸国がやったんですけれども、日本とフランスがなぜか賛成していて、かなり踏み込んでいるというか、かなり怒られたんじゃないかと。そのときアメリカはビザを出さないんじゃないかと、今から見れば思うわけですけれども、アメリカはアメリカで理由があってビザを出した、秘密情報、CIAとのつながりで何となく出したとかいう話なわけですよね。

【潘】日本は確かに、それまでよりも、例えば、先ほどの242の決議の時期、つまり1個前の中東戦争のほうなんですが、そのあたりからがやっぱり、これは石油が裏にあったかどうかわかりませんけれども、中東政策について、最初からずっとアメリカべったりという姿勢ではなかったと思いますよ。たとえ60年代でも、ある程度常にアメリカと距離をとっていたと思います。少なくとも、全部アメリカの後についてやっていたということではない。もちろんオイルショックのほうは、非常に端的な形でそれがあらわれてきたんですけれども、それまでも、日本は日本なりの姿勢は持っていたと。アメリカも、これに対してかなり意識していたと思います。
日本はちょっと、石油、資源の問題で、100%アメリカと同じような姿勢はとれないということも理解していたと思います。

【小澤】どっちかというと、90年ぐらいまではずっとアラブ寄りなんじゃないですか。

【潘】そうですよね。

【小澤】ようやく90年ぐらいに、やっとイスラエル政策とバランスがとれるようになってきたというのが私の認識ですけど。

【潘】私もそういう感じがしますね。アラブの国々との関係は非常に慎重に、国連の中でやっていたと思います。
あと、70年代に入ると、この時点ではAA諸国の中でかなり孤立されていたと思われます。アジアの国々よりも、特にアフリカ諸国との関係が最悪だったんです、70年代。

【北岡】きっかけは何ですかね。

【中谷】あれはアパルトヘイト問題だと思います。南アフリカへの経済制裁に対して日本企業が協力的でないということで。

【潘】アパルトヘイトの問題と、そしてもう一つ、南ローデシアへの制裁のときです。日本は要するに、国連の決議を守らなかったと批判されていた。国連決議は金融措置とか、みんなとっていたにもかかわらず、しかも日本批判の急先鋒が、最初、火をつけたのが、アフリカ諸国ではなくてイギリスだったんです。

【小澤】皮肉ですね。

【潘】皮肉です。イギリスは日本はけしからんと言い始めて。

【北岡】その延長線上で安保理選挙に落選して、それでそのころからまた反省を始めて。でも、中東問題の微妙さに比べて、ローデシアとかはもうちょっと選択の余地はあったんじゃないですかね。

【潘】当時の南ローデシアの常套手段は、隣のモザンビークに物を持っていって、そしてにせものの書類をつくって、これで日本へ持ってきて、日本側は、これがにせものだとわかっていながらも、正式なものだと認めて、要するにモザンビーク産になってしまって、南ローデシアと関係ないと。イギリスは、それは違うんだと。しかも密輸の証拠をもって、日本側に突きつけたんです。それでも日本側は、いや、それは知らないことだ、我々は書類しか見ない、この書類は正式な書類だから問題ないと。これでイギリスが激怒したと。

【北岡】国内対立は根深いものがありますね。

細谷さんは、『国連の成立』という本がもうほとんどできている?

【細谷】いや、まだ半分ぐらいしか書いてない。
私は40年代ですから、国連ができる時期です。多分、日本で国連を外交史でやっているのは、潘さんと私と、あとほかに何人かいますが、私はできる前、できる成立の過程を研究しているところです。これは私の憶測、つまり私は英米を中心にやっていて、日本の側は全く見ていないので憶測なんですが、ちょうど私が41年から46年までやっていて、45年10月に国連ができて、46年1月から国連総会が始まって、最初の重要な、特に安保理の議題がイランの北部からの撤退問題で、これをソ連が撤退しないということでイランが提訴して、そしてイギリスとソ連との間で激しい対立をした。そこで加盟国が、もう国連はだめだ、形だけであって機能しないということに対して、そのセッションにいた議論を見ていて、つまり、当初、国連の成立の意図していた精神というものはない、もう無理だと。46年1月です。それで、その過程の中から、46年から47年にかけて、西側で西側同盟をつくろう、ブリュッセル条約ができたということなんです。
私の研究の時代に戻って恐縮ですが、今日、潘さんがおっしゃっていた安保理、P5に基づいて非常に大国主義的だというのは、国連をつくる過程で、ちょうど43から44年にかけて、ルーズベルトも、イギリスのイーデンもチャーチルも、国連というものには安全保障上全く信頼していない。そもそもこんなことで国家安全保障がかなえられるとは全く考えていない。
そして、あくまでも安保を守るのは国家の軍事力であって、あくまでも同盟であると。そこで、チャーチルにしてもルーズベルトにしても、そもそも国連の構想に対しては非常に懐疑的だった。

