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《人の尊厳探求プラン》第5回研究会報告

February 12, 2010

2010年2月2日、研究メンバーの田川陽一先生に講師をお願いし、ES細胞研究の科学的・倫理的問題について、実際の研究開発を例にした現場からの視点でお話しいただき、今後の再生医学のあり方について考える、第5回研究会を行った。その概要を以下に報告する。

日時:2010年2月2日(火)午後6時~8時半
講師:田川陽一先生(東京工業大学フロンティア研究センター生命系准教授)
演題:「再生医学研究におけるES細胞の位置付け―現状と今後の展望」
参加者:青柳、絵野沢、小門、小林、島田、洪、光石、ぬで島、冨田、吉原

1 講演の概要(田川先生)

1)ES細胞とは

受精した卵は卵管内を移動しながら卵割という分裂を繰り返して、内部と外部の二重構造を持つ「胚盤胞」に成長する。これはヒトの発生において最大の劇的変化である。胚盤胞はやがて子宮壁に着床する。この胚盤胞の内部細胞塊からわれわれの体のすべての細胞ができる。この胚盤胞の内部細胞塊を取り出して、ES細胞がつくられる。ヒトでそれに成功したことが報告されたのは1998年末だが、その前に1987年にマウスES細胞の樹立に成功したエバンスは2007年にノーベル賞を受賞している。
ES細胞は、体を構成する三つの部分(胚葉)すべてに分化する能力(「万能性 pluri-potency」)を持つが、それだけでは個体に育つことはできない(「全能性 toti-potency」はない)。再生医療では、胚由来だけでなく、体細胞由来の幹細胞も研究されているが、それらは限られた細胞にしかなれない(「多能性 multi-potency」を持つにすぎない)ので、ES細胞が期待されることになる。2007年11月にヒトで樹立成功が報告されたiPS細胞は、胚ではなく皮膚などの体細胞からつくられるが、ES細胞と同じ「万能性」を持つとされている。

2)ES細胞は本当に再生医療に使えるのか?

ES細胞は染色体が操作しやすいので、元来マウスなどの実験動物で、遺伝子改変動物(トランスジェニック、ノックアウト)をつくる手段として用いられてきた。だがその万能性ゆえに、ヒトでの樹立成功後は、再生医療への応用に使えると期待され、研究が進められている。
だが、本当にES細胞は再生医療に使えるだろうか。ES細胞からつくった細胞は、人の体に移植して、まともに働くだろうか?
ES細胞は生体に移植すると容易にテラトーマ(奇形腫)を形成する。テラトーマは良性の腫瘍で悪性腫瘍ではないが、生体内でそれが悪性化する(癌化する)ことがないか、懸念されている。またほかにも、次のような懸念がある。
*いったん神経や肝臓など狙った細胞に分化したあと、また元のES細胞に戻ってしまわないか?
*それぞれの細胞は体内で多くの機能を担っている(とくに肝細胞は非常に多くの機能を果たしている)が、ES細胞由来の細胞がはたしてそのすべての機能を持てるか?
*分化した細胞が不必要になったら、普通に死んでくれるか? いつまでも体内に残り続けて害にならないか?
*通常の細胞と同じように、病気にもなるのか?
ES細胞の研究は主にマウスでの経験に基づいているが、マウスは寿命が2年しかなく、長い寿命を持つ人の体内でES細胞がどうなるか、まだ十分わかっていないことに注意しなければならない。

