タイプ
その他
プロジェクト
日付
2008/7/17

【書評】「外交時報総目次・執筆者索引 戦前編―一八九八年(明治31)二月第一号~一九四五年(昭和20)四月第九五六号」伊藤信哉編

評者: 武田知己(大東文化大学法学部准教授)


今から110年ほど前の1898年2月、『外交時報』という小さな「海外情報専門誌」を発行する外交時報社が、東京専門学校内(現在の早稲田大学)に誕生した。創設者は有賀長雄(ありが ながお)。東京大学文学部で哲学を修め、社会学や国法学にも精通していた有賀は、主として東京専門学校を中心に教鞭をとった秀才だった。大隈重信とも親しく、1913年には袁世凱政権の顧問になるなど、政治の実際にも関係を持った。『外交時報』創刊当時の有賀は、日清戦争に従軍した経験を踏まえ、『国際法の見地からみたる日清戦争』(1896年)をフランス語で出版したばかりの新進気鋭の国際法学者として名を馳せていたころである。

有賀によれば、『外交時報』創刊の目的は「公衆に代りて列国の過去及現在を講究し、其の極東外交との相関係する所を審かにして我国の態度を定むるの資料に供さんとする」にあった(「外交時報発刊の要旨」創刊号)。つまり、国際社会の動向(当時、列強によるいわゆる「中国分割」が進んでいた)を国民に伝えることを目的とした日本初の専門誌の創設、それが有賀が『外交時報』に託したものである。事実、初期の『外交時報』は「半月外交史」として二週間おきに海外の主な事件をまとめ、同時に海外の新聞や雑誌の論調、学界の動向などを伝え、更に幾つかの事柄に関しては有賀ら数人の国際法学者などが解説を附すという構成をとった。創刊号は2500部がたちまちにして売り切れ、増刷されたという。海外の情報が手軽に入手できる現在とは異なり、このような雑誌の需要は高かったのだろう。その後、有賀の手を離れ、大庭景秋、上原好雄、半沢玉城、小室誠と受け継がれた『外交時報』は、1920年代には「毎号数万」「一年数十万の読者」を獲得するまでに成長する。そのころには初期の「海外情報誌」としての性格だけではなく、「学術誌」「評論誌」としての性格も備え、「外交専門誌」として、当時の日本における「外交論壇」の一つを提供するまでになっていた(伊藤信哉「解題」)。

この雑誌の総目次(但し、1898年2月から1945年4月までの956号分)及び執筆者索引が刊行されたことで、戦前の『外交時報』の利用は格段に容易となった。目次を一瞥すると、学者、評論家を中心に、政治家、外交官、軍人など相当豪華な執筆陣だ。索引も便利で、『外交時報』に掲載されている分だけでも一定の言論分析が可能な人物も多いことが分かる。また、編者による解題も、関係資料がほぼ完全に消失している中、『外交時報』の可能な限りの全容を教えてくれる唯一無二の論考となっている。そもそも、『外交時報』がどのような性格の雑誌なのかがわからなければ、歴史資料としては利用し難い。資料の消失という条件は如何ともしがたいが、経営状態や発行部数、紙面の構成などを丹念に追った解説は、これから本格的に『外交時報』を利用しようとする者の便宜に適うだろう。

ところで、この書評の読者の多くは、Foreign AffairsやInternational Affairsを定期的に手にとっているかもしれない。その雑誌の発行母体となっている米外交問題評議会やチャタムハウスは、周知の通り、第一次大戦期に起源を持つ伝統あるシンクタンクとして、世論、そして政策決定に大きな影響力を行使している団体である。しかし、その機関誌たるFAは1922年、IAは1924年の創刊であって、『外交時報』の創刊に遅れること20年余り後である。『外交時報』の創刊とその後の隆盛は、近代日本が国際社会の動向に極めて敏感であった一つの証拠でもあろう。ちなみに、『国際法雑誌』(後に『国際法外交雑誌』と名称変更)は1902年の創刊で、フランス、ベルギーについで世界で三番目の国際法の専門誌だったという(一又正雄『日本の国際法学を築いた人々』)。「外交専門誌」としての『外交時報』の歴史も、実は世界に誇れるものなのかもしれない。

しかし、その伝統ある『外交時報』は、1998年9月、資金問題から遂に4度目の休刊を已む無くされ、現在も復刊の目処は立っていない(当時編集に当たられていた五味俊樹氏の証言による)。それは『外交時報』が創設者・有賀、中興の祖・半沢、そして戦後に至るまで、学会や財閥、官公庁に可能な限り依存しない方針を取っていたことと無縁ではないようだ。経営に関する資料が失われていることから、果たして外務省などからの資金援助がまったくなかったのかどうか定かではない。しかし、明治期の『外交時報』は有賀の、大正から昭和にかけての『外交時報』は半沢の、それぞれ「個人商店」としての性格を持っていた感は否めない。半沢の時代には、調査部(後調査局)も設置され、日本外交協会との密接な関係も持っていたようであるが、外務省などとの関係において、外交時報にシンクタンクとしての機能がどの程度あったのか。外交時報社も雑誌『外交時報』も、今後の調査がなければ、米外交問題評議会やチャタムハウス、FAやIRと単純に比較することは出来ないだろう。

とはいえ、『外交時報』を軸に20世紀前半の日本の「外交論壇」を紐解けば、そこには有賀や半沢を中心とした一種の知的サークルのようなものが出来ていたことが分かるかもしれない。しかも、「公衆に代りて」海外動向を紹介し、「国民外交」推進の一助としようとするその態度は、有賀から半沢の時代まで一貫して揺らいでいない。有賀が提起した「国民外交」という問題、それを「国民世論」と「外交政策」の関係性をめぐる問題と捉えれば、それは、対外政策決定過程論、国際関係論における古くて新しい課題の一つに外ならない。特殊な団体の「広報誌」たることを拒否し、政府の政策に対するある種の論争さえ奨励して、国民に国際社会の動向を理解させようとした『外交時報』の歴史と思想は、他国の外交評論とも十二分に比較対照し得る特異な位置を占めているのかもしれない。これからの研究の深化に期待したい。


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