【潘】チャーチルは地域的な、複数の地域的な安全保障機構をつくって。

【細谷】そうなんですよ。ちょうど43年ぐらいだったと思うんですけれども、そのあたりの史料を見ていて、なぜチャーチルとルーズベルトが最後折れたかというと、結局、集団的自衛権という形で同盟をつくると。つまり国連、集団安全保障が主で、集団的自衛権が従というよりは、むしろあくまでも集団的自衛権のほうが主であって、同盟で国家の安全を守って、それだけよりは、集団安全保障というものでの、何となく国際的な協調の精神があったほうがいいということが、リアリストであるルーズベルトとチャーチルが受け入れた背景だったのです。もちろんイーデンもそうです。理想主義的なコーデル・ハルは別ですけれども。ちょうど国連を創った人、つまり国連憲章を書いたのが、イギリスのグラッドウィン・ジェブというブライアン・アークハートの師匠、それとアレクサンダー・カドガンというイギリスの外務事務次官。彼らはNATOをつくった人物でもあって、特にグラッドウィン・ジェブですけれども、そもそもNATOの構想のもととなるのは44年ですから、ジェブは国連憲章を書きながら、Western Unionという西側の同盟の原案をつくっているんです。
ですから、そのあたりの集団的自衛権の同盟と、大国主義的なウィーン体制の欧州協調から来る5大国間の協調の二つの枠組みを両方用いて、安全を維持する。そうすると、19世紀的な、同盟をもとにして大国間協調をもとにする安全保障、そしてその中に、何となく集団安全保障的な国際協調もつくるという枠組みは、ほとんど実は、国連憲章の精神であった。その時代と変わっていなくて、そしてその構想のもととなるグラッドウィン・ジェブの下でつくったのが、当時、LSEのインターナショナルヒストリーの教授だったチャールズ・ウェブスター。そのチャールズ・ウェブスターというのはウィーン体制の研究をしている人なんです。
ですから、そうすると、私は一般的な日本での国連理解とは全く逆で、そもそもその成立の過程を見ると、出発点としてあるのは、あくまでも国家の軍事力、個別的自衛権であって、そして集団的自衛権であって、そしてその上に非常に薄い網がかかったのが集団的安全保障。ただ、それが46年に壊れて、つまりイランの北部の問題をめぐって、集団的安全保障というのはそもそも無理だという、特に大国の関与する問題に関しては無理だということで、結局個別的、集団的な自衛権に戻ってしまうのは47年、48年だとすると、日本にとって不幸だったのは、46年の国連にいなかったという。その姿を見ていれば、おそらくその現実を、その場でセッションに加わっていれば、理想というものに対して、戦後に国連憲章という姿で見て、当時、外務省の中でも国連に対する調査をする機関がたしかあって、それよりもはるかに、もう少しリアリスティックというか、要するに幻滅したリアリスティックなオプションというのは可能だったのかなと。そこから出発することが、むしろ逆に、国連中心主義や国連重視主義という形で積極的な関与ができたんじゃないかなと思うんです。
そういうパワーポリティックス──ちょっと1つお伺いしたいのは、67年から70年を前後して非常におもしろかったのが、このころを前後して日本の国連外交が積極化し、そして鶴岡大使のもとで、常任理事国入りというものに関して、徐々に動きがスピードアップしていくということなんです。先ほどの56年の国連加盟の問題での、ソ連の問題というのと全くパラレルで、結局、国連に加盟するために日ソの交渉が必要であったとすれば、この60年代後半から70年を前後して、まだ米ソのデタントの前で、ジョンソンですから、そうすると、ソ連が日本の常任理事国入り、加盟に関して黙視するというための、何か具体的な、日本政府の制度の中でのどういう研究があったのでしょうか。

【潘】日本政府の中でどういう研究があったか、私もよくわかっておりませんが、70年代の安保理常任理事国入り問題についての資料請求もまた却下されたんで、資料のタイトルまでは公開されたんですけれども、中身は一切公開しないということで、ソ連に対してどういう見方を持っていかわからないのです。

