タイプ
その他
プロジェクト
日付
2011/9/5

【書評】『明治立憲制と内閣』村瀬信一著(吉川弘文館、2011年)

評者:黒澤 良(学習院大学法学部兼任講師)


はじめに
2009年の政権交代後に民主党・鳩山政権が、政治主導の確立をもとめて事務次官会議を廃止したことは記憶に新しい。民主党が改革の俎上にのせた次官会議が重用されるようになったのは、戦前にさかのぼり、1932年の5・15事件で政党内閣が継続しなくなって後の、いわゆる挙国一致内閣期以降である。

本書『明治立憲制と内閣』は、明治憲法下の内閣制の運用が20世紀初頭(桂園内閣期)に確立し、その運用が、次官会議が重用されはじめ、声高に内閣機能強化が叫ばれた1930年代までは機能したとする。本書をひもとき、明治憲法のもとで「政治の所産であるところの政治制度(=内閣)が、まさに政治を通じてどう使いこなされ、機能していくのか」(P317)を知ることは、新たな内閣制度が模索される21世紀の今日にも貴重な示唆を与えよう。

本書の構成と概要
本書の目次は以下のとおりである。

  序 章 課題と視角
  第1章 内閣制度をめぐる諸潮流
  第2章 初期議会と内閣機能強化問題
  第3章 画期としての元勲内閣
  第4章 日清戦争後における権力状況
  第5章 連帯責任的内閣交代の定着
  終 章 総括と展望

本書は、立憲政治開始から約10年が経過した桂園時代にいたって、なぜ政友会と官僚閥が交互に政権を担当するシステムできあがり稼働しはじめたのか、その要因を探る、との問題意識にたって執筆されている。著者は、行政の中枢である内閣の運営方式が変化を遂げ、権力分有体制と、それに基づく桂園体制という、イギリス型内閣制にほぼ近い政権交代方式が定着するまでのプロセスを解き明かしている。

総理大臣と各省大臣からなる近代的な内閣制度の創設を主導したのは、初代総理大臣に就任する伊藤博文であった。だが、明治18年12月に発足した内閣制度は妥協の産物であり、首相がリーダーシップを発揮し、内閣が凝集性をもつ前提となる連帯責任制を実現するには様々な課題をかかえていた。そもそも草案ではあった「内閣」という用語が憲法に盛り込まれず、憲法55条の単独輔弼制によって、大臣は個々に天皇に責任を負い、首相の指導に服さずともよかった。これに薩摩と長州の均衡維持、各省の割拠状態という阻害要因も加わって、総理大臣の役割は主導より調整に傾き、国務大臣を内閣の一員として一致協力するように導く首相権限の強化は、藩閥政府にとって重要課題でありつづけた。

以後の各内閣は、これら阻害要因を克服し、内閣が統一性を確保するための工夫を積み重ねていく。第一に、閣僚の意思統一を調達するために閣内協定を作成し、あるいは政策大綱への同意を取り付けることで、内閣レベルでの強固な政策的合意を形成しようと試みた。第二に首相による議会・政党対策の一元的な掌握が必要であった。そのために首相を補佐する内閣書記官長や法制局長官には股肱の人材がもとめられた。第三に内閣を支える確固たる政権政党の必要性が浮上していく。政党は内閣が実行力と凝集力を発揮する方策として重要であった。政党を媒介に内閣の統一方針を確定し、同時に政党を通じて政策を公示することで、政権としての明確な責任を設定する効用があった。内閣制運用に関する政党の重要性は井上馨の自治党構想によって見出され、政権政党創出の試みは伊藤博文による立憲政友会創設に結実する。

内閣制の運用に転機をもたらしたのは帝国議会の開会であった。議会や政党対策を一元化・集中化する必要性から、内閣に強力なリーダーシップを実現する可能性が広がった。

第一の画期は第二次伊藤博文内閣であり、新しい内閣組織と運営が試みられた。伊藤は「大宰相主義」に近い姿勢を貫こうとし、第一に、対議会策における内閣および総理大臣の指導性を明確に打ち出した。条約改正を名分として、内閣の権力を首相-外相-内閣書記官長のラインに集中し、改正草案は必ず内閣の同意を得たうえで、勅裁を仰ぐこととした。第二に、元勲を網羅しながら、大臣と各省との結びつきを断って、内閣の構成によって首相の指導性を実質的に確保することを目指した。第三に具体的な政策目標を閣議決定することで、内閣の強固な意思統一を図ろうとした。上述のような試みが功を奏して、第二次伊藤内閣は固い政権となり、伊藤は強い首相として日清戦争と戦後の政局にのぞんだのである。