3)再生医療以外の研究例:ES細胞由来肝組織装置による薬物動態計測システム

そこで重要なのは、ES細胞は、再生医療のためだけにあるのではない、ということである。初期発生の仕組みの解明や、遺伝子改変動物を用いた遺伝子の機能解析といった基礎研究にも使える。さらに、新薬開発などに不可欠な、薬物の代謝や毒性の試験にも使える。
ここでは、講師が行っている、ES細胞からつくった肝臓組織を用いた薬物動態計測システムの開発研究について紹介したい。
肝臓は、体外から取り入れた物質の代謝や解毒を行う重要な機能を持っている。そこで前回の研究会でも話があったように、薬物の体内での代謝のされ方や毒性の有無を調べるのに、生きた人に投与して実験するのではなく、肝臓の細胞を使い、試験管の中だけで試験できるようなシステムの開発が大きな意義を持つ。
だが肝臓の細胞は、そのままでは体外では増殖できず、機能も低下する。体外で機能させるには、実際の生体内と同じような構造を持つ組織をつくる必要がある。そこでわれわれは、バイオマテリアルを足場に使ったり、発生段階を模した心筋細胞との連動系をつくるなどして、肝組織を形成し、それをチップに組み込んで、薬物動態を計測するシステムを開発することを試みた。
その結果、通常の肝臓細胞だけでなく、ES細胞由来の肝細胞からも肝組織を形成できた。またiPS細胞からも、同様の組織形成ができた。これらの肝組織を用いたチップから、生体レベルに近い薬物代謝試験を行える装置ができた。この技術を発展させれば、肝炎ウイルスの肝組織への感染と増殖を生体外で研究できるモデル系もつくれるなど、様々な応用が期待できる。

4)ES細胞の倫理問題再考

以上紹介したわれわれのES細胞を用いた研究では、生体への移植のような臨床応用は考えていない。臨床応用を考えるのであれば、先に述べたような、ES細胞は生体内で本当に通常の機能を果たせる細胞・組織に分化するのか、どのような危険があるか、といった問題点を解決しなければならない。この点は、iPS細胞もまったく同じである。
ヒトES細胞研究の倫理問題は、それが人の生命の萌芽である胚を滅して作成されるものであることから生じるとされてきた。胚を壊して樹立する研究だけでなく、そこから得られたES細胞を用いる研究も、人の生命の尊厳性に関わることだとされ、実施機関と国の二重のチェックが行われてきたのである。そのため、われわれが人のES細胞を用いた研究を開始するのに、準備から3年強かかった。だが実際にはその年月のほとんどは、研究実施内規の作成などの手続きについて、学内および文部科学省と調整するといった、事務折衝に費やされたものだった。倫理ではないところで手間と時間を取られ、研究がなかなかできない、というのが現場の実感である。
それに対し、人の胚を滅することなく、皮膚などの細胞からつくれるiPS細胞を用いる研究は、このような面倒な手続きなしに、すぐに始めることができた。ではiPS細胞には、ES細胞のような大きな倫理問題は本当にないのだろうか。
先にも述べたように、iPS細胞も、生体に移植した場合の様々な懸念は、ES細胞と同じようにある。ES細胞については、マウスなどで長く研究されてきた経験のうえに、さらにヒトでも十年以上研究されてきた。それに対しiPS細胞は、まだマウスでもヒトでも、わずか三、四年の経験しかない。その分、未知の部分がES 細胞よりも大きいのである。再生医療研究の倫理問題を考えるうえでは。そのことを十分認識しておく必要があると思う。