ただ一つ、お答えにはならないかもしれませんが、ご参考で、ソ連が日本の安保理常任理事国入りに対してどういう姿勢をとったかというところでは、非常に興味深いエピソードがありまして、ニクソン・ショックまではソ連が非常に冷たい、それはご想像のとおり、ソ連はそういう日本の安保理常任理事国入りなんか、当然、最初からそれは望んでいたはずがないと。
しかし、米中の接近によって、突然ソ連が非常に熱心に、日本の安保理常任理事国入りを一時は支持するようになったんです。そしてグロムイコが、当時は福田外相だったんですけれども、福田さんに対して、実際、我々が、つまりソ連が日本の安保理常任理事国入りを強く反対していないんだと。一番強く反対していたのは1カ国だけ、ご想像のとおり、あんたの隣の国、要は中国が反対していたんだと語りました。

【北岡】これは想像がつきますよね。当時の中ソ関係でね。田中内閣に対するアプローチから、78年の平和友好条約までの間にある対ソ関係にはチャンスがあったんですよね。

【潘】ありました。

【北岡】こんなこと言ってもしようがないんだけれども、もしこのころ──しかしこのころの常任というのは、完全な常任なんですか。拒否権付きなんですか。拒否なしだったら実現したかもしれない。

【潘】あのときは、ここはもめていたんです。いわゆる準常任理事国案が2種類出ておりまして、1つはローテーション案というもので、限られた国の間でローテーションでやると。もう1つは、いわゆる拒否権なしの常任理事国入り。両方ともいわゆる準常任理事国。日本側の姿勢というのが、私は内部の資料を見たことがないので、唯一見れるのが国会答弁だけなんですよね。国会答弁を見ると、ぐるぐる変わっているんですよ。
最初は愛知外相が、準常任理事国でもいいというような発言をして、その後、また二転三転して、結局、どういった結論に落ちついたのかというのは確かめることができなかったんです。
また鶴岡大使の話になっちゃったんですが、鶴岡大使は一時確かにローテーション案を推していたということです。

【北岡】ローテーションするほかの国はどこですか。

【潘】たしかインドとかが入っていたとアメリカ側は理解しています。──日本側ははっきりとは言わなかったんですけれども、数カ国。ただ、アジアの国々。

【北岡】インドと交代ということですか。

【潘】ただ、インドだけではないと思います。

【北岡】そうすると、あまり割がよくないですね。当時、ドイツは入っていないわけだしね。

【潘】いや、ドイツは当時、まだ加盟国に……。

【北岡】入っていないから。加盟国じゃないから。

【潘】そうです。

【北岡】ローテートする候補となる国はどこがあるかなと思ったんですけどね。

【潘】あのときは、確かにローテーションの分け方が、鶴岡大使の言っているのが、アジアというのは、要するにアジア太平洋地域、中央アジア、西アジアと何とかと3つに分けて、日本はその中の1つの部分の席のローテーションに入るというような……。

【北岡】東アジアの中のローテーション?

【潘】ええ。

【北岡】ほかにどこがあるんですかね、ロシアと……。日本、その他、日本、その他という感じかな、そうしたら。

【潘】そうみたいですね。ただ、名前が出たのはオーストラリアを確かに言っていました。

【北岡】でも、インドは南ですよね。

【潘】ニュージーランドとかも出ました。ニュージーランドとオーストラリアと。

【北岡】また地域分けをやらなくちゃいけないし。
でも、僕は日本自体の関心は、結局、サミットのほうに行っちゃったんじゃないかと思うんです。75年ぐらいから。国連はしょせん動かない、それよりサミットのほうが重要だというふうに、政府全体が行ったんじゃないかと思うんですけれども、それは資料を読んで言っているんじゃないですけど。

【潘】ただ、77年の福田首相の訪米のときはもうカーター政権だったんですけれども、もう一度またこの話が出てきて、ニクソンの後、アメリカの大統領が久々、常任理事国入り支持の発言はしなかったんですけれども、カーターのとき、もう一度しました。
だから、それはおそらく、77年のとき、また日本側からそういう働きかけがあったからカーターはあの発言をしたと思います。

【鶴岡】福田総理の秘書官は小和田恆でした。だから、こういうのも結局、個人的にやっている人が多いんですよね。(笑)
それから、民主党の大統領のときには比較的動きやすくて、共和党になるととまるということを考えたときに、カーター大統領とだったら実現するかもしれないと思った可能性もありますよね。

