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民主主義をめぐる帝国期日本の教訓―かつて日本でも民主的後退があった
立憲政友会の浜田国松議員の粛軍演説に対し答弁する寺内寿一陸相。寺内陸相は浜田議員の演説は軍を侮辱するものとしたことから、浜田議員との間で「割腹問答」となり、激怒した陸相は後で広田弘毅首相(後方閣僚席右手前)に解散を迫る。1937(昭和12)年1月21日、国会。(画像提供:共同通信)

民主主義をめぐる帝国期日本の教訓―かつて日本でも民主的後退があった

December 22, 2021

R-2021-026

1. 世界的な民主主義後退の中で―「大正デモクラシー状況」の幽霊を考える
2. 戦前日本に自由民主主義体制はあったのか―成立過程
3. 民主主義は過小だったのか過剰だったのか―展開過程と崩壊過程
4. 第二民主政と「大正デモクラシー状況」からの声

1.世界的な民主主義後退の中で―「大正デモクラシー状況」の幽霊を考える

現在の世界はコロナ禍からの出口を求めて模索を続けている。戦争や大規模自然災害など、大きな災厄はそれぞれの国の統治のあり方を試験する。必要に応じて都市封鎖を繰り返す国、警告の度合いを変えることで国民の自発的協力を促す国、いずれも綱渡りを続けている。その中で管理型の権威主義体制と自由を尊重する民主主義体制の対比が議論され、(自由)民主主義体制の旗色はあまりよくないように見える。

しかし、民主主義の旗色が悪いのは2020年3月のコロナ・パンデミックに始まったことではない。ヨーロッパでは排外主義の高まりとポピュリズム政党が存在感を増し、アメリカでも自国第一を唱えるトランプ大統領の誕生が社会の分断を深めた。ポピュリズムは民主主義の再生を促すのか、死に導くのか。日本でも大阪維新の会など従来の政党と位相を異にする政党の誕生と伸長が注目を集めた。2021年1月、アメリカでは再選を阻まれたトランプ前大統領の敗北に疑問を持つ人々が連邦議会議事堂に突入し、死者が出た。また、8月には米軍が撤退するアフガニスタンで、戦後約20年間アメリカが国づくりを主導し日本も当事者として支援した自由民主主義的な体制が泡のように失われた。

それらは現在の世界的な民主主義の後退を象徴する出来事である。民主主義諸国には劣化の問題や崩壊の問題があり、選挙など民主的制度の権威主義体制によるつまみ食いも見られる。1989年の冷戦終結時に「歴史の終わり」として自由民主主義体制が賞賛された時代とは隔世の感で、権威主義体制が自信を強めている。その中でポピュリズムと多様な権威主義体制は現在の議論の焦点である。

このような世界的な民主主義の後退を考える上で、戦前日本の歴史に何か示唆はあるだろうか。ポピュリズムとの関係で注目されてきたのは日米開戦期の指導者近衛文麿であり、筒井清忠は日露戦争以降の大衆人気に基づく政治が日米戦争へと日本を進めていったとより俯瞰した議論も提供している(『戦前日本のポピュリズム―日米戦争への道』中公新書、2018年)。他方、本報告の準備に際して大変興味深かったのが、ドイツでの「ヴァイマル状況」という言葉である(アンドレアス・ヴィルシング、ベルトルト・コーラー、ウルリヒ・ヴィルヘルム編/板橋拓己・小野寺拓也監訳『ナチズムは再来するのか?―民主主義をめぐるヴァイマル共和国の教訓』慶應義塾大学出版会、2019年)。当時最も進んだ民主主義国であると考えられたワイマール共和国にヒトラーが登場し内部崩壊した。その陰が現在にも見いだせるのか。その点、日本はどうだろうか。

現在「大正デモクラシー」という言葉は比較的良いイメージで理解されている。しかし1950年代の初出時にはそうではなく、不完全で脆弱な逸脱期として理解された。その後、運動や思想、モダンな文化が顧みられ、政党政治など政治制度も肯定的に振り返られるようになった。それは実際の帰結とは異なる可能性の時代と言えよう。先にあげた「ヴァイマル状況」と対比するならば反面教師としての古典的な「大正デモクラシー状況」が問題となるだろう。ここではその後の研究の進展を踏まえて、第一次世界大戦後の日本の政党政治とポピュリズムとの関係を論じ、現在への示唆を考えたい。 

