タイプ
その他
プロジェクト
日付
2016/5/16

【書評】鈴木均『サッチャーと日産英国工場 誘致交渉の歴史 1973〜1986年』(吉田書店、2015年)

評者:佐藤 晋(二松学舎大学国際政治経済学部教授)

 

本書の価値

 あと1ヶ月と少しでEU離脱をめぐる国民投票が行われるイギリスでこそ本書は読まれるべきであろう。本書には、サッチャーが、当時衰退していたとみられていた製造業の復活に向けて、日本の一自動車メーカーからの対内直接投資の実現に奔走し、対EC圏諸国への輸出を拡大しようとした姿が描かれているからだ。もし仮にブレグジットが実現したら、イギリスからEUへの輸出は激減するであろうし、対EU輸出の拠点としてイギリスを投資対象としてきた各国メーカーからの直接投資はほぼなくなるとみてよいと思われる。さらに本書でも示されているように、サッチャーは外国資本の進出にイギリス製造業の生産性向上の引き上げ役を期待していたが、そのような効果もEU離脱後は期待できそうもない。サッチャーが対内直接投資の増大、製造業の生産性向上、対EC輸出の拡大にいかに苦闘したかを本書から学んでもらい、イギリス国民には賢明な選択をしていただきたい。

 その一方で、本書を手に取られる日本人の方々には、ここに書かれていることからかつての日本の栄光をノスタルジックに想起されることは避けていただきたい。確かに本書には、日本的経営が礼賛され、イギリスにおける労組の不当に過大な影響力が糾弾され、日本経済の成長が賞賛され、イギリス経済の衰退が喧伝されていた時代の香りが残っている。しかし、今でも日本の自動車メーカーは世界市場での競争力を保っているし、日本経済が衰退しているように感じるのは第3次産業の生産性の低さからくるものである。その第3次産業の生産性を改善させる方法も残されていよう。したがって、本書から学ぶべきは、先進国の産業構造において第2次産業から第3次産業へと重点がシフトする1980年代に日英両国が何をなし、何をなしえなかったかに就いての反省であろう。

 

 本書の論点

 それでは本書の主要な論点の解説に移る。研究面での貢献は大きく分けて3つあり、1つ目は当然ながら日英関係研究の分野であり、2つ目は野心的にもサッチャーの政策の特徴についてであり、3つ目は一民間企業の経営に労働組合(社内及び進出先であるイギリス国内)がもった影響力についてである。

 第1点については以下の点が本書によって解明されている。まず、日本の輸出超過からもたらされた日英経済摩擦においてサッチャー政権は自由貿易を主張していたわけではないことである。これは、サッチャー自身がそもそも自由貿易主義者であったかという論点にも結びつくが、少なくともサッチャー政権としては日本からの自動車輸入規制(日本側業界による輸出自主規制)を行いつつ日産自動車の誘致交渉を進めていたことがわかる。

 一方、イギリス政府は、対日市場開放の実現によって対日輸出増を狙っていたが、これがなかなか進まないため日本政府によるイギリス製兵器の購入への圧力をかけていくが、それ以前は日本との貿易赤字を改善するための方策として日本からの対内直接投資の受け入れに積極的であったことである。これは日産以外にも行われていて、特に家電メーカーの進出を推進していた。このことによって日本からの輸入減少につなげようとしていたため、貿易誘発効果(日本からの部品の追走的輸入増大)を打ち消そうとして、日本企業の進出工場における現地(部品)調達比率にこだわったのである。

 さらには競争力のある日本企業を誘致して第三国(とりわけ他のEC加盟国)への輸出拡大を、サッチャーが狙っていたこともわかる(具体的にはニッサンの英国生産車の対EC輸出)。サッチャーが外国資本に対して排他的な考えを持っていなかったこともわかるが、これは後で言及する失業率の問題に関係する。最後に、サッチャーが日本に期待していたことが「日本的労組係」の導入であって、これにより手がつけられなくなっていた英国の労働組合問題を改善して製造業の生産性向上=国際競争力上昇を狙っていたことも明かされている。

 それでは第2の論点、すなわちサッチャー研究への貢献に移る。まず、サッチャーが単純な市場経済論者でなかったことが解明されている。それは日本の自動車業界に対英輸出自主規制をさせていたことのほかに、英国進出企業にかなり高めの現地調達比率を義務付けようとしていたことから言えよう。さらにサッチャーがフリードマン流の新古典派的な経済思想を持っていなかったことも明らかである。それは、サッチャーが(特定地域の)失業率の改善を重要政策にしていたこと、さらには対英進出する民間企業への補助金供与に自ら強いリーダーシップを行使したことからわかる。サッチャーほどマネタリストとか自由経済論者といったレッテル張りが似合わない政治家はなく、彼女はまさに「サッチャー主義者」であった。一方で財政支出の削減による財政再建を掲げながら、他方で産業育成(保護)のための財政支出を両立させえた政治家であり、権威主義的に国家権力を行使して市場メカニズムの機能拡大を図った政治家であったのである。

