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その他
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日付
2010/5/27

【書評】『行政改革と調整のシステム』牧原出著(東京大学出版会、2009年)

評者:村井 哲也(明治大学法学部兼任講師)


1.本書の意図と構成

本書の著者は、2003年に刊行され大きな評判を呼んだ前著『内閣政治と「大蔵省支配」 政治主導の条件』において、行政学の立場から政治史的アプローチを積極的に採用し、主に1950年代における政官関係の推移を詳細に検証している。そこでは、大蔵省を中心とした「官房型官僚」の能動的な「調査」の政治に焦点を当てることで、不毛な論争に陥りがちな日本の政官関係に再解釈を施し、確かな役割分担に支えられた「政治主導」の条件を提示している。これに対し本書は、やはり重厚な政治史的アプローチと闊達な国際比較分析を採用しつつ、歴史的にも世界的にも行政改革の駆動力となってきた「調整」のシステムを詳細に検証している。前著に比べ、本来の行政学のフィールドをより意識したものになったと言える。

とはいえ本書は、やはり従来の行政学の範疇に収まる代物ではない。本書には、前著の中核的な関心を受け継いだ意欲的かつ大胆な意図が込められている。一つは、行政学ないし行政学理論の再組織化である。ともすれば机上の空論となりがちな近年の行政学を、「行政の現実」に正面から対峙しうる存在へ再生することに、著者は果敢に挑んでいる。もう一つは、行政学の最隣接学問である政治学への問いかけである。ともすれば単純な発想に基づく「官邸主導」や「政治主導」を主張する近年の政治学が、果たして「行政の現実」を的確に理解しているのか、著者は鋭く迫っている。読者は、最初こそ難解な文章と瑣末な分析に戸惑うかもしれないが、やがて、それらがいかに刺激的かつ壮大な構成につながっていくのかを知ることができる。

以下に示される本書の構成は、大きく二つに分かれる。前半の?・?章は、行政改革における「調整」概念の国際比較分析を基に、日本の制度的特徴を浮かび上がらせている。後半の?・?章は、近代日本・戦後日本の「調整」概念を歴史的に検証した上で、現代的な課題に応えうる視点を提示している。ここでは、本書の構成に沿いながらその概要を記した上で、評者なりの評価と論点を示してみたい。

 はじめに
 I章 改革構想としての「調整」
 II章 戦後日本における改革構想としての「調整」
 III章 近代日本における「総合調整」と「省間調整」
 IV章 戦後日本における「調整」の変容
 おわりに

2.本書の概要

はじめに(1頁~)

著者の出発点は、2001年の中央省庁再編と内閣機能強化の基礎を築いた橋本龍太郎首相が、「行政の現実」は自分の方が詳しいとして、行政改革会議の委員に行政学者を選定しなかったことにある。すなわち、橋本の認識は、行政学者はいかにして「行政の現実」に対抗する枠組みを持ちうるのかという重い課題を突きつけたのである。近年の行政学では、行政改革の熱気が薄まれば視野は個別化・矮小化し、諸外国の研究は部分的な知見を示すにとどまり、諮問機関など「行政の現実」への参加は単なるオン・ザ・ジョブ・トレーニングの域を出ていない。

そもそも行政学は、行政改革を通じ「行政の現実」と原初的な「理論」を結合することが出発点だったはずである。著者は、諸外国における行政改革の国際比較を行い、その言説構造の中から「調整」概念を抽出することを試みる。その際に重要なことは、「調整」概念を包括的に整理し厳密に定義するのでなく、そこに曖昧さが残されているが故に分析概念として現実に機能してきたという、行政学の出発点に立ち返っていることである。

そこで著者が着目するのが、イギリス行政学で提唱された「ドクトリン」概念である。諮問機関の報告書に詰め込まれている「ドクトリン」とは、仮説と検証のための「理論」と識別されるものであり、例えば、内閣機能強化、地方分権、資格任用制整備といった行政に固有な改革構想や方向性を指すものである。その生命は、実践的な提言と説得力であって厳密さではない。それにもかかわらず行政学は、厳密な「理論」化によって類型のための整理に堕している。ここで著者は、原初的な「理論」と言うべき「ドクトリン」概念を用い、「行政の現実」と乖離している「理論」の再結合を試みていく。