2.戦前日本に自由民主主義体制はあったのか―成立過程

最初に踏まえておきたいのは、第一次世界大戦後の日本の民主政治(政党政治)はドイツと違って、また戦後の日本とは違って、戦勝国での民主化であることである。政党政治は後に西洋由来だと攻撃されたように文化的には距離があるものの、大戦に勝利した帝国で既存の憲法上に慣行によって体制化された民主政治であった。文化的問題についても、明治維新以来進めてきた近代化の先に議会の開設(立憲国家化)があり、その先に政党政治があるのであって、文化的接ぎ木は1920年代ではなく、19世紀に遡る。したがって、1920年代後半の自由民主主義的時代が明治史の発展の逸脱期なのではなく、それを放擲した1930年代後半に断絶面があると言えよう。

立憲政治の中に民主政治(議会政治)が胚胎していく過程は、吉野作造に代表されるアイデア(自由主義思想)の発展に加えて、選挙権の拡大と、政権交代ルールの民主化(議会の中心機関化)と、その担い手となる政党の成長が三位一体で進んでいく。法律として明文化されるのは選挙権拡大だけであり、他は慣行や実態として進んだ。1890年に帝国議会が開設され、1912(大正元)年に第一次憲政擁護運動で政党内閣が組織されるべきという「憲政常道」論が唱えられる。首相選定は天皇の指名が正統性の根拠であり、しかも君主無答責の原則から元老らが決めて天皇に推薦する形となっていた(首相選定過程の変化など以下の叙述は、村井良太『政党内閣制の成立 一九一八~二七年』『政党内閣制の展開と崩壊 一九二七~三六年』有斐閣、20052014年を参照)。

第一次世界大戦後に思想的に隆盛したのはロシア革命に刺激された社会主義とそれに危機感を抱いた国粋主義であり、自由主義への警戒はあくまでも行き過ぎへの懸念であった。大戦末期の1918年に初の本格的政党内閣と呼ばれる原敬立憲政友会内閣が成立するが、元老山県有朋からも信頼を得た。大戦中の第二次大隈重信内閣は事実上の政党内閣と言って良いものだったが、対華二一カ条要求や中国革命に沿う袁世凱排斥運動はポピュリズム政党への懸念を招くものであり、さらなる焦点として男子普通選挙制の導入があった。原内閣は納税条件の緩和で普通選挙を拒否し、他方で三・一独立運動を受けて帝国統治のあり方を変更するなど、政党政治は合理的統治の担い手として登場する。この場合の合理的統治とは列強と協調しつつ帝国を維持していくことである。政党は国民を代表するから尊重されるだけでなく、国民と対話し、説得し、導く存在である。

第一次世界大戦の終結は「民主主義の勝利」と言われた。日本でも犬養毅を中心に改革派の革新倶楽部が組織され、大隈内閣の与党に起源を持つ憲政会は男子普選支持に転じた。原が暗殺されると党内から元老の指名を受けて高橋是清内閣が成立した。政党政治は次第に自信を深め、自律的傾向を強める。それは民意を背景とした政党政治の当然の発展である。高橋内閣が党の内紛で倒れると、三代の非政党内閣が実質的には政党の支えを得ながら誕生したが、1924年には第二次憲政擁護運動が起こった。それは政党勢力の多数が政党内閣制の確立を掲げた政治改革運動であった。総選挙を受けて清浦奎吾内閣が自ら退陣すると、元老西園寺公望はさらなる混乱を避けるために第一党の党首加藤高明を指名せざるを得なかった。こうして加藤は、貴族院議員から衆議院に転じて当選した高橋、犬養とともにいわゆる「護憲三派」内閣を組織した。元老と選挙を媒介にした政府と反政府勢力との平和的政権交代である。以後、1932年まで政党内閣が連続し、この内閣では男子25歳以上を対象とする男子普通選挙制も導入された。

3.民主主義は過小だったのか過剰だったのか―展開過程と崩壊過程

治安維持法が同時に成立したことで、ここをもって「大正デモクラシー」は終わり(大正も1926年に終わる)、戦争への坂道を転げ落ちていく像がかつての通説であった。しかし、まだ民主化は終わっていない。政党間での政権交代を考える上では、憲政会単独の第二次加藤高明内閣の成立が重要である。これによって統治政党が複数化した。1927年には与野党間で政権が交代し、これを「憲政の常道」とみなす政党内閣制が成立した。さらに政界再編で立憲民政党が誕生し、政友会との間で二大政党化した。初の男子普通選挙執行は1928年であり、二大政党が政権をかけて国民の支持を競い合った。この選挙には無産政党も参加し、若き昭和天皇も高い関心を示した。ところが選挙結果は与野党伯仲し、田中義一政友会内閣は張作霖爆殺事件の処理をめぐって天皇の叱責によって退陣するなど混乱が続くことになる。

