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【Views on China】中国の社会変革における「底線」とは

February 29, 2016

法政大学客員学術研究員
及川 淳子

中国社会の変化を読み解くキーワード

現在、中国について理解を深めるためには、中国共産党および国家と社会の関係が変化していることに着目する必要がある。社会の安定維持は習近平政権にとって最重要課題であるが、社会が多様化し、複雑化する中で、様々な利害の調整は困難を極めている。

では、そうした変化を読み解く上で、どのような視点や手法が有用だろうか。当然ながら様々な研究手法が採用されているが、筆者は社会を構成する人々の思想と行動を重視し、それらが表出される言論空間の諸様相を明らかにすることによって中国社会の変容を解明したいと考えている。分析の際に象徴的なキーワードを手掛かりとするのは古典的な手法かもしれないが、中国語の含意を丁寧に読み取ることは中国社会の複雑さを解明する一助になるだろう。

今回は、中国の社会変革について論じる際に使用されることが多い「底線」という言葉をキーワードとして取り上げたい。様々な評論をはじめ、中国の研究者やジャーナリストと交流する中でも頻繁に耳にする言葉だ。手元の辞書によれば、「底線」はサッカーなどの球技でコートに引かれた「境界線」を指し、そこから転じて「最低の条件」、「最低の限度」を意味する [1] 。英訳は「bottom line」だが、中国の社会変革に関する言説では、「エンドライン」、「ベースライン」、「ゴールライン」などのニュアンスで使用されることも多い。例えば、「做人的底線(人としての最低基準)」、「社会道徳底線(社会道徳のボトムライン)」のように使われる。重要なキーワードを適切な日本語に翻訳する必要性は痛感しているが、これらの含意を排除しないために、ここではあえて「底線」という原語のまま使用する。

党および国家と社会の関係性が変化する中で、より良い社会のあり方を論じる際に「底線」という言葉が用いられているのはなぜか。そして、社会変革における「底線」とは、果たして何を指すのだろうか。

深刻化する中国社会の分断

社会変革をめぐる言論空間において、「底線」はどのように論じられているか。この問題を検討するために、まずは、中国社会が急速に分断されているという問題を指摘したい。従来、中国社会を構造的に分析する際には、極めて単純化された構図として、中国共産党による一党支配という現体制を擁護する立場の「体制内」と、党や政府とは異なる政治的見解を有する「体制外」に区分することが多かった。だが、政治や社会のあり方をめぐる言論について言えば、体制の内外を区別して二項対立の図式を描くことでは現状を十分に説明することは難しい。例えば、政治体制改革をめぐる議論やリベラリズムなどの思潮について、現在は体制の内外を問わず実に多様な幅広い意見が存在している [2] 。様々な問題をめぐる意見衝突が露見し、中国の言論空間は極めて複雑な様相を呈しており、もはや体制内外という単純な構図には当てはまらない。

では、近頃の中国社会に見られる「分断」とはいかなる情況を指すのか。筆者が注目するのは、昨年末に中国のインターネットで爆発的に流行した「趙家の人」という言葉だ [3] 。これは魯迅の小説『阿Q正伝』(1921年)に由来する。主人公の阿Qは、地主の趙家の息子が科挙に合格したのを知って自らも趙家の一員だと吹聴するが、趙家の主人から「趙という姓を名乗る資格があるのか」と罵られるくだりがある。昨年、大手不動産企業に対する敵対的買収という事件の背景に党や軍の高官を後ろ盾にする人々が深く関与していることが明らかになり、特権階級に対する庶民の不満と批判が噴出した [4] 。「趙家の人」は権勢を誇る人々を揶揄する隠語として流行したが、その後は中国共産党の内部通知によってメディアでの使用が禁止された [5]

中国共産党の権勢を盾に富と権力をほしいままにする人たちを指して、「権貴集団(権力と威勢をふるう既得権益集団)」という言葉がある。中国共産党の高官とその親族たちによる「権貴資本主義」は、まさしく「crony capitalism(縁故資本主義)」にほかならない。党の元高級幹部の子弟で構成されるグループを意味する「太子党」や、その中でも特に中華人民共和国の成立以前に革命に参加して顕著な貢献を果たした幹部の子女を指す「紅二代」は、政界はもとより経済界など中国のあらゆる分野で権勢を振るっている。

だが、これら既存の用語とは異なり、「趙家の人」は一般庶民に広く知られている魯迅の作品を背景に、持てる者と持たざる者という決定的な相違を明らかに示した。かつては努力すれば経済的にある程度報われる可能性があり、経済格差も成長の原動力として肯定されていた面があった。しかし、現在の中国社会は機会の平等や公正さが著しく欠如し、「趙家の人」でなければ成功を手にすることは極めて困難である。「趙家の人」たちは当然ながらその権勢を保持することが最優先であり、「趙家の人」ではない庶民は憤りや諦めを募らせるばかりだ。「趙家の人」が象徴しているのは、現在の中国社会における分断の深刻さである。