そして著者は、なぜ同一の「ドクトリン」が歴史的に繰り返されているのかを問題とする。日本の場合、近代から現在に至るまでの内閣制・省庁制の形成過程で繰り返されているのは、やはり「調整」の「ドクトリン」である。従って、「調整」の「ドクトリン」を政治史的アプローチによって分析することが、日本の内閣制・省庁制の骨格を明らかにするため有効となる。その日本において「調整」の「ドクトリン」は、内閣レヴェルの「総合調整」ばかりが注目されがちである。だが、日本のみならず諸外国には、これに加え「省間調整」が存在する。これら二つの「ドクトリン」が、歴史的な状況に合わせ「調整」概念を定義し直してきたのである。かくして著者は、政治史的アプローチと国際比較分析のもと、「調整」における二つの「ドクトリン」を抽出することで日本の内閣制・省庁制の骨格を明らかにしつつ、行政学の再組織化に挑んでいくのである。

I章 改革構想としての「調整」(17頁~)

「ドクトリン」概念を提唱したのは、戦後イギリスを代表する行政学者のA.ダンサイアである。ダンサイアは、説明的な学術論稿としての「理論」と実務的な法案としての「政策」の中間にあって、両者を媒介する論理的構成物を「ドクトリン」と位置づける。すなわち、「政策」は「理論」によってではなく、「ドクトリン」という尤もらしい理論によって誘導される。そして、これら「ドクトリン」が蓄積され研究を発展させてきたのが、王立委員会などイギリスに長い伝統を持つ諮問機関の報告書であった。

ダンサイアがイギリスに限定した「ドクトリン」概念を国際比較によって発展させ、その理論化を図ったのがC.フッドである。フッドは、行政改革におけるNPM(New Public Management)研究で知られるが、留意すべきは、その国際比較の前提としてダンサイアと同様に「理論」から「ドクトリン」を識別し、その宝庫たる諮問機関に着目していることである。ただし、フッドの研究にしても、主に英語圏の国に限定される。国際比較の視角からすれば、言説の翻訳と受容という問題が残される。ここで著者は、アメリカ、オーストラリアに加え、日本と制度的親近性の強いドイツを対象に含めることで国際比較の一層の相対化を試みる。こうして諸外国における諮問機関報告書が分析され、「調整」概念が行政改革の主要な「ドクトリン」であったことが検証される。

まずアメリカでは、1936年の「行政管理に関する大統領委員会」の実態調査に基づき膨大な報告書が残された。そこで抽出された「調整」の「ドクトリン」は、L・ブラウンロー、C・メリアム、L・ギューリックらの研究に発展的に継承され、アメリカ行政学が国際的な影響力を持つ源泉になった。次いでオーストラリアでは、1974年の「政府行政に関する王立委員会(RCAGA)」が、その実施可能性はともかく「解釈機関」として成功を収めた。この報告書に基づく「調整」の「ドクトリン」が、やはり行政学を発展させた。最後にドイツでは、基本的な諮問機関の伝統は薄いものの、1968年の「政府・行政改革のプロジェクトグループ(PRVR)」が、その後の諮問機関の範型となった。特に、これに参加していたK.シャルプが「能動的調整」と「受動的調整」という二つの「ドクトリン」を見出すなど、行政学に成果がもたらされた。

II章 戦後日本における改革構想としての「調整」(77頁~)

