【書評】『エスタブリッシュメント—彼らはこうして富と権力を独占する』オーウェン・ジョーンズ著(海と月社、2018年)

評者:高安健将(成蹊大学法学部教授


内容紹介

1. 怒りと希望の書

本書を一言で表現すれば、怒りと希望の書ということになろう。

なぜ一般の人々は厳しい資本主義のルールを課される一方で、既得権益をもつエスタブリッシュメントは、これを免除され別のルールを適用されるのか。大多数の人々は「ますます沈むか、勝手に泳ぐことを期待され」る一方で、エスタブリッシュメントに対しては「国家が彼らを支援し、必要があれば救済する」。英国はダブル・スタンダードの国である。これこそ著者・ジョーンズがみた現代英国の実像である。

著者は決して、エスタブリッシュメントが意識的、組織的に陰謀を巡らせてこうした現状を作り出したと主張しているわけではないし、彼らが「悪い個人」だと批判するわけでもない(p.408)。しかし、現実にエスタブリッシュメントは一般の人々とは違うルールで守られ、度を超えて優遇されている。問題は、エスタブリッシュメントが、民主制の中で、自分たちの利益を守る制度的、知的な手段を握っているシステムにある。

本書は、上述のダブル・スタンダードや不正が決して自然なことでも不可避のことでもないのだと訴える。

2. 「オバートンの窓」

著者は「エスタブリッシュメントが私物化している民主的な権利と権力を、平和的な方法で取り戻す」(pp.373-4)上で、まずもって重要なのは、「オバートンの窓(Overton Window)」を動かすことだとみる。

「オバートンの窓」とは、右派のシンクタンクであるマキナック公共政策センターの幹部であったジョゼフ・オーヴァトン(Joseph P. Overton)の提唱した概念である。「窓」とは「政策的に見える世界」を示す比喩であろう。その「中核となる概念は、政治家が支持できる政策アイディアが限定されている、すなわち、政治家は、社会で正当な政策選択肢として広く受け入れられる政策しか一般的には追求しない、というものである」(Mackinac Center for Public Policyウェブサイト) 。

今日、英国の政治経済社会には、新自由主義的なイデオロギーが浸透し、「公的な資産を可能なかぎり私企業に移し、経済における国家の役割を軽視し、企業への課税を減らすよう働きかけ、現状を変えようとする集団や組織をことごとく押し戻す」(p.9)ことになっている。その一方で、資本主義経済を維持するためには、国が大企業や富裕層を引き付け保護する必要があるとの考えもまた広がっている。現状、このような考え方こそが「オバートンの窓」の中にあるというのである。

これを変えるには「オバートンの窓」を動かさなければならない。「オバートンの窓」を動かさない限り、現状の支配的な考え方に基づく政策は変わらない。

3. エスタブリッシュメントとは誰か

本書は、エスタブリッシュメントが既得権益をもち、法律に代表される制度を自らに都合のよいように設定してこれを維持する姿を克明に描いている。そのエスタブリッシュメントは自分たちが「それだけの価値があるからこそ、ますます権力と富を手に入れる」(p.402)と考え、こうした現状を正当化する。

本書に示されるエスタブリッシュメントの定義は必ずしも明確ではない。ただ、本書の構成をみると、エスタブリッシュメントの全体的なイメージは想像できる。

第一章「『先兵』の出現」は新自由主義イデオロギーを流布する経済学者やシンタンク、広告代理店、社会運動を扱っている。「先兵」たちの役割は、自由市場の教義が「新しい標準」であり、「ほかに選択肢はない」という意識を浸透させることにある。経済危機が起きれば、それは制御不能の金融機関の暴走ではなく、公共支出の多さのゆえに作り出された国家の失敗であると喧伝される。「先兵」たちは、オバートンの窓を現在の形に設定する上で、極めて重要な存在である。