【細谷】当然、当時は今みたいな形でそこら中にPKOを出しているわけじゃないでしょうから、日本国内でPKOは低調で、しかも国連軍、国連憲章7章というのはほとんど想定されないとすれば、今みたいな、つまり安保理に入れば日本は自衛隊を出さなくちゃいけないのかとか、そういう議論もないわけですよね。基本的には政治的な……。

【潘】この議論は実際、当時、国会にありまして、当時の国連局長は、確かに影井梅夫さんで、国会答弁に立って、要するに、日本はPKOにも人を出していないのに、しかも国連軍の参加なんかも憲法上はできない国にもかかわらず、国連常任理事国入りというのは、社会党は必ずこういう系統の質問をするんですよね。常任理事国になるというのは、あれは軍事大国化に向けての第一歩だというふうに批判されると、外務省のほうは、それは関係ないことだと。なぜかというと、憲章上そういう常任理事国の派兵義務は全く見出せない。だからそういうことを心配する必要はないんだというふうに答弁したと思います。

【細谷】ハードルが今は高いですね。(笑)

【北岡】ある一定の進歩があれば、必ず反対も増えてくるということになっているんですね。
そうすると、小泉さんのような反対はなかったわけね。(笑)

【潘】でも、前の小泉さんのときのアメリカとかの反応は、私から見ればすごく71年とか2年のときと同じような……。

【北岡】今日の話もよく似てる話が……。

【潘】何かよく似ている対応を取っていたかのような気がします。

【北岡】アメリカは、時々その気があるようなふりをして見せることがあるんですね。よく似てますね。

【小澤】でも、05年に具体的な決議案を提示するというところまで行ったというのは画期的なんですよ。

【潘】はい。

【北岡】だからやっぱり、投票して記録を残す……。

【小澤】記録を残せなかったのは残念極まりないですね。(笑)

【北岡】それから、アメリカのニクソン・ショック前後の中国代表権問題云々のとき、もう少し包括的な取り組みをする余裕が、アメリカにもしあれば、そうすると、中共と取引して……。

【潘】日本はその取引をしようとしていましたよ。要するに、中国が今度入ってくるので、中国の影響力をオフセットするために、日本も常任理事国の中に入れておくということをアメリカに提案したんです。アメリカ側は全然取り合わなかったんです。

【鶴岡】それはやっぱり、キッシンジャーは対日不信論者だからです。もっと始末に負えないと思ったかもしれない。

【北岡】周恩来がそう言っていますからね。

【潘】 中国はあくまでも中華民国の席を継承するということで、拒否権なしでは入らないのでしょう。

【北岡】入らなきゃ入らないでいいですよ。(笑)
大変勉強になる話を聞かせていただきましてありがとうございました。
蓮生さん、何か質問は。ユネスコの話とか。

【蓮生】今日、二面性というお話を最初になさってらしたときに最初に感じたのが、アメリカの国連外交との比較です。アメリカの国連外交も同じようにアンビバレンス(両面価値性)があると言われているわけですが、例えばエドワード・ラック(Edward Luck)の『ミックスド・メッセージ』とかをみても、歴史的にも、常にアメリカ外交においても「親」UNと「反」UNの2つの相克があって、その対立の中で外交政策が形成されてきたとされている。アメリカの場合、この親UNというのはグローバル・バブリック・インタレストの推進という価値観に基づく。一方、反UNのほうは、いわゆるアメリカ独自のイクセプショナリズムなどのロジックが背景にあると言われてきた。この親UNと反UNというアメリカの国連外交における二面性と、今日お話をお伺いした日本の国連外交における二面性がかなりずれているのが、私としては大変興味をひかれた点です。日本の国連外交の親UNのほうは似ているのかなと思ったんですけれども……。

【潘】ただ、いわゆる反UNの部分が、日本にはなかったんですよね、結局。

【蓮生】ええ。アメリカと日本でこれだけ違うのかと。「反」がなくて……。

【潘】要は消極性というのがせいぜい無関心程度のもので、反UNは絶対しないということなんです。

【蓮生】本音と建前というかね。

【北岡】最近はあるんですけどね。

【潘】最近はあります。最近は日曜日のテレビ討論で、高村外務大臣が、日本は国連中心でやる必要がないと言ってた(笑)。国連決議があれば、もう何もできるというふうに考えるのは違うんだと。

【北岡】それと違う、国連なんか役に立たないからやめてしまえという人はいません。

【潘】ああ、そういう人はいません。

【北岡】最近出てきましたね、産経新聞系。どうもありがとうございました。とてもおもしろく聞かせていただきました。

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