?章で分析された諸外国と同様、戦後日本もまた、「調整」の「ドクトリン」が行政学を発展させた。その特殊性と共通性を検証するのが本章である。

日本では、戦時体制期から「総合調整」や「調整」の文言が用いられ始め、それらは戦後の1949年に国家行政組織法・各省設置法が整備された際に継続された。だが、文言として用いられても、この時点で「ドクトリン」という程の推進力を持っていた訳ではない。これが改革の主たる標語となったのは、保守合同による自民党結成を受け成立した第三次鳩山一郎内閣が設置した、第三次行政審議会においてである。ここで打ち出されたのが、「調整」の「ドクトリン」を内包する「トップ・マネージメント」の構想であり、これは1957年の岸信介内閣における内閣官房を中心とした「総合調整」の法令化に収斂する。そして、内閣レヴェルの「総合調整」のみならず、共管競合事務を扱う「省間調整」を初めて同時に視野に収めたのは、1962年に設置された第一臨調であった。多義的な解釈がされがちな「調整」の「ドクトリン」を、整理分析する試みが始められたのである。

その後、1983年に報告書を提出した第二臨調は、内閣機能強化など「総合調整」に議論を集約したことが特徴であった。ますます高まる行政需要に直面し、各省庁の縦割りによる機能分担を前提とした上で改革が構想されたからである。こうした「総合調整」に限定して捉える傾向が変化し始め、「省間調整」の個別具体的な議論が再登場したのは、1994年に報告書を提出した第三次行革審からである。この傾向を本格的に受け継いだのが、1996年に設置され、「総合調整」のみならず「省間調整システム」を具体的な制度設計として提案した行政改革会議であった。

もっとも、以上の二つの「調整」が繰り返し行政改革の中核的な「ドクトリン」として登場したのは、日本だけの現象ではない。著者によれば、?章で指摘されたドイツのシャルプによる「能動的調整」と「受動的調整」という対概念は、ほぼこれらに対応するものであるし、アメリカのD・チザムによる都市公共交通を事例とした研究も、これに当てはまるという。

III章 近代日本における「総合調整」と「省間調整」(117頁~)

?章で抽出された二つの「調整」の「ドクトリン」は、明治国家の内閣制と省庁制の確立期に原型が見出され、やがて政党内閣期と戦時体制期に発展を重ねていったという。これを歴史的な視点から検証するのが本章である。

井上馨の卓越した政治指導により、1889年に内閣職権が内閣官制に改正され、1891年には各省官制・各省官制通則が改正された。井上の意図は、各省の所管配分が適切でなかった上、藩閥内の世代交代が進むにつれ(事務)次官の存在が過度に増したことに鑑み、内閣制と省庁制を一体とした再設計を行うことにあった。この結果、各省の所管再配分がなされ、次官はじめ省内に対する大臣権限が強化された。この過程で生まれたのが、二省以上にわたる交渉は「協議ノ道ヲ広ムル」手続きを経る「省間調整」の原型であり、閣内に「政務部」を設置することで「政略ニ付、統一ノ実ヲ挙クル」ことを目指す「総合調整」の原型であった。

続く政党内閣期には、各省の割拠状況への批判が高まる中、これを審議すべく二つの諮問機関が設置された。それが、加藤高明内閣が1925年に設置した行政調査会と、田中義一内閣が1927年に設置した行政制度審議会である。これら諮問機関では、各省間における権限争議の解決方式と所管の統一が審議され、具体的標準により「協議」のルール化を図る「省間調整」が整備されていった。

これと並行し、第一次世界大戦の衝撃を受けた陸軍を推進力に唱えられたのが、内閣への総動員機関の設置であった。特に1930年代に入ると、既存の省間「協議」では時代の趨勢に対応できないとして、総合的な観点から施策統一を図るべきとの機運が高まった。ここから、内閣レヴェルの「総合調整」は急速に発展する。その本格的な嚆矢が、1935年に内閣に設置された調査局であり、これを受け継いだ企画庁を経て1937年に設置された企画院であった。

しかし、陸軍や革新官僚が唱える強力な総動員機関の実現は容易でなかった。企画庁では、政治的トップダウンの意味合いが強い「統合調整」の文言が用いられたものの、続く企画院では、海軍や各省の抵抗を受けてのことか、法制局により「調整統一」に骨抜きされた。やがて、岸信介ひきいる商工省はじめ各省では、さらに意味合いの薄い「総合調整」の文言が用いられ始め、戦後には内閣レヴェルでも定着した。すなわち、日本における内閣レヴェルの「総合調整」は、「各省庁の縦割り」を前提とした行政内部の調整の意味合いが強まり、政治的トップダウンの色彩を排除する限界を孕んで確立されたのである。