第二章「政界と官庁の結託」は、タイトルとは異なり、政党と政治家を中心的検討対象としている。既成政党と政治家は、自らエスタブリッシュメントの一部となり、富裕層と大企業を優遇する政策を主導してきた。第三章「メディアによる支配」によると、マスメディアは、支配的な政治的意見に協力して異なる考え方を攻撃し、支配的イデオロギーを再生産することに貢献してきた。そして攻撃の矛先を社会の「最下層」に向けることで、「頂点にいる富裕層や権力エリートへの監視の目をそらせる」役割を果たしてきたという(p.110)。2008年の金融危機では、危機を引き起こした人々ではなく、移民や生活保護受給者、公務員といったいつもの攻撃対象がまたもや悪者となった(p.401)。

第四章「警察は誰を守る?」は、エスタブリッシュメントの対抗勢力を抑え込む実力組織となった警察について論じている。エスタブリッシュメントは、警察を労働運動から切り離すべく遇し、抵抗する人々に対する権威主義的な対応を促した。しかし、皮肉なことに、近年、エスタブリッシュメントの反対派が抑え込まれたことで、警察も存在意義が低下し、「改革されていない最後の公共サービス」として雇用削減や民営化の波に晒されている。

第六章「租税回避の横行と大物実業家」は、大企業と富裕層がいかに租税回避を行い、4大会計事務所がいかにこれに加担しているかを描いている。本章では、租税回避が社会保障費の不正受給とは異なり合法であるとの指摘があることに対し、4大会計事務所が制度設定に当初より関与した上で租税回避を合法にする抜け道を顧客に指南している「不正」のからくりを強く批判している。

第五章と第七章こそエスタブリッシュメントの本丸と言える。第五章「国家にたかる者たち」では、富裕層と大企業が「国家は悪であり、企業家の才能の妨げ」(p.212)であると主張するにもかかわらず、実際には一般の人々の犠牲の上に国家からの支援を受ける様子が描かれ、彼らがいかに国家にたかっているかが赤裸々に示される。第七章「金融界の高笑い」によれば、金融界シティこそが「もっとも純粋なかたちで表現されるエスタブリッシュメントのメンタリティ」をもつという。そのメンタリティには二つの面があり、「ひとつは国家に対する猛烈な反発(納税への抵抗と、政府のあらゆる規制への強烈な敵意が特徴)、そしてもうひとつは、国家への依存」(p.306)である。

現代の英国社会はこのようなダブル・スタンダードによって支配されていると著者は訴える。エスタブリッシュメントはこうした仕組みを作り、維持し、他の選択肢を排除することに邁進しているというのである。

4.富裕層と大企業のための社会主義

それでは富裕層と大企業はどのようにして国家に支えられているのか。

本書では実に多様な例が列挙されている。道路、空港、鉄道などのインフラ整備、資金調達のための低金利政策、石油・ガスの精製と油田・ガス田に対する課税控除などは代表的例であろう。

鉄道網は1980年代以来民営化されてきたが、民間投資が集まらず、税金で補助されてきた。にもかかわらず、乗車運賃は高額な上に上昇傾向にある一方で、利益は配当となっていく。

原子力産業は補助金を受けるばかりでなく、有限責任で守られており、大災害があったとしても賠償は限定的な額で済む。賠償の残金は公金で賄われることになる。そのおかけで、原子力発電業者の支払う保険料は著しく低く抑えられている。本書によれば、「将来の廃炉と各廃棄物処理の財務負担も・・・そのほとんどは国が肩代わりする」とある(p.219)。

教育や職業訓練の公的制度も個人のためとも言える一方で、企業が公的資金による制度にただ乗りしているという見方もできる。公的に支給される住宅手当も、低賃金に対する補助の意味合いがあり、民間賃貸業者への支援となっている。これは公営住宅の提供と家賃規制の失敗の帰結であると著者は指摘する。そして、減少する賃金を補填するタックス・クレジット(給付付税額控除)はまさに経営者への補助金であるという。

近年、福祉や公共サービスを民間企業が提供する場面も増えている。しかし、高額が公的資金で支払われるのにサービスの効果が疑わしいものも目立つ。利益は、労働者の賃金を下げ、労働条件を悪くすることで確保され、経営陣と株主に回される。民営化や公有資産の売却が進む一方で、医療や介護の分野では、競争や選択肢が増えたりサービスの向上やコストの低下が起きるということはない。著者は、英国を「医療まで食い物にする国」(p.246)と表現する。