 次に、サッチャー政権の対EC政策の積極化という点であるが、日産工場という輸出競争力に長けた武器を手に入れたことで、対EC諸国へ自由貿易の働きかけが活発化したということのようである。ただし、日産進出のインパクトがどの程度のものであったのか、ここには当然、他にも複数要因が影響しているはずであるので、それら要因との寄与度の検討が必要であろう。

 第3の論点については、イギリス国内の労働組合が細かく職種ごとに分かれていたこと、日産の意思決定に企業内労組が影響力を持っていたことなど、評者には目新しいことばかりであった。とりわけ、日産の進出条件の中で、進出した地域に建てられる工場内で単一労組が結成されるかどうかが重要であり、結果的に失業率が高い地域が労組の要求を抑えられるため選ばれることになった。ただし、サッチャーの労組潰し、とりわけ日本的労使関係を導入することでの製造業の生産性向上という試みが効果を上げたかどうかは不明である。むしろ、サッチャーが国内の広範な改革に「イギリス衰退」論を利用したのではないかという点が感じとれた。

 

日本への教訓

 最後に、評者が本書からインスピレーションを得た日本への教訓について、3点ほど記してみたい。第1の点は、イギリス衰退論が前世紀末のイギリスで極めて盛んであって、その恐怖から政治経済面のみならず、文化的にも、それも数世紀もさかのぼって原因究明の議論が行われていた一方で、現在、明らかに衰退している日本についてそこまでの議論の深まりが見られないことである。もっとも江戸時代の鎖国にまで遡る必要はないと思われるが、少なくとも1970年代以降の政治経済システムをめぐる議論が活発化することが望まれる。

 第2は、1970年代末から1980年代にかけてのサッチャー政権の「産業政策」がグローバル化を見据えていた点である。もともとイギリス経済の比較優位は金融業にあり、製造業は付加的な部門であったが、それでもサッチャーの改革は基幹部門の民営化にも見られるようにグローバルな競争を意識していたようである。とりわけサッチャーの改革は所得税の大幅減税による投資マインドの刺激など、第3次産業が中心となる時代における競争をリードするものであり、日本において法人税並びに所得税の負担軽減が図られなかった点は反省に値するであろう。また、日本における3公社の民営化も赤字減らしが中心的論点であって、グローバルな競争を意識したとは思えない。

 第3点は、そうしたサッチャーと中曽根の国際感覚の違いである。中曽根は安全保障面の脅威、それもソ連の対日侵攻の脅威に突き動かされて、対米・対アジア外交を展開したことが知られている。その中でも、ソ連への対抗として中国に期待してその経済力強化に貢献したこと、アメリカの安全保障上の支援を期待して円高・金利水準・財政支出などの経済面でアメリカの要求に応じバブル経済を発生させ、その後の日本に深い傷跡を残したことが特筆されよう。いうまでもなくバブル経済とその崩壊は、グローバル経済時代の中核となるべき金融業の弱体化をもたらし、日本経済の構造転換は大きく遅れることになったのである。

 

世論とは?

 本書から得られた点の中で評者が最後に取り上げたいのは、「世論」とは何かという問題である。当時(日産進出時)のイギリスについての評者のイメージは、製造業の衰退・失業増大によって、対日貿易差別に見られた保護貿易・排外主義が強かったというものであった。しかし、実際には政府、地域、各労組、産業界などで、貿易のみならず外資についての意見はバラバラで、政権内部・労組・地方には外資に好意的な面があったことが本書から読み取れる。つまり、個別の利害得失は様々であり、どの政治勢力の意見を重視すべきかは一概には決められない。ましてや、一般世論のムードによって死活的利益を持つ勢力が犠牲になること、ひいては国益が毀損されることは避けなければならないであろう。

 この点から冒頭の国民投票の話に戻ると、反移民感情が高まっている間の国民投票というのはタイミングが悪すぎると思われる。まず、本当にEU離脱が移民だけを排除できるのかどうか、貿易・投資への悪影響はどの程度のものなのかを国民全体に理解させなければならない。具体的には、離脱後のイギリスがノルウェーのように欧州自由貿易連合(EFTA)に加盟し、EUとの欧州経済領域(EEA)に加わるか、スイスのようにEUと「二国間」協定を結んで貿易アクセスを確保しようとするか、その他の方式によるのかは全く分からないが、これらどの方式によるにせよ「移民受入拒否・貿易アクセス維持」といった虫の良い選択を、他のEU諸国がイギリスだけに許容するとは到底思われない。

 したがって、離脱賛成派は、離脱後の姿を正確に国民に伝えなければならない。本書からは、EU離脱後のイギリスは1973年加盟以前のイギリスに戻ることと同義だとわかる。これこそ、サッチャーが避けようとした状態であった。そこに、移民受入の国際社会全体からの圧力が加わることも想像に難くない。国民投票が行われるならば、何を問われているのかが明確にされてなければならず、すなわち国民の大半によって争点・選択肢・それぞれの利害得失が長期的視点で理解されていなければならない。優秀な政治的リーダーシップとは、時には国民全体のムードに反しても長期的に国家に益をなす選択を行うものであることが、本書から得られる最大の教訓であろう。