IV章 戦後日本における「調整」の変容(179頁~)

?・?章で明らかとなったように、日本では戦前から戦後にかけ「調整」の「ドクトリン」が登場したものの、常にその不備が指摘され、一層の「調整」の必要が提言されてきた。従来の政治学でも、「二省間調整」は解決されないセクショナリズムという病理に過ぎず、「総合調整」はこれを首相のトップダウンで権力的に克服しうるものという見解が流布してきた。これに対し著者は、日常的な「二省間調整」が機能してこそ「総合調整」の負担は軽減され、むしろ十全に機能するという行政法学者の異論を提示する。すなわち、「二省間調整」が持つ重層的な合意形成という生理の可能性を強調するのである。特にそれは、自民党と各省庁が安定的な環境にあった1955年体制下で高度な洗練を遂げた。以上を踏まえ、主に1960年代前後の水利開発行政をケース・スタディに3類型の「調整」の実態と限界を検証し、最後に2001年から生じた変容と課題を考察するのが本章である。

第1の類型は、「総合調整」の「総合調整」である。「総合調整」は、何も首相官邸や内閣官房だけが主体となる訳ではない。1955年体制下でも、大蔵省、法制局、経済企画庁、自民党政調会、閣僚会議、事務次官会議など複数の「総合調整」が存在した。内閣レヴェルにおける「総合調整」とは、これら複数の「総合調整」を「上げたり下げたり」しながらの合意形成の総和である。従って、首相の権力的なトップダウンという単純な構成では成功しえないものとされる。

第2の類型は、「二省間調整」である。その過程と構造が、不履行、規制強化、遅滞などセクショナリズムによる紛争という病理だけでなく、重層的な合意形成による紛争の克服という生理の側面から分析される。ここでは、非公式の覚書や二省間による協議の積み重ねなどによって、合意のためのルール形成が図られていくことが指摘される。ただし、こうした合意形成は慎重な意思決定方式であるが故に、時間的なコストを要する。

第3の類型は、「二省間調整」の「総合調整」である。予算編成を主管する大蔵省(財務省)や法令審査を主管する法制局は、会計年度や国会会期といった時間的な制約を有効に利用しつつ各省と個別に交渉し、全体を統制している。これら個別の「二省間調整」による合意の束によって、全体的な「総合調整」が再構築される。行政機構の一体性は、まず「二省間調整」を基礎としての「総合調整」がなされ、最後に内閣レヴェルで「総合調整」の「総合調整」が重ねられることで維持されるのである。

著者は、こうした日本の「調整」のあり方に変容をもたらしたのが、2001年の中央省庁再編と内閣機能強化であったと指摘する。特に後者は、「最強の協力者」たる官僚の「調整」が不在のまま、首相官邸による「総合調整」の「総合調整」の強化をもたらした。一方で、「二省間調整」の変化は斬新的なものにとどまり、内閣官房・内閣府への「企画立案」権の付与や経済財政諮問会議の設置は、財務省や法制局による「二省間調整」の「総合調整」を相対的に劣化させた。従って、この「二省間調整」の「総合調整」が十全に機能しなくなるに伴い「総合調整」の「総合調整」の負担は増加し、その機能不全の危険性が高まった。ポスト小泉の安倍晋三内閣における「官邸主導」の機能不全は、こうした重層的な合意形成を欠いた歪な「調整」の矛盾が一挙に噴出したものだったのである。

おわりに(265~273頁)

かくして著者は、常に改革構想の駆動力となる「調整」の「ドクトリン」の意義を自覚し、これを「理論」・「政策」と識別することで、行政学は「行政の現実」に正面から対峙しうる存在へ再生されると主張する。そして、井上馨が鋭く看破したように、「総合調整」と「省間調整」の二つの「ドクトリン」は本来一体のものであり、それが「行政の現実」であると指摘する。