何より、2008年の金融危機の際に行われた銀行の救済は「究極の補助金」であった。経営者は失敗をしても説明責任を果たさず、責任も取らされない。にもかかわらず、救済だけはしてもらえる。

エスタブリッシュメントの活動については、著者の言葉によれば、「リスクと負債は国有化されて国民が引き受ける反面、利益が出る部分は私有化される」(p.225)。「要するに、エスタブリッシュメントが尊重する『自由市場』は、幻想の上に成り立っている。現代イギリスでは社会主義が隆盛である、と言う議論ができるかもしれないが、だとしても、それは『富裕層と企業のための社会主義』だ」(p.224)と本書は喝破する。

5. 思想的な戦いとしての「民主革命」、そして日本は?

問題は、英国の政治経済社会に間違いなく存在する。それでは本書はどのようにせよと論じるのか。

本書には様々な提言も出てくる。しかし、最も重要なのは「オバートンの窓」の設定を変えることであるという。「エスタブリッシュメントの非公式なスローガン『この道しかない』を信じこませる戦略は、これまで恐ろしいほどイデオロギー的な勝利を収めていて、人々のあいだに受忍とあきらめのムードを作り出し、抵抗の意欲をそいでいる」(p.347)。それゆえに、「人々の経験や希望に共鳴する説得力のある理論を築く必要」があるという。

もちろん、著者は対抗理論の構築が容易だとは考えていない。「理路整然としたほかの選択肢がないかぎり、社会に行き渡ったあきらめはつづく」。「社会の大きな変化は、その主張に充分な数の人々が勇気づけられ、これは実現可能だと自信を持ったときに初めて起きる」(p.383)。そのためには、対抗する側にも効果的な「先兵」が必要である。

反エスタブリッシュメントの動きには「まとまり」も欠かせない。しかし、現状をみれば、被害にあう一般の人々の間には分断とまとまりの欠如ばかりが目立つ。個人主義を標榜するエスタブリッシュメントとは対照的である。

本書は、多くの例を挙げつつ、ダブル・スタンダードが行き渡る英国社会の実情を暴いている。もちろん、エスタブリッシュメントと一般の人々の関係については、その境界線がどこにあるのかが曖昧であるために、問題にされる「富裕層」や「大企業」が誰なのかや、両者の関係が常にゼロサム的であるのか、それとも制度や思想が変われば共存が可能なのかなど、はっきりしないことも多い。その境界線次第で、本書の主張がどれだけ支持を得られるかも変わってくるかもしれない。本書は、人々を二分し分断を促す闘争の提案か、それとも人々をまとめていく書となるであろうか。

それでは、翻って日本社会はどうか。本書が強調する「イデオロギー汚染」はどの程度社会に浸透しているであろうか。

世紀転換期に破綻した日米の企業、エンロンと山一証券の経営者の違いが思い出される。実態としてもイメージであるとはいえ、エンロンの旧経営陣が経営破綻後も違法なことはしていないと主張して開き直り被害を受けた人々に対する配慮をまるで示さなかったのに対し、山一証券の社長が(会社としては確かに大規模な不正をしていたとはいえ)経営陣の責任を認めて社員を庇い涙する姿を見せていた。後者はやはり「日本的」であった。

さて、その後、「エンロン的」な企業は日本で主流になってきたであろうか。そして、ダブル・スタンダードを実施し恩恵を享受する生態系(エコシステム)、つまり政治エリート、(超)富裕層+大企業、会計事務所、警察、シンクタンク・広告業界、マスメディアの連合体は存在するのだろうか。政策の体系はどうだろうか。対抗権力は存在するのだろうか。

実は本書は多くの公的に発表された情報に依拠している。議会特別委員会や会計検査院の調査や報告書であり、マスメディアによる報道もある。英国では「既知の情報」も日本で「既知」となるかどうか。日本の現状をより良く知るためにも、公的機関とマスメディアによるいっそうの情報提供が期待される。

さて、以上の議論を踏まえた時、今日の日本社会はどのような姿にみえるであろうか。

高安 健将

  • 成蹊大学法学部教授