官と民の間で乖離する「底線」

「改革是找死,不改革是等死(改革は自ら死を求めるようなものだが、改革しなければ死を待つのみ)」というフレーズが危機感をもって語られるようになったのは、いつの頃からだったか。近年は、「改革已死(改革はすでに死んだ)」という表題の時事評論を目にする機会も増えた。習近平指導部は、経済、政治、文化、社会、生態文明の5つの分野で体制改革を包括的に進めるべく政策課題として掲げているが、いずれも構造的な問題を抱えて困難に直面している。

改革は容易に進展せず、むしろ社会の分断が顕著になる中で、官と民の双方で強調しているのが「底線」である。数年来、社会変革のあり方をめぐって、果たして何を「底線」とすれば社会の共通認識が得られるのかという様々な議論が展開されている。「最低基準」や「ボトムライン」という言葉に置き換えれば消極的なイメージが拭えないが、最低限でも「底線」を明らかにできれば、改革の歩みを進めることが可能かもしれないという思索が続けられているのだ。

近年、「底線」を論じた学術書が話題を集めている。代表的な1冊は、清華大学教授の秦暉が2013年に出版した『共同的底線』(共通の“底線”)である [6] 。政治的立場の右や左という違いを超えて、「最低限度の自由な権利と社会保障」を「底線」として社会変革を目指すべきだという主張だ [7] 。注目すべきもう1冊は、『国家底線――公平正義與依法治国』(国家の“底線”――公平な正義と法に基づく国の統治)である [8] 。中国共産党中央編訳局の副局長を長年勤めた兪可平を中心に、18名の研究者が「底線」について論じている。全編に共通するのは、法に基づく統治の重要性を指摘し、法に基づいて党を治め、党内民主を発展させなければならないという論調だ。同書で論じられている「底線」とは、すなわち「法治」である。

民間での議論に対して、習近平政権は「底線」をどのように認識しているのだろうか。2012年に開催された中国共産党第18回全国代表大会以来、習近平は国家統治について論じる際に「底線思維(bottom-line thinking)」という表現を多用している。重要講話の中で幾度も「“底線思維”を堅持し、矛盾を回避せず、問題を隠さず、何でも悪い所から準備をして、最良の結果を勝ち取るよう努力する。備えあれば憂い無し、事にあたっては慌てない。しっかりと主導権を握る」と述べている [9] 。つまり、様々な問題の「底線(最低ライン)」から出発して「頂線(最高ライン)」を目指そうという発想が「底線思維」だといえよう。

しかし、近頃は政権側が用いる「底線」の意味合いが著しく変化している。例えば、昨年10月に改正された「中国共産党廉潔自律準則」および「中国共産党規律処分条例」においても「底線」が多用されているが、いずれも党員として堅持すべき規範について言及した内容だ [10] 。これらの発表にあわせて、「堅持高標準、守住底線(高い基準を堅持し、“底線”をしっかりと守る)」と題した党員の学習キャンペーンも展開された [11] 。習近平政権が反腐敗運動を強力に推し進める中で、「底線」は国家統治について論じる用語から、党員としてのあり方を説く用語に変質した。知識人が社会変革について議論する際に、自由な権利、社会保障、法治などを「底線」として規定したのとは、言葉の意味は同じでも使用されている文脈が異なる。

官と民の間で「底線」の定義は齟齬をきたし、ますます乖離しているといえよう。権勢を振るう「趙家の人」たちが重んじる「底線」は、自らの生き残りをかけた内向きの議論に留まっている。一方で、より良い社会の構築を志向する人々が社会変革の「底線」について自由に議論することは、近年ますます困難になっている。習近平政権は言論統制を強化し続け、人権、民主、自由などを含む「普世価値(普遍的価値)」、「憲政」、「公民社会(市民社会)」などは教育の現場やメディアでの使用が厳しき規制されている [12] 。西側の価値観を徹底的に排除するイデオロギー統制は強化の一途を辿るばかりだ。

社会変革における官と民の共通認識

昨年末、「趙家の人」がインターネット上で広まったのと同じ時期に、微信(中国版LINE)などのSNSで転送が繰り返され、目にする機会の多い文章があった。著者の資中?は、中国社会科学院アメリカ研究所で所長を務めた党の改革派老幹部である。「朝野的共識與分岐(官民の共通認識と不一致)」と題したその短い文章は新しく書かれたものではない。これは2014年2月、雑誌『炎黄春秋』の関係者200名余りが一同に会した席での発言で、同年4月号に記録が掲載されている [13] 。資中?は「現在、官と民に共通認識はあるか」と問いかけ、「少なくとも、ひとつの共通認識はあると思う。それはつまり、誰もが動乱の発生を望んでいないということだ。平和的に改革を深化させ、社会の転換期を過ごせるよう希望している」と述べた。

当然ながら、自由な権利や法治を「底線」として規定する議論に比べれば、「動乱の発生を望まない」という資中?の主張は消極的過ぎるだろう。「底線」からのボトムアップを目指すべきなのに、むしろ「底線」がさらに低められたと言わざるを得ない。現体制維持のために社会の安定を重視する習近平政権との間で一種の妥協ではないかという批判もあるかもしれない。だが、2年前の発言が再評価されたのは、資中?の主張が現在もなお説得力をもって読者に受け止められているからではないだろうか。