だが相変わらず世間では、「省間調整」の延長としての「総合調整」という「行政の現実」を否定する「官邸主導」が喧伝される。一部の政治学者も、「上げたり下げたり」の重層的な合意形成としての「調整」を障害とみなし、官僚との良好なチーム形成による協調と確かな役割分担は軽視して、上意下達の「官邸主導」や批判原理としての「官僚内閣制」を主張する。こうした主張が、現実適合性はともかく世間への説得力を持つ「政治」の「ドクトリン」であることは理解できるにしても、本書が抽出した「行政」の「ドクトリン」を見ればその限界は明らかである、と著者は批判する。とりわけ政権交代時代においては、長期的に見て「官僚との協力関係なしには、政権担当能力を説得的には示せない」からである。そして、「政治」の「ドクトリン」を強靭なものに変換していくには、「行政」の「ドクトリン」への分析方法が「一助」になるであろう、と著者は提言している。

3.評価と論点

本書の評価と政治史の自省

評者は、行政学・行政学理論の門外漢である。従ってここでは、政治学・政治史の立場から本書への評価を示したい。

第1に評価すべきは、「理論」と識別された「ドクトリン」概念とその適用可能性を提示したことである。「ドクトリン」の定義自体は、行政学者の間で議論を呼ぶかもしれない。しかし、「行政の現実」から乖離した「理論」研究の問題点を指摘し、「ドクトリン」の媒介により両者を再結合することで行政学の再組織化を図るという方向性は、一定の説得力がある。また、橋本が行政改革会議で委員に選定しなかったのは、政治学者も同様である(1頁)。「政治の現実」から乖離した「理論」研究の問題点という共通項を考えれば、「ドクトリン」概念の適用は政治学でも十分に可能であり、その再生も期待しうる。

第2に評価すべきは、闊達な国際比較分析のもとに日本の「行政の現実」に迫っていることである。本書は、諸外国の諮問機関報告書の丹念な比較分析によってダンサイア、フッドの研究を発展させたのみならず、比較法の上に立つ行政法学や特定地域を綿密に検証する外国研究に対抗しうる可能性を行政学にもたらしている(312-313頁)。また、とかく日本では、海外資料へのアクセスの難しさや戦後資料の未公開が言い訳にされがちである。これに対し著者は、IT化による環境の激変を的確に踏まえ、「マルチ・アーカイブ・アプローチ」による積極的な資料収集を試みている。一層の資料洪水が起きる前に取り敢えずの見取り図を示すことは「過渡期に生きる者の責務」である、とする研究姿勢そのものも評価されてしかるべきであろう(12-13頁)。

第3に評価すべきは、政治史的アプローチの採用とその有効性を実証して見せたことである。本書は、明治国家の内閣制・省庁制の確立期から2001年の中央省庁再編と内閣機能強化までの長期間を射程に入れた上で、日本の「調整」の「ドクトリン」を抽出している。この政治史学者でも困難な実証作業は、前述の「マルチ・アーカイブ・アプローチ」も駆使されつつ、諮問機関報告書、部内の一次資料、回顧録、オーラルヒストリーなど幅広い渉猟によって見事にクリアされている。著者による「基礎的な資料が直接示している基本的な事実が知られなさすぎている」との指摘は、正鵠を射たものである(272-273頁)。

こうした著者の姿勢は、そもそも「政治の現実」と「理論」を媒介する存在であるはずの政治史に、不作為の自省を促すものであろう。政治史では、明治国家の研究は豊穣な蓄積がある一方、戦後国家の研究は、近年では資料公開の進展が著しいにもかかわらず散発的な状況にとどまっている。そのため、特に内政史において、本書のごとく長期間を射程に入れた重厚な実証研究は僅かである。既に著者は前著で、1950年代の実証研究は歴史研究・現代政治研究の双方から「未開拓な領域」であり、従って、両者の研究のみならず現代政治の「理解にさえ支障」を来している、と指摘している(前著22-28頁)。本書が、明治国家の軌跡を踏まえた上でさらに1960年代前後の実証研究に触手を伸ばしていることに、政治史は危機感を覚えるべきである。