これは民主主義の過小であろうか、過剰であろうか。戦前日本で民主主義の過剰などと言えば世迷い言に聞こえる人もいるだろう。確かに過小であった。先に1920年代の日本の政党政治は戦勝国での民主化だと述べたが、このことは帝国憲法の運用で実現した民主政治であり、枢密院や軍の統帥権独立など政党による国政統合を阻害する諸制度が残ったままであった。したがって、政党政治が国民から支持を受けている間は伸長著しいが、支持が離れると旧勢力が生き残りをかけて立ちはだかるのであった。また、政党政治が立憲政治の中に成長したことは、帝国の問題と衝突する。日本は帝国憲法施行後に台湾、関東州、朝鮮、南洋群島といった海外植民地を獲得していった。このことは国内統治と帝国統治との間に溝を産み、特に安全保障問題で軍が発言拠点を維持することになった。

しかし他方で民主主義は過剰でもあった。正確に言えば、さらなる民主化の途上にあって、すでに過剰であると感じられたことが歴史を動かした。1929年の世界大恐慌の発生は長期的に深刻な影響をもたらすが、その後も民主化は続いていた。1931年春には女性の地方参政権が貴族院の反対で惜しくも実現しなかったが、政友会と民政党は競って女性の政治参加を求め、国政参加実現も近いとみられていた。それは政党政治の新たな国民的基盤となるはずであった。陸軍と海軍も政党政治に適応しようとしていた。そもそも予算の獲得には議会の説得が必要であり、政府が国際軍縮を進めたことは厳しい組織運営を強いた。官僚も党派性を帯び、政権党が代わる度に選挙に関わる地方官の交代が起こった。昭和天皇や宮中官僚も政党政治に適応し、政党政治の問題を矯正する元老の役割に期待したが、西園寺は政党政治の自律的展開を支持して介入しない。田中は内閣退陣後も政友会総裁に止まり、選挙で与野党が逆転すれば叱責した昭和天皇が再び田中を首相に指名しなければならなくなることが宮中で憂慮されるほどであった。与野党対立も先鋭化した。政党は権力を求めて国民の支持を求め、国民は二大政党に投票した。権力の中心となった政党には玉石様々な人が集まり、汚職事件も頻発した。

こうした中で陸軍の出先である関東軍のしかも幕僚が1931年9月に満州事変を引き起こした。国内でもテロが起こる中で、1932年5月に首相が官邸で暗殺された(五・一五事件)。この時、第三次憲政擁護運動は起こらなかった。犬養の遺骸を政友会本部に運んで対決すべきだという議論もあった。しかし、元老西園寺は政党と軍の正面衝突が不測の事態を引き起こすことを恐れ、政党の中にも自らの反省を求める議論があった。横綱相撲である。犬養内閣の後、元海軍大臣で朝鮮総督を務めた斎藤実が選ばれ政党内閣の連続は途絶えた。しかし、政党内閣制の崩壊ではなく、非常時暫定政権として政党政治への復帰を前提に選挙や議会の改善も図られた。にもかかわらず一時的な存在は長期化し再現し1936年の総選挙直後には二・二六事件が起こった。政党は劣化したから権力から排除されたのではない。暴力によって排除された後、政権復帰をめぐって迷走した結果劣化した。一方、軍は国民を背景とする国際主義的な政党政治の復活を強く警戒した。かつては軍こそが近代的で国際的であったのに。こうして帝国期日本の民主政治は2度の暴力によって時間をかけて失われていった。大衆人気にしか基盤を持たない近衛に期待が集まるのは政党政治という政治制度が日本政治から失われた後である。日本の固有性が強調され、愛国教育の中で自由主義は原理的に否定された。 

4.第二民主政と「大正デモクラシー状況」からの声

1945年に日本が受諾したポツダム宣言には民主主義的傾向の「復活強化」と記されていた。それは現在の研究状況から見ても正しい理解である。民主主義を無から作り出したわけでもなく、復活しただけでもなく、反省を踏まえて制度的に強化されている。日本側の憲法草案は保守的と一顧もされなかったが、政党政治が基盤とする議会の強化がすでに唱われていた。帝国の解体も粛々と受け入れた。以後、民主政治が続いている。