2 質疑とディスカッション

以上の講演を受けて、参加者と講師の間で以下の質疑と討論が交わされた。

ES細胞とiPS細胞の比較——科学研究のうえでの違い

ES細胞とiPS細胞の比較という点で、まず科学的に、ES細胞でできないことでiPS細胞でできる研究はあるか、という質問が参加者から出された。それに対し講師からは、種類が限られるES細胞株と比べ、iPS細胞は多様な人からのものがたくさんつくれるので、個人差をふまえた網羅的な研究ができる、その点が、ES細胞と比べたときのiPS細胞の最大の利点で、科学的に魅力があるところだ、との答えがなされた。
ただその観点からみると、前回の研究会で取り上げた、遺体から肝組織などを提供してもらい、薬物動態などを研究するシステムをつくるほうが、より多くの個人差を掴むことができる、との指摘がなされた。その点では、ES細胞だけでなく、iPS細胞も、かなわないだろうとのことだった。
一方、動物を用いた研究の面では、ES細胞を用いてできるような遺伝子改変動物の作成が、iPS細胞を用いてもできるかどうかが興味深い点である、との補足が講師から出された。今のところ、マウスではiPS細胞による遺伝子組換え動物はうまくできていない。胚に混ぜて個体をつくる研究も、成功報告はあるが再現性が低い。したがって、iPS細胞は、ES細胞ほどのポテンシャルをもっていないのではないかとも考えられる、とのことだった。これは、再生医療の臨床研究においても、重要な問題になるだろう。

ES細胞とiPS細胞の比較——倫理の問題として

次いで、参加者から、ES細胞は、人の生命の萌芽を滅してつくる点で、人の尊厳に関わる倫理問題を伴うのに対し、胚を壊さずにつくれるiPS細胞は、ES細胞と比べれば倫理問題は少なく、高く評価できると普通理解されているが、そう考えてはいけないのかとの質問が出された。
それに対し、別の参加者から、胚を壊すかどうかという来源の倫理とは別に、その細胞の特性が十分明らかになっているかどうか、それを人に試してよいのか、という問題が倫理のもう一つの重要な軸になる、との意見が出された。細胞の源に大きな倫理問題がないからといって、実体のわからないものを臨床研究に用いることがはたして倫理的に問題が少ないと言えるのか、ということである。
これは、第1回研究会において、中絶胎児由来の組織・細胞を用いる研究の倫理問題を考えるうえで講師から提起された観点である。中絶胎児の組織・細胞を用いることは大きな倫理問題を伴うが、一方で、長年の研究により、安全性と有効性については、ES細胞やiPS細胞よりも、多くの知見の蓄積がある。来源の倫理性の優劣だけで、どの研究を推進するか、どの研究は問題が多いからやめるかを判断するべきではないのではないか、ということである。
この意見に対しては、それは安全性の問題で、倫理の問題ではないのではないか、との質問が出された。それに対しては、実体のよくわからないものを臨床研究に用いる是非は、単に安全性の問題ではなく、研究倫理の問題としても考える必要がある、との答えがなされた。逆に、工学倫理ないし技術倫理の分野では、安全性(=出口)の問題がメインで、来源(=入り口)の問題は扱われてこなかったのではないか、との指摘もなされた。

倫理の根本をとらえるにはどうすればよいか

以上の議論全体に対し、別の参加者から、倫理の根本が十分に捉えられていないのではないか、との意見が出された。胚を壊すと生命の尊厳が侵されるというが、そこでは誰が傷つくだろうか? そこで何かが傷つけられると捉えるのは、西洋のキリスト教をバックボーンにした倫理観ではないか。日本の研究者は、そうした西洋のそれとは異なる倫理観の世界にいるはずなのに、日本では自主的な判断ができないで、西洋の倫理観がグローバルスタンダードになって、その影響を受けざるを得なくなっている。その意味では日本の科学者は気の毒だとも言える。そうした生命倫理の政治構造をふまえて議論する必要がある、という指摘がなされた。
では日本は、胚を壊すと人の尊厳が傷つけられるという倫理観に縛られる必要はないだろうか、それとは違う倫理観を主張できるだろうか、主張すべきだろうか、という議論がなされた。それに対しては、現実の国際社会の力関係で、欧米の倫理観に従わざるをえないのが現状ではないか、との意見が出される一方で、そうした力関係は今後変わっていくと考えられる、との指摘もなされた。

以上のように5回の研究会を費やして積み上げてきた議論をふまえ、3月に締めくくりの研究会を行うこととし、終了した。

以 上

取りまとめ文責:研究リーダー ぬで島次郎

    • 元東京財団研究員
    • 橳島 次郎
    • 橳島 次郎

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