第二の画期は第一次桂太郎内閣である。桂は、伊藤ら維新第一世代に比して若く、実績も劣ったことから、内閣で実行すべき政策について、経済・財政・軍事・外交と四か条の政綱にまとめて閣議に諮り合意を獲得した。さらには政友会を政権交代のパートナーに囲い込んだことで、桂は、内閣の連帯責任の明確化と、政局の安定という二つの命題を両立させた。第二次内閣の組閣にあたっても、桂は、より詳細かつ具体的に内閣全体の政策目標を示し、入閣候補者には財政整理案への署名捺印を求め、これに同意した者のみに閣員資格を与えている。桂は、西園寺公望の政友会との間に政策面での協調関係を結び、それを外枠で支える議会運営方式を生み出して、西園寺とのあいだで政策と責任のキャッチボールをおこなった。この桂園期に確立した内閣制運用の慣行が安定していたがために、首相の権限を制度的に高めようという動きは昭和期、1930年代に至るまで顧みられることがなかった。

論点と評価
本書は内閣制に焦点を定め、また伊藤博文を主役にすえることで、明治憲法下の内閣制運用が確立するにいたるプロセスを明らかにした秀作である。

著者は、帝国議会開設後の初期議会で激しく衝突した藩閥と政党(民党)が、内閣制の運用に関しては補完関係にあるとし、むしろ政党の必要性を重要視している。通説的には、権力分散的な傾向を有する明治憲法のもとでは、国家諸機関を統合する機能を果たしたのは、まずは藩閥、次いで政党であり、政党が凋落したために明治憲法体制は機能不全に陥ったと理解されている。これに対して、本書は、藩閥は内閣制や立憲制との親和性が高くなく、内閣制の運用にとって決定的に重要だったのは政党であると強調する。

今後は、内閣制運用をめぐって藩閥よりも政党を重視した本書の成果と、貴族院や軍、官僚など、広く統治機構全体を見渡した場合の藩閥の存在感とをいかに突き合わせていくかが課題となろう。

本書はまた、伊藤博文が政友会総裁に就任するまでの経緯を、政党改良への取り組みからたどることで優れた伊藤論ともなっている。著者によれば、大選挙区制を軸とする衆議院議員選挙法改正へのこだわりには、伊藤の政党所有という構想を見出せるという。伊藤の狙いは大選挙区導入によって既成の政党基盤を一新し、新しい政治家の台頭を促すことにあった。伊藤にとって「選挙法改正とは議員と選挙区の私的な関係を断ち切り、行政府と立法府との良好な関係を築き、英国流の議院内閣制に到達するための手段」(P293)であった。憲法草案をつくり、三度の内閣を組織した経験をふまえた伊藤の結論が、新政党であり、これによって政治システム自体を改革し、議院内閣制的システムを実現しようとしたとする。

しかしながら、政友会総裁である伊藤が首相となった第四次内閣の時点では、政友会の組織と構成は伊藤の理想通りとはなっておらず、政党改良は未完であった。同内閣末期に伊藤続投が阻止されたことで、連帯責任を前提とした内閣交代が定着したと評価されるものの、政治システムの改革が成就するのは、次の第一次桂内閣の成立を待たねばならなかった。ところが、伊藤の取り組みが、「新しい政治指導者」である桂太郎と、桂新党(後に立憲同志会、憲政会)にどのように受け継がれたか、いわば伊藤論を桂論に、また伊藤にとっての政友会を、桂にとっての桂新党にどう橋渡しするか、できるか、については十分には論じられていない。歴代の首相たちの行動から「桂が何をどう学習してきたかは明らかではない」(P305)と意外なほどあっさりと記述されている。著者には議論の終着点である桂園内閣期の内閣制運用のあり方について詳述する別稿を切望したい。

以上、日本政治史研究への本書の貢献の一端を明らかにしたにすぎないが、本書の分析は、歴史にとどまらず内閣制の現在を考察するための有用な示唆も数多く含んでいる。

政権を支える政治集団との関係が内閣制度の運用を規定する、あるいは首相が指導力を発揮するためには内閣の構成や各省との力関係が重要である、といった指摘は時代を超えて通用しよう。また、内閣制運用に関して確固たる政権政党確立の必要性を強調した本書の主張は、首相個人の資質のみに批判を向けがちな昨今の風潮に一石を投じる。とりわけ、第二次松方内閣に向けた「内閣を形成している勢力(この場合は薩派をさしているが)内部の系列化が不明確である場合には、内閣が機能しないばかりか、その勢力が少なからざる打撃をこうむる恐れがある」(P233)との指摘は、戦後政党史においても片山哲・芦田均両内閣にその例を見出すことができ、現在の民主党内閣にも該当するように思われる。

伊藤博文や桂太郎をはじめとする歴代の首相たちの奮闘と工夫の積み重ねのうえに、現在の内閣制と政党があることを忘れてはなるまい。