現在の日本政治に危険な「大正デモクラシー状況」は見えるだろうか。戦後日本は、時に熱狂に揺れながらも、制度でも、規範でも、実践でも、民主主義を日々適切な範囲で管理してきたのではないだろうか(詳細の一端は村井良太『佐藤栄作』中央公論新社、2019年、同『市川房枝』ミネルヴァ書房、2021年を参照してほしい)。首相選定の方法は憲法に明記され、議会と結びつけられた。また防衛大学校などの取り組みを通して民主主義と調和的な軍の再建にも成功した。三島由紀夫は佐藤栄作政権が街頭騒擾の鎮圧に自衛隊を用いず、沖縄返還と社会開発で応えたことで憲法改正の前途を悲観し、自衛隊駐屯地に突入した。しかし、憲法改正が不可能となったのではなく、戦前のような暴力による民主的体制の転覆がもはや不可能になったということであろう。地方首長を党派化しないことも良かれ悪しかれ1920年代の政党政治への反省が踏まえられている。民主政治を固定化した上での民主政治の過剰への対処であり、荒ぶる民主政治をいかに乗りこなすかの工夫である。

もとより新しい問題もある。頭数を数える民主主義は反知性主義に傾きやすい。戦前の政党政治はエリート支配であって現在の方が工夫を求められる。民主主義の過小は問題であるが、民主主義の過剰も民主主義を破壊する。何が過剰かは簡単ではないが、何かと言えば大政翼賛会的、ファシズム的といった短絡的批判は解決につながらないだろう。かつて田中義一内閣は同時代にひどい批判を受けたが、政党政治が倒れた後はもっとひどい内閣が続いたのではないだろうか。ただただ批判する行為は墓穴掘りである。

中国が実現した豊かさやコロナ対応を見て、自由民主主義体制の効用面での輝きには陰りが見える。しかしそもそも民主主義は機能的な権力創出を競う仕組みではない。日本と米国では制度が異なるが、選挙権の拡大には激しい議論があっても、日本では登録や投票所の配置で有権者の投票を妨害する工夫を競ったことはない(寝てしまってくれればという希望的仮定の発言はあった)。民主主義は今では和魂洋才の道具立てに止まらず、日本文化の一つとみるべきである。第三次内閣の桂太郎と戦後の岸信介と福田赳夫は最後の勝負に出ずに権力を去った。三木武夫は死中に活を求める解散のための反対閣僚の大量罷免をしなかった。それが良かったかどうか、勝利の計算が立ちがたい面もあっただろう。それでも権力者は無理押しをしなかった。もちろんそこには政治的敗者への寛容がなくてはならない。岸首相が六〇年安保で自衛隊を出さなかったことも重要である。三木首相の例もそうだが、権限的にできることをするかどうか、制度的にできるできないの一段手前に、それぞれの社会の文化としての統治のモラルと賢慮が重要ではないか。民主主義において対立を極大化せず身を引くエリートの行動は馬鹿げているのか、賢明なのか。歴史研究はこれらの行為を比較的好意的に評価している。

現在、世界的な民主主義の後退に民主主義諸国が団結して対峙しようという声がある。確かに選挙へのサイバー攻撃やフェイク・ニュースが与える影響への対策など、共通して開発されるべき有用な技術はあるだろう。同病相憐れみ、同憂相救うである。しかし、権威主義国を仮想敵とする連帯には違和感も覚える。冷戦終結前後、日本は、その民主主義は本当の民主主義ではないという「日本異質論」に見舞われた。対立構造はどこまでも細分化できる。日本は天安門事件の後でも民主主義よりも地域の安定を優先した。現在の世界的な民主主義の後退を受けて、日本人が今から権威主義体制下に住みたいと思うだろうか(もとより戦前日本と同様、国民が権威主義体制を望むから民主主義体制が崩壊するわけではないが)。統治の問題は一義的には国内問題である。

それでも時代は移る。自国の生存を図るためにどのような戦略をとるべきか。そして東アジアでの「第三の波」から約30年。欧米社会との結びつきの蓄積に加えて、韓国や台湾などの社会がすでに日本と共通している意識はあり、東アジア全体がそうであってほしいと思っている。すなわちコンビニに行けば必要なものが買え、旅行者が笑顔で行き交い、政府への不満を悪口の形で吐露しても身の危険を感じない社会である。こうした共通社会の出現をどう受け止めるか。日本人も日本の中だけで孤立して生きているわけではない。そもそも日本人とは誰のことだろうか。有権者か国籍か住民かルーツか。ライシャワー元駐日大使は日本生まれの米国人だった。問題は簡単ではない。自国と地域の歴史を顧みながら考えるべき課題であり、荒ぶる民主主義を乗りこなす政党の働きと、私たちの応援を必要としている。

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    • 政治外交検証研究会メンバー/駒澤大学法学部教授
    • 村井 良太
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