実際のところ、北アフリカや中東のジャスミン革命以降、特に中東での政治的混乱や相次ぐテロ事件の影響で、仮に強権的な政治であっても、統治されずに社会が混乱するよりはまだましだというシニシズムを耳にすることもある。だが、資中?はシニシズムやニヒリズムに陥ったのではない。会合での発言は、「中国にもっとも必要なのは、理性と現代的な意識を兼ね備えた公民であり、愚民や服従した民ではない」という言葉が続いている。筆者は機会を得てその会合に参加していたが、その力強い発言は今でも強く印象に残っている。

今後、中国の社会変革における「底線」はどのように変化していくのだろうか。習近平政権にとって最大の懸念は現体制の維持であり、社会の安定はその目的を果たすための要件にほかならない。そうであるならば、習近平政権が掲げている法治のもと、「中華人民共和国憲法」に明記されている公民の基本的権利こそが、最優先の「底線」として擁護されるべきだろう [14] 。習近平政権は法治を建前とするのではなく、憲法の遵守を徹底して実施しなければならない。そしてそれと同時に、公民自身の権利意識の向上や知識の普及も不可欠であり、その為にはメディアをはじめ民間で影響力を有している研究者や人権派弁護士など知識界のさらなる貢献も必要だ。言わば、官と民の合成力こそが、中国の社会変革にとって最も重要な条件である。

言うまでもないことだが、官と民の双方がそれぞれの優位性を発揮しながらより良い社会を構築するためには、その大前提として自由な言論空間が保障されなければならない。習近平政権の法治が現在のように建前のままで、今後も建前と実態のねじれた状態が継続するならば、前述したような社会の分断はさらに深刻化し、社会の安定性、ひいては政権の安定を揺るがしかねないと考える。


[1] 中国社会科学院語言研究所詞典編輯室編『現代漢語詞典 第5版』商務院書館、2005年、P.294。
[2] 中国におけるリベラリズム思潮についての最新の研究成果は、以下を参照されたい。石井知章編『現代中国のリベラリズム思潮――1920年代から2015年まで』(藤原書店、2015年)、石井知章・緒形康編『中国リベラリズムの政治空間』(勉誠出版、2015年)。
[3] 中国語は「趙家人」。流行のきっかけを作った北京外国語大学の喬木副教授は、香港のネットメディアに以下の評論を連続して発表した。
[4] 「趙家の人」が流行語になった背景についての解説は以下を参照されたい。古畑康雄「微観中国(33)魯迅作品がネット流行語に 「趙家人」その背景は」東方書店、2016年1月。
http://www.toho-shoten.co.jp/chinanet/index.html>。
[5] 「網伝大陸新禁詞 不許使用“趙家人”」阿波羅網、2016年1月5日。
http://www.aboluowang.com/2016/0105/671614.html>。
[6] 秦暉『共同的底線』江蘇文芸出版社、2013年。
[7] 同上、PP.45-64。
[8] 兪可平主編『国家底線――公平正義與依法治国』中央編訳出版社、2014年。
[9] 「以底線思維定辺界――我們需要怎様的“改革思維”之五」『人民日報』2014年3月17日。
[10] 王岐山「堅持高標準 守住底線 推進全面従厳治党制度創新」『人民日報』2015年10月23日。
[11] 例えば、『党員幹部的高標準和底線』(人民出版社、2015年)など多くの資料も発行された。
[12] 拙稿「『民主』をめぐる潮流と言論統制」美根慶樹編著『習近平政権の言論統制』蒼蒼社、2014年、PP.77-78。
[13] 資中?「朝野的共識與分岐」『炎黄春秋』2014年第4期、PP.6-7。
[14] 「中華人民共和国憲法」第二章には「公民の基本的権利および義務」が明記されており、例えば第35条では「言論、出版、集会、結社、更新および示威の自由」が保障されている。公民の基本的権利については、以下の拙稿を参照されたい。「『公民社会』への道筋――新公民運動と憲政論争」東京財団Views on China、2013年11月15日、
https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=906>。

【筆者略歴】

日本大学大学院総合社会情報研究科博士後期課程修了、博士(総合社会文化)。外務省在外公館専門調査員(在中国日本大使館)を経て、現在は法政大学国際日本学研究所客員学術研究員、桜美林大学北東アジア総合研究所客員研究員、日本大学文理学部非常勤講師、外務省研修所兼任講師。専門は現代中国の社会、特に言論空間に関する研究。

主要著書、『現代中国の言論空間と政治文化――「李鋭ネットワーク」の形成と変容』(単著、御茶の水書房、 2012年)、『中国ネット最前線――「情報統制」と「民主化」』(共著、蒼蒼社、2011年)、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』(共訳著、花伝社、2011 年)、『中国における報道の自由――その展開と運命』(孫旭培著、共訳、桜美林大学北東アジア総合研究所、2013年)、『習近平政権の言論統制』(共著、蒼蒼社、2014 年)、『現代中国のリベラリズム思潮――1920年代から2015年まで』(共著、藤原書店、2015年)、『中国リベラリズムの政治空間』(共著、勉誠出版、2015年)ほか。

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