本書の論点と政治学の課題

以上の評価を不動のものとした上で、本書による政治学への批判的な問いかけに若干の論点を示したい。

確かに、近年主張される「官邸主導」に、権力的なトップダウンへの単純な信奉と官僚制への無理解が目立つことは否定できない。しかし、こうした批判は、あくまで「行政」の「ドクトリン」からの視点に基づくものであり、時代によって現れる官僚制の限界を捨象しているように思われる。何故、トップダウン的な「政治」の「ドクトリン」は歴史的に繰り返されるのか。あるいは、政治的トップダウンは全てが単純な発想に基づいているのか。

日本の官僚制の限界が認識された画期は、明治国家の藩閥指導者が世を去り、続く政党内閣が崩壊した1930年代である。確固たる政治統合主体が不在となったところに、普選導入・産業発達による大衆化・都市化が行政国家化現象を進展させ、官僚制の肥大化と縦割りがより顕著となった時代である。とりわけ、戦時体制期から占領期にかけての国家財政が厳しく制約される局面では、官僚制による自浄調整は機能不全となっていく。これを打破すべく登場したのが、本書でも指摘された「統合」の「ドクトリン」であった。そもそも、政治の世界でトップによる権力行使は不可避である。限られた国家財政の争奪戦が展開され、「省間調整」の限界が顕著となる局面では尚更である。それにもかかわらず、結局はこの時代においてすら、「統合」の「ドクトリン」が政治的トップダウンの色彩を排除した「総合調整」の「ドクトリン」に骨抜きされた経緯こそ、注目されるべきであろう(84、171-177頁)。

その後、既存の官僚制を打破すべく鳩山内閣が打ち出した「トップ・マネージメント」の構想が、岸内閣の頃から行政内部の調整の意味合いが強い「総合調整」に収斂していったのは、逆の時代を反映してのことである。自民党と各省庁に安定的な環境がもたらされたのは、高度経済成長のドライブがかかるにつれ国家財政に余裕が生じ始めたからであった。「省間調整」が高度な洗練を遂げたケース・スタディが描かれる1960年代前後は、まさしくこの豊富な国家財政に支えられた時代であり、田中角栄・田中派や自民党政調会による「各省庁の縦割り」を前提とした「総合調整」が本格化する1980年代以前の時代である(197-198頁)。そして、自民党と各省庁が過度に融合し確かな役割分担が侵蝕されていくこの1980年代以降の過程に、本書は余り触れていない。

2001年の中央省庁再編と内閣機能強化の頃から「官邸主導」の「ドクトリン」が登場したのは、1990年代にバブル経済が崩壊して再び国家財政が厳しく制約され始めるにつれ、侵蝕されてきた自民党と各省庁による自浄調整が、遂に機能不全となって限界を迎えたからである。すなわち、既存の「省間調整」と「総合調整」が過度に排除してきた政治的トップダウンの「ドクトリン」が再浮上している時代構造自体は、決して単純でない。

とはいえ、並みの専門家より政治学・政治史に堪能な著者にとって、この程度の反論など百も承知のことであろう。恐らくその真意は、敢えて批判的な問いかけをすることで、政権交代の局面にふさわしい強靭な「政治」の「ドクトリン」への変換を促すことにある。著者が、しばしば政治学者が軽視する行政の問題は「歴史上の政治指導者にとって決して瑣末ではない」と記し、前著の副題であった「政治主導」を本書で「政治指導」と言い換えているのも、確かな役割分担に支えられた政官関係を重層的に考察する矜持を求めてのことであろう(15、267-270頁)。

「行政」の「ドクトリン」を理解せねば「政治」は機能せず、時代の趨勢に対応した「政治」の「ドクトリン」が確立されねば「行政」は機能しようもない。確かな役割分担に支えられた「政治指導」の条件を導くために、本書によって行政学からのボールは投げられた。これにどのような返答のボールを投げうるのか、政治学に重い課題